2012年02月01日

森に生きた縄文人。森を伐って稲を植えた弥生人。「あがりこの森」の示すものとは?


「あがりこ」というのは、「ブナの奇形樹」のことである。

そのブナが、なぜ奇形になったかと言えば、人間がそのブナの枝を切りながら、薪や炭として利用していた時代があったからである。



枝を切られたブナの木は、切り落とされた部分から「萌芽」を生やして、枝を再生させる。

人間による枝切りと、ブナによる再生が繰り返されたことにより、そのブナは次第にゴツゴツとコブがちになり、立派な「あがりこ」となっていったのだ。

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鳥海山(秋田側)には、「あがりこの森」と呼ばれるブナ林があり、その森の中では、変形しながらも逞しく生きるゴツゴツしたブナたちが今も元気に育っている。

その「あがりこ」たちの中でも、ひときわ目を引くのは「あがりこ大王」と呼ばれる巨木であり、その樹齢は300年以上と推定されている。



「あがりこ大王」が芽を出したのが300年前だとすると、日本は江戸時代(1700年)。

あがりこ大王は江戸の民とともに生き、彼らに枝を分け与えながら、明治・大正・昭和…、そして現代にまで生を繋いできたことになる。



森の民の知恵は深い。

彼らは森の木々を切りながらも、木々を殺すようなことは決してしなかった。あがりこ大王が切られ続けてなお、300年以上も生きながらえているのが、その証左でもあろう。

秋田のような北限近くのブナの平均樹齢は170年程度と考えられているが、あがりこ大王はその平均寿命の2倍近くも生きているのである(人間ならば140歳!)。そして、今なお健在なのだ!



通常、ブナの成木は根元から斬られてしまえば、斬られた切り株から新しい芽(萌芽)を出すことは、まずない。成熟したブナの根幹は一代限りなのであり、新たな生命は次世代の「種」から育まなければならない。

それでは、なぜ「あがりこ」は人間に切られながらも、萌芽を出し続けたのであろうか?



それは、知恵深い森の民がブナを「根元から斬らなかった」からである。

彼らが斬るのは、深い雪の中に埋もれたブナが「雪上に顔を出している部分」のみ。この部分を切る限りにおいてのみ、ブナは再生を続けることができるのだ。

雪の降り積もる冬期間にブナを切ることには、別の理由もある。足元を邪魔する低木やササ藪などが雪の下に沈めば、高木であるブナに近づきやすいし、切った後の運搬も、ソリに乗せて引いていけるので楽なのである。



また、「適度に切る」という行為は、樹木を活性化させもする。「切られる」という適度なストレスが樹木にかかることにより、樹木はより生命活動を盛んにするのである(切られた部分からは、2本も3本も枝を伸ばそうとする)。

「あがりこ大王」は薪を与えて人間の生命を育みながら、人間によって適度に鍛えられ続けていたのでもあろう。そして、この程良い共生関係が、あがりこ大王に稀有な長命を与えたともいえる。



ある人によれば、こうした森とともに生きる知恵は、「縄文時代」に育まれたのだという。

縄文の昔、日本の人口の90%は「東日本」に暮らしていたのだそうだ。なぜなら、「稲作」が日本に伝わる以前、人間が食糧を確保できる場所は、ブナなどの茂る「落葉樹の森」が主体になっていたからだ。



ところで、西日本にも森はあるはずなのに、なぜ縄文の人々の多くは東日本の森に住むことを選んだのか?

それは、西日本の森の多くが「常緑樹」に覆われていることが、大きな原因だと考えられている。(西日本の落葉樹は、標高1,000mを超えるような高山地帯にしか見られない)。

暖かい西日本に「落葉樹」は少なく、寒い北日本には「落葉樹」が多い。それゆえに、縄文の民は落葉樹の多い東日本に暮らし、森の知恵を深めていったのである。



西日本に多い常緑樹の森というのは、年間を通して「薄暗い」。木々が葉っぱを落とさないということもあり、常緑樹は密に鬱蒼と茂り、その薄暗さのために他の動植物を寄せ付けないところがある。

一方、冬に葉っぱを落とす「落葉樹(ブナなど)の森」は、葉っぱのない冬期間はもちろん、葉っぱの生い茂る夏ですら、常緑樹の森よりも明るい。

この明るさゆえに、落葉樹の森には他の動植物が暮らしやすく(もちろん人間も)、多様性という豊かさに満ち溢れている。

要するに、東日本に多い落葉樹の森のほうが、「食の恵み」が豊かだったのである。




ところが、東日本優位の形成は、日本に「稲作」が伝わることにより「大逆転」することになる。

稲作に向いた土地というのは、「暖かい西日本」である。稲作は寒い東日本に不向きであり、東北や北海道などで稲作が可能となるのは、つい最近の話なのである。



稲作とともに日本にやって来た「弥生の民」は、鬱蒼とした西日本の森を次々と切り開き、稲作に向いた「明るい平地」を作り出していく。

そして、稲作の生産性の高さから、あっという間に「縄文の民」を凌駕するまでになる。

BC3世紀からAD3世紀の間の600年間、この逆転劇が日本を席巻し、圧倒的な生産力を誇った西日本に日本の都が置かれることともなった。



こうした革命は、なにも日本だけに限ったことではない。

日本では稲作という形をとって、森林を切り開いた文明が定着したわけだが、森林を破壊しながら文明を発展させていくという潮流の源は、チグリス・ユーフラテス(中東)に求めることができる。

花粉の分布を分析すれば、今は乾燥地帯である場所も、かつては豊かな森林が茂っていたであろうことが推測される。そして、その花粉の変遷を追うことにより、どのような経路で森林が消えていったかも、おおよその見当がついてくる。



農耕文明の発祥地でもあったチグリス・ユーフラテス地域は、およそ8,000年前から森林が姿を消しはじめ、その後、草原となり、最後には砂漠となった。

砂漠と化した地に長く留まることはできない。森林を失った彼らは、新たな森林を求めて、西へ東へと旅立っていく。そして、行く先々で同様の森林破壊を繰り返しながら、新たな砂漠を生み出してゆく。




西へ向かった人々はヨーロッパに至り、森を食い潰しながら地中海文明を栄えさせた。

東へ向かった人々は中国へ至り、黄河流域の落葉樹林を活用して大文明を発展させた。



その森林破壊の旅は、5,000〜6,000年前、西はアルプス山脈、東は日本海にまで至る。

そして、森林破壊のまだ及んでいなかったアルプス山脈より北に住むゲルマン民族や、日本海の向こうにいた縄文人たちは、野蛮で未開な民族とされ、その地は辺境だと考えられていた(じつは、それら辺境の地こそが、豊かな森林に育まれた豊穣の大地だったのだが…)。



西の地中海文明が周辺の森林を平らげた時、彼らはアルプス山脈を越え、野蛮なゲルマン人を征服した(ローマ帝国)。

そして、東へ向かった群れは、朝鮮半島の風景をアカマツ一色に変えた後、日本海を渡り、稲作とともに日本列島へ上陸したのである(弥生時代)。



森林を伐採して、生産性の高い農地を作るという作業は、のちの工業化にとって、大いなる「下地作り」ともなっていた。

平らにした農地に工場を建てることは、じつに容易なことであり、農地の開拓が進んでいた地域ほど、工業化も早かった。そして、工業化という作業が、ひとまずの終着点ともなって現代に至る。

「森を押しのけた」という点において、農業化と工業化は共通しており、双方ともに時代に一大変革を巻き起こす結果となったのである。



ところで、世界を一変させた農業化と工業化の流れは、その後に何を残したのだろうか?

かつての文明地を振り返ると、そこに残されているのは「砂漠」ばかりである。なぜ砂漠化したかと言えば、無思慮に森林を伐採してしまったからでもあろう。

森を失った過去の文明地は、今や「搾りカス」のようですらある。



略奪的な森林の伐採は、時の文明を栄えさせた。

しかし、略奪的な発想には当然「限界」があり、限界を迎えるたびに、文明の地を変え、文明の主を変えていく必要があった。

その取っ替え引っ替えにも当然「限界」があり、その変遷の末の現代世界には、もはや「新天地の森」は残されていない。



弥生時代から始まった稲作は、日本という国を一大国家に仕立て上げたわけだが、その陰には明らかに失われていったものもあることを忘れてはならない。

現在、日本に残る原生林は、それほど多くはないのである。



貨幣の価値観に従えば、山林ほど価値の低いものはない。

山林に生える木々の金銭価値も低ければ、深山の傾斜地など、土地として二束三文の価値もない。

その当然の帰結として、貨幣経済の終着駅に山林が残っている可能性は極めて低いと言わざるを得ないであろう。それは、ここ半世紀で失われた膨大な日本の山林が物語るところでもある。



現代の人類は、もうすぐ地球を食べ尽くそうとしているのかもしれない。化石燃料(石油など)の底が見え始め、森林なども目に見えて激減した。

食べ放題だと思っていたそれらの資源は、明らかに有限であったのだ。

意気揚々と進めてきた農業化・工業化は、その実「略奪的」だったのであり、「持続不可能」だったのである。



それでも、我々の乗る船は急には向きを変えられない。たとえ、行く先に滝壺の気配を感じたとしても、その滝壺目指してまっしぐらである。

最悪の事態を回避するには、発想を大転換させるという大舵を切る必要もあるのだろう。



さて、どんな方向に舵を切ったらよいものか?

そこでふと思い浮かぶのは、再び「あがりこ」の姿であった。

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人間に散々に切られて奇形と化したブナ、「あがりこ」。しかし、その切り方は、決して略奪的ではなく、むしろ樹木を大きく長く育てる切り方であった。

この発想は、ついぞ「弥生の民」には見られぬものであった。古くから森とともに生きた「縄文の民」ならではの知恵だったのである。



日本に縄文の民がいたことは幸いであった。

彼らの持続可能な知恵が、弥生の民をも感化し、日本列島には各所で再生可能な農業が根付くことにもなったのだから。

田んぼを耕しながら、山の恵みを得るという里山スタイルは、縄文文化と弥生文化のハイブリッド形態であり、今になって世界中から注目されはじめているスタイルでもある。



縄文の民は、北では蝦夷(えみし)・アイヌなどと呼ばれて、不遇な歴史をかこってきた。

しかし、それでも彼らは耐え忍び、その知恵を絶やすことがなかったのである。



縄文人と弥生人の典型的な違いは、「丸と棒」で示される。

縄文人の世界観は「丸」である。その丸は、自然の事物が同一の地平上で巡り巡ることを示している(ストーン・サークルなど)。

かたや、弥生人の世界観は「棒」である。大地に垂直に立てられて棒は、天と地をつなぐものであり、そこには明らかな上下関係、支配・被支配の思想が示されている(神を数える単位は「柱」であり、その柱こそ棒の発展型である)。

要するに、縄文人は「自然の横」に並ぶことを好んだが、弥生人たちは「自然の上」にアグラをかきたがったのである。




日本列島においては、両者の思想がゴチャ混ぜになり、その結果として略奪一辺倒となることは避けられたが、世界に目を向けると、略奪一辺倒と化した痕跡は幾多と見い出せる。

典型的な欧米型の発想は、基本的に略奪的な要素を持つものであり、自然の上にアグラをかきながら、自分の乗っている自然を食い潰すのが常なのである。



日本に残されたブナの森に何を想うのか?

その森に生きる動植物の、なんと多様なことだろう。

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「あがりこの森」のある鳥海山の裾野は、四方に向けて豊かに広がり、恵みを求める人間たちを喜んで迎え入れんとしているかのようでもある。

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森とともに生きることを選んだ民は、幸せでもあった。

自然に寄り添い続ける限り、行き止まりなどはなかったのだから。



森を押しのけた民は、儚(はかな)かった。

盛者必衰、諸行無常…。一瞬の煌(きらめ)きが永続することは、ついぞなかった。



今、「あがりこの森」は深い深い雪に閉ざされている。

かつての民は、この厳しい冬に「あがりこの森」に足を踏み入れ、薪を切ったり、運んだりと忙しかったのでもあろう。



現在の「あがりこの森」は、象徴的な存在に過ぎないのかもしれないが、その森で育まれてきた知恵は、これからの将来、大いに必要とされるものでもある。

あがりこの森がある限り、そこに希望は湧きいでてくるはずなのだ。



しかし、「あがりこの森」の価値が見いだせなくなった時、それは我々が自らの運命を決する時なのかもしれない。

さすがの「あがりこ」と言えども、根元から伐られれば、その命は絶たれてしまうのである…。




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出典:さわやか自然百景
鳥海山麓の森


posted by 四代目 at 13:19| Comment(0) | 山々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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