「コーヒー、一杯50円です」
そう書かれてはいる。しかし、箱にお金を入れずとも、コーヒーメーカーからは自由にコーヒーを飲むことができる。
さて、あなたは50円を払うかどうか?

イギリスのある実験によれば、この状況下でお金を払う人は「一割(10人に1人)にも満たない」という結果が出た。
ところが、「一杯50円」と書かれた紙に「ある写真」を添えたところ、お金を支払った人の数は実に7倍の「7割(10人に7人)」にまで急上昇したという。
さて、その「ある写真」とは?
それは、「人の眼」である。
「見られている」と思うことで、多くの人がお金を支払うようになったのである。
この実験結果の示唆するところは、「人間は『他人の監視』に敏感である」ということだ。

このような「人の目を気にする」という性向は、人類発展のカギでもあったという。
なぜなら、他人の目を気にしながら、他人に配慮して生活することで、「より大きな集団」を形成することが可能になったからである。
もし、他人構わず自分勝手に振る舞うのであれば? その集団の数は「大脳新皮質」の量に相関するのだという。
「大脳新皮質」というのは、脳ミソの表面を覆う膜のような組織で、動物が進化するほどに、その厚みを増すものと考えられている。
テナガザルの一集団の頭数は、およそ「15匹」。ゴリラであれば「35匹」。チンパンジーであれば「65匹」。
そして、脳ミソに対する「大脳新皮質」の割合は、テナガザル「2.08%」、ゴリラ「2.65%」、チンパンジー「3.2%」となり、大脳新皮質の割合が大きければ大きいほど、大きな集団を作っていることが判る。
他の動物よりも進化したとされる「人間」の大脳新皮質の割合は「4.1%(テナガザルの2倍、チンパンジーの1.3倍)」。
当然、一集団の数も人間の方が断然多い。その数、およそ150人(テナガザルの10倍、チンパンジーの2.3倍)。人間の一集団の数「150人」というのは、地球上で原始的に暮らす人々の平均的な数を基準にしている。

なぜ、一集団の数が限定されるかといえば、まとまって暮らすには、それなりの知性が必要でもあるからだ。知性によって、ある種の集団ルールを守れなければ、一緒に暮らすことはできない。
そして、その知性を測る指標の一つが、大脳新皮質の割合ということになる。知性があることで、「他人の目」を気にすることもできるようになるのだ。
もし、その知性を超えた数の集団を形成しようとすれば、いずれ喧嘩別れすることにもなる。他人の目による「抑止効果」にも限界があるのである。
ところが、人類の知性は、他人の目以上に「抑止効果」をもつモノを発明した。
それは「武器」である。
集団のルールを破った者を、武器で懲らしめたり、武器をチラつかせることで、強制的に集団内の規律を保つ方法を人類は進化させてきた。
オーストラリアの原住民である「アボリジニ」は、ルールを破った者をヤリで刺して、見せしめにしたという。
一度目は踵(かかと)。これは致命傷にはならない。二度ルールを破れば、太モモ(まだ、死なない)。三度も破れば、胸(即死)、といった具合である。
少々残酷な感もあるが、こうでもして集団の規律を維持しなければ、肉体的に「非力」な人類が生存することは不可能だったのである。一人一人は非力でも、大きな集団を作れば、大きな力となったのだから。
大きな集団を作れるようになったことで、現代の人類「ホモ・サピエンス」は生命をつなぐことができた。
実は、我々「ホモ・サピエンス」には、過去に強力なライバルがいたのである。そのライバルとは「ネアンデルタール人」。
ネアンデルタール人は我々とほとんど同じような人類であったという。ただ、彼らの「力」はケタ外れに強かった。骨肉隆々、オリンピックで競い合えば、ネアンデルタール人たちがメダルを独占するのは必至だったであろうと言われるほど、肉体的に優れていた人類である。

それほど強かったネアンデルタール人であるが、結局は現人類である我々「ホモ・サピエンス」に勢力図を奪われることになった。
ネアンデルタール人は膂力(りょりょく)に長けていても、頭が弱かったのか? いや、そうとも言い切れない。脳ミソの大きさは変わらず、両者ともに同じような「石器」を使っていたのである。
では、何が勝敗を分けたのか?
それはホモ・サピエンスの「非力さ」だったという。
弱っちいホモ・サピエンスは、集団としてまとまらなければ、強力なネアンデルタール人には対抗できなかった。
それゆえ、ホモ・サピエンスは人一倍「他人の目」を気にする性質を身につけ、より大きな集団を作るようになったのだという。
さらに、弱いホモ・サピエンスが「小さな獲物」しか獲れないことも幸いした。
強いネアンデルタール人は、大きな獲物をバカスカ獲っていたというが、地球が「氷期」を迎えるや巨大動物は激減。小さな動物を取るのが苦手なネアンデルタール人たちは、次第に食糧不足となっていった…。
小さな動物を狩るには、「飛び道具」が必要だったのである。
ヤリを遠くへ飛ばすのを補助する道具に、「投擲(とうてき)具」というものがあるが、この道具を使えたのは「ホモ・サピエンス」だけであったのだという。

自らの非力さをカバーするために、ホモ・サピエンスは「集団形成の知恵」を育み、「飛び道具」を駆使するようになった。
そして、その結果、強者ネアンデルタール人の勢いを凌ぐようにもなり、ネアンデルタール人に代わり、世界を席巻することとなったのである。そして、その子孫こそが現在の我々ということになる。
もともとは小動物を狩るための「飛び道具」であったが、その刃はホモ・サピエンス本人にも向けられるようにもなった。
先に記した通り、巨大化した集団を維持するための「抑止力」として、「武器」が使われるようになったからである。
武器が進化し、その飛距離や破壊力を増せば増すほど、人類は大人数でまとまることもできるようになった。
ヤリは弓矢となり、鉄砲となり、大砲ともなった。そして、核兵器ともなった。
現在70億人を超える人類「ホモ・サピエンス」は、こうした強力な武器により、お互いを監視し合い、ルールを破るものあらば、「制裁」という手段で懲らしめるのである。
大脳新皮質の割合だけに従えば、人類の集団は150人程度がせいぜい。
ところが、現在の国家の人口はそれよりもズッと多い。日本であれば1億人以上、アメリカは3億人以上、中国ともなれば10億人を超えるのである。
これほどの大集団を維持するには、その数に見合った強力な武器を欠かすことができない。しかし、その強力な武器が「争い」をも助長する。これが現在のホモ・サピエンスが抱えるジレンマでもある。
集団内の数が増すほどに、お互いが「争うリスク」も増大する。
争うリスクが増すほどに、他を凌ぐ強力な武器が必要になる。そのイタチごっこは、核兵器という武器に至り、ニラメッコのまま膠着状態に入っている。
ひとたび事が起こらば、ホモ・サピエンスは絶滅しかねないという危機感の中に、我々は生かされていることにもなる。
なぜ、ホモ・サピエンスは自らの首を絞めるほどに、お互いを厳しく監視し合うのであろうか?
その起源を遡れば、それはネアンデルタール人との抗争にまでたどり着く。ホモ・サピエンスは集団を大きくすることで、強大なネアンデルタール人を凌いだのである。
一方、個人の力が強かったネアンデルタール人は、弱いホモ・サピエンスのように群れることはしなかった。そのため、強きネアンデルタール人たちは、群れたホモ・サピエンスに追われてゆくことになったのでもある。
こうして、ホモ・サピエンスにとっては、集団化するということが、強力な「成功体験」になった。そして、その成功を支えたのが、集団のルールを維持するための「相互監視」だったのだ。
それゆえに、我々は「他人の目」を気にし、「武器」の前に萎縮するのである。
個人よりも集団を優先させてきたホモ・サピエンスは、集団ルールを破った者を「罰する」ということをも受け入れた。
むしろ、ホモ・サピエンスは「罰する」という言葉に、甘美さをも感じるのだともいう。
「罰する」という言葉を聞いた時、ホモ・サピエンスの脳は「側坐核」という部位の活動が活発化する。これは「快感」を感じている証(あかし)でもある。
つまり、我々ホモ・サピエンスは、社会のルールを破った者を「罰する」ことに「酔い痴れる」ことができるのである。
「正義」という言葉が尊重され、悪さをした者は「罰せられて当然」と我々は考える。勧善懲悪、信賞必罰。これらこそがホモ・サピエンスの集団に特徴的に見られる傾向である。
しかし、ここで我々は少々冷静にならなければならない。
何のために他人を罰するのか? 何のために正義を行使するのか?
勧善懲悪とは言えども、善とは集団にとっての善であり、悪とは集団にとっての悪である。つまり、善悪の基準はその集団によって異なることにもなる。
それは宗教の示す善悪とて同じことで、全人類にとっての絶対的な善悪という規定は極めて難しい。その基準を強いて求めるのならば、それは「生き残ったか否か」という「結果論」を待たなくてはならない。
それは結果論なだけに、事前に知ることは困難であると同時に、その結果が将来にかけて通用するかどうかも定かではない。
集団化して生き残ったホモ・サピエンスの成功体験が、今後、新たな成功をもたらすのか?というと、それは疑問の多いところである。
現に我々は、強力すぎる武器に監視されたまま、身動きが取れなくなってしまっているのではなかったのか?
我々ホモ・サピエンスは、そろそろネアンデルタール人に対する成功体験を忘れてもいい頃なのかもしれない。昔の成功体験は、時として新たな行動への重い足カセにもなってしまうのだから…。
幸いにも、ホモ・サピエンスの「本能」は、「罰する」という感覚を是認しない。逆に、「他人の痛み」にはことさらに敏感なのである。
他人が痛みを感じているシーンを目にした時には、脳の「島皮質」という部位が活性化する。島皮質が働くということは、「不快」に感じているということである。
つまり、ホモ・サピエンスの脳は、本来、他人の痛みを嫌がるようにできているのである。
ところが、他人の痛みが「罰である」と認識すると、脳の反応は激変する。
先にも記したように、「不快」を感じる島皮質の代わりに、「快楽」を感じる側坐核が反応するのようになるのである。
すなわち、「罰する」ことへの快楽は、「作られた感覚」なのである。それは、ホモ・サピエンスが生きぬくために作られた感覚なのである。
こうして人類の足跡を辿ってくると、我々が未来へ進むべき道も、おぼろげながらに見えてくる。
我々が過去において、何を必要としてきたのか?
そして、それは今も必要なのか?
現代の我々はどれほどの武器を必要とするのか?
武器がなければ、集団としての規律は保てないのか?
他人の目を気にし、他人の痛みに敏感である我々ホモ・サピエンス。
その純粋さこそが、今必要とされているのかもしれない。
そして、ホモ・サピエンスの最大の武器が「弱さ」にあったことも、忘れてはならない。
もし、「強さ」だけが生存を可能にするのであれば、ここにいるのはホモ・サピエンスではなく、ネアンデルタール人であったであろう…。
そう言えば、現代の若者たちは「飛び道具」であるスマートフォンなどを駆使し、ソーシャル・ネットワークと呼ばれる「群れる」仕組みを活発化させている。
これこそ、ホモ・サピエンスとしての真骨頂か?
出典:NHKスペシャル ヒューマン
なぜ人間になれたのか 第2集 グレートジャーニーの果てに


宗教を生み出す本能 進化論からみたヒトと信仰
と言うタイトルでした。