「武士」とは?
そして、彼らの「正義」とは?
その一端を示すのが、「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅ てならいかがみ)」の「寺子屋の場」という悲しい話である。
この物語の舞台は「平安時代」。
「藤原時平」の讒言によって失脚した「菅原道真」は、左遷先された九州(大宰府)で怒りとともに死没。
その菅原道真には、難を逃れて寺子屋に匿(かくま)われていた実子「菅秀才(7歳)」がいたのだが、その事実が敵方である藤原時平に露見。
秘されていた事実を知った藤原時平は、非情にも菅秀才の「殺害」を命じる。「菅秀才の首を打て!」
さて、困ったのは菅秀才(7歳)を寺子屋に匿っていた「源蔵」である。源蔵は菅原道真の家臣であり、主君の子供を手にかけるなど、もってのほか。
と、そこに一人の子供が寺子屋に入門してくる。「小太郎」という名のその子供は、田舎の子供とは思えぬほどの器量を備えており、菅原道真の遺児・菅秀才に勝るとも劣らない。
その小太郎を見るや、源蔵は悲壮な決意を胸にする。「この子(小太郎)を、菅秀才の『身代わり』にしよう…」、と。
菅秀才の首実検に来るのは「松王丸」。松王丸は菅原道真の元家臣でありながらも、今は敵方・藤原時平についている。
松王丸はかつて菅原道真に仕えていたこともあり、遺児・菅秀才の顔はよく知っている。
さあ、源蔵が身代わりにした小太郎の首は、ニセ首とバレるのか?

緊迫の場面。
松王丸は静かに首桶のフタを開ける。
そして、中の首を一見して一言…。「菅秀才に相違ござらぬ」。
身代わりとなった小太郎、じつは松王丸の実子であった。
松王丸が首実検で見たニセ首は、己の息子の首だったのである。
松王丸は菅原道真への恩に報いるために、なんと自らの子供を差し出したのであった…。
この物語の舞台は平安時代であり、武士の時代ではないものの、この演目が持て囃されたのは「江戸時代」。
すなわち、この物語には江戸時代の武士たちの価値観が如実に表されているのであり、その価値観に当時の人々は皆涙したのである。
その価値観とは、親子の「愛情」よりも、君臣の「忠義」の方が上にあるというものである。
そして、これが新渡戸稲造の示す「武士道」ということになる。
新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)が名著「武士道」を著したのは明治時代(1900)。
アメリカ(カリフォルニア州)で書かれたという「Bushido(武士道):The Soul of Japan」は、英文こそが原著であり、日本語訳が出るのは、英文の武士道が世界的な評価を受けた後のことである。
なぜ、新渡戸稲造は英語で「武士の道」を描いたのか?
ある時、新渡戸は外国人にこんな質問を受ける。「宗教を持たない日本人は、いかにして『道徳心』を養うのか?」
思わず、答えに詰まる新渡戸。そこで一考して、ふと思い至る。「日本人には、武士道があるではないか、武士道こそが日本人の心を育んできたのではなかろうか」、と。
新渡戸の生年は1862年、江戸時代の最末期であるが、彼の家は代々盛岡藩に仕える「武士」の家柄であった。
のちに高名な学者となる新渡戸であるが、若い頃は熱血な硬骨漢であったのだという。
ある日、学校の掲示板に「学費滞納者」の名前が張り出される。そこには新渡戸の名もあった。
激昂した新渡戸、その場でその紙を破り捨てるや、「こんな紙切れに俺の生き方を決められてなるものか!」と絶叫し大暴れ。退学寸前の大騒ぎにまでなったという。
その頃の彼のアダ名は「アクチーブ」。過激な活動家を意味し、テロリストまがいの響きも持つ言葉である。
そのアクチーブが手の平を返したように大人しくなるのは、新渡戸が「キリスト教」と出会ってからである。
学校で喧嘩が起こっても、「キリストは争ってはならないと言っている」と言って喧嘩を止めたり、議論をフッかけられても「そんなことより聖書を読みたまえ」と全く取り合わない。
その頃までに、新渡戸は「モンク(修道士)」というのが彼の新しいアダ名になっていた。
新渡戸稲造の名が不朽のものとなるのは、彼が「国際連盟の事務次長」に選ばれた(1920)ことが大きい。
その大抜擢を後押ししたのは、著書「武士道」が各国語に翻訳され、世界中でベストセラーとなっていたことでもあった。
この書は、アメリカ大統領(セオドア・ルーズベルト)はじめ、各国の有識者連中の高く評価するところであったのだ。

「Bushido(武士道)」の出版された1900年という年は、日本が大国・清(中国)を日清戦争にて打ち破った数年後であり、世界が日本に注目し始めていた時期でもあった。
未開で野蛮だと思われていた小国・日本。なぜ、大国・清に勝つことができたのか?
そんな疑問を抱いていた世界の有識者たちは、新渡戸の著した「武士道」を読んで得心のいくところもあったのだという。この書には、日本人の「高い倫理観」が示されているのである。中には、数年後の日露戦争における日本の勝利を予感した人もいたとまでいう。
「倫理」とは、ある種の「制約」であり、その制約が共同体を維持・発展させていくのである。
武士たちが最も大切にした「倫理」は、新渡戸によれば「忠」となる。
「忠」とは、主君に忠実に仕える心に他ならず、その心は冒頭でご紹介した「菅原伝授手習鑑」にも示されているところである。
そして、その「忠」を支えるのが、「義」となる。
「義をたとえて言うなれば、人間の身体の『骨』のようなものであり、その義(骨)があるからこそ、世の中に『立つ』ことができるのである」
さらに、「義」と表裏一体の関係にあるのが、「勇」ということになる。
「義を見てせざるは、勇なきなり(孔子)」
不正や卑怯を目にしながら何もしないのは、「勇」がないからであり、「義」の心に反するものとなる。

「勇」と「義」に裏打ちされた「忠」は、単なる従順さを示すものではない。
主君の行いが「義」に反すると感じたならば、武士は命を賭けて主君を諌(いさ)めるのである。
「自分の血をそそいで、主君の知性と良心に最後の訴えをするのが道である」
新渡戸稲造の武士道によれば、武士には「ノブリス・オブリージュ(高貴な身分に伴う『義務』)」があるのだという。
土を耕さずとも食っていける武士たちは、高い身分にあるがゆえに、ある種の社会的責任を果たす「義務」がある。
その義務というのが、「勇を持った義の心で、主君に忠たること」であり、時には命を賭けることでもある。
そして、その「忠」は世のため人のためである以上に、己のためでもある。
最高の忠を示した武士は、後世語り継がれるという「最高の誉(ほま)れ」を得ることができるのである。
主君のために戦い、そして主君の眼前で死ぬことが、武士としての最高の名誉であった。その戦いとは、敵方との戦いの時もあれば、主君を諌める主君との戦いでもあったのである。
アメリカに渡った新渡戸は、欧米人と日本人の価値観の違いに驚いたという。
新渡戸の見た欧米人たちは、「拝金主義」であり「唯物(物質)主義」であった。そして、その価値観の根底には「個人主義」を見た。
新渡戸は著書「武士道」によって、その両者の価値観の違いを明らかにしたのであり、日本人(武士)が「社会全体の義務を負うように教育されていた」ことを示したのである。
新渡戸は両者の違いを、以下のように象徴的に記してもいる。
欧米人は「バラ」の花を好む。華やかな色彩と濃厚な香り。
しかし、バラはその美しさの下に「トゲ」を隠し持つ。
朽ち果てる時は、生に執着するがごとく、その屍(しかばね)を枝の上に晒す(枯れても花が落ちない)。

一方、我々日本人が愛するのは「桜」の花。淡い色彩とほのかな香り。
その美しさの下には、刃(やいば)も毒も隠していない。
散りぎわの潔さは、まさに死をものともしない武士道の精神そのもの。そして、これこそが「日本の姿」なのである。

「花は桜木、人は武士」
これは、一休禅師の言葉である。
出典:100分de名著
新渡戸稲造“武士道”
第1回「正義・日本人の美徳」