2012年01月29日

存在しなかったともされる聖徳太子。その存在に象徴されるものとは?


「聖徳太子」を知らぬ日本人は少ない。

それは、過去最多の計7回も「紙幣の顔」になったことにもよるのだろう(聖徳太子がお札になれば、経済は上り調子になるとまで言う人もいる)。

しかし、それほどに顔と名前が日本人に知られていながら、「聖徳太子はいなかった」という説がアチラコチラから度々浮上してくるのだが…。




「十七条の憲法」、「冠位十二階」、「遣隋使」などなど、歴史に残る業績がありながらも、なぜ、聖徳太子は「いなかった」と言うのか?

それは、聖徳太子の活躍した時代と、その活躍が「記述された時代」に大きな隔たり(およそ100年)があるからである。さらには、その大きな隔たりの間に、歴史的な大事件(大化の改新・645)が起こっているからでもある。



聖徳太子の業績が初めて記された歴史書は「日本書紀」であるが、日本書紀が成立するのは720年。聖徳太子の死後、100年近くが経過してからである。

また、聖徳太子とされる人物は、正式には「厩戸皇子(うまやどのみこ)」であり、聖徳太子という呼称は、没後130年以上のちに編纂された「懐風藻(751)」が初出とされている。

これらの歴史書は、すべて「大化の改新(645)」以降のものである。大化の改新とは、日本の政体を一変させた一大事であり、その改新により、歴史書の記述も大きく変化していくことになる。




つまり、この大化の改新により、聖徳太子に関する歴史的記述も一変したのである。

幸いにも、聖徳太子は大化の改新以降、過大に評価されることとなったのだが…。そして、その過大評価の一部をもって、「聖徳太子はいなかった」とも言われているのである。

なぜ、聖徳太子という存在が崇拝されるまでに高められていったのか? その理由を知るには、「当時の日本」を知る必要がある。



聖徳太子こと厩戸皇子が歴史の表舞台で活躍したとされるのは、およそ30年間。

ちょうど日本初の女帝である「推古天皇」の治世下においてであり、厩戸皇子は推古天皇の「摂政」として、国の政治を補佐したとされている(593〜622)。

時代区分としては、古墳時代の後、奈良時代の前の「飛鳥時代(592〜710)」ということになる。



聖徳太子登場以前の日本は、まだまだ一国としての体裁を整えていなかったという。

天皇という権力は存在していたものの、実際に力を振るっていたのは地方に林立する「豪族たち」であった。その豪族たちこそが「民と土地」を直接支配していたのである。

そのため、豪族たちは互いに争いあうことが常であった。特に有力だったのは、「蘇我氏」と「物部氏」である。両者は仏教を受け入れるか否かで激しく対立していた。

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その対立の中で即位したのが「用明天皇」。聖徳太子の父親でもある用明天皇は、仏教を是認する崇仏派であり、蘇我氏の喜ぶところであった。

しかし、不幸にして用明天皇は即位後わずか2年で没してしまう(疱瘡)。ここぞとばかりに物部氏が出張ってくるも、蘇我氏は物部氏の推す皇子(穴穂部)を暗殺。その後、蘇我氏は一気に物部氏を討伐してしまう。



物部氏を滅ぼした蘇我氏が即位させた天皇が「崇峻天皇」。当然、政治の実権は天皇にはなく、豪族・蘇我氏にあった。

腹を立てた崇峻天皇は蘇我氏との対立姿勢を鮮明にする。崇峻天皇は献上された「猪(イノシシ)」の目を刀で刺し、「憎き者を、いつかはこうして殺してやろう」と言ったとも…。

天皇に敵視された蘇我氏は、すかさず崇峻天皇を「暗殺」。臣下による天皇殺害(確定済)は、後にも先にも、この一事のみである。この時代は、それほど殺伐とした時代だったのであり、天皇といえども強大な豪族には逆らいえないところがあったのである。



暗殺された崇峻天皇の後に即位したのが「推古天皇」。そして、その補佐役とされたのが厩戸皇子(聖徳太子)である。当然、蘇我氏との合意の元である。

推古天皇は日本天皇家史上初の「女性」天皇であり、蘇我氏とも「血縁関係」を持つ。そして、厩戸皇子もまた、蘇我氏とは血がつながっているのである。



こうした背景を見るにつけ、推古天皇、ならびに厩戸皇子は、蘇我氏の都合に合わせた人事であったであろうことが窺い知れる。

蘇我氏は大敵であった物部氏を滅ぼし、己に逆らう天皇を暗殺し、ようやく安心できる天皇を戴くことができたのである。

天皇が女性であれば操り易いであろうし、蘇我氏が前面に出ていくよりは、血縁である厩戸皇子を立てておいた方が体裁も良い。



そんなこんなで、蘇我氏は権力闘争に明け暮れ、自身の足元しか見ていなかった。

しかし、厩戸皇子(聖徳太子)の目は「世界」を見ていた。そして、「日本の未来」をも見ていた。

「世界」とは、大国・隋(中国)であり、朝鮮半島(高句麗・新羅・百済)であった。そして、「日本の未来」とは、「天皇を中心とした国づくり」であった。

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聡明であった厩戸皇子は、つまらぬ内部抗争により国が廃れていく様を予見していたのであろうし、このまま豪族たちに力を持たせ続けるのは危険であるとも感じていたのであろう。

厩戸皇子は醜い争いの渦中におかれ続け、その無益さを痛感していたのかもしれない。



さっそく、厩戸皇子は大国・隋(中国)に使者(遣隋使)を送り、正式な国交を求める(600)。

ところが、その使者は大国・隋に一蹴され、国交を結ぶなどは論外と撥ねつけられてしまう。当時の日本の国体は、天皇の権力が弱く、政治的にもアヤフヤであり、正式な国書すら持参していなかったのだ。

大国・隋にしてみれば、日本人たちは海の彼方の未開の部族に過ぎなかった。そして、その未開の部族は、大切な国際舞台で大恥をかかされてしまったのである。



大いなる挫折を体験した厩戸皇子。

以後、積極的に他国からの人材や技術を受け入れ、雑多な渡来人たちを自身の本拠地「斑鳩(いかるが)」に集結させた。

この「斑鳩(いかるが)」という地は、他国の船が入ってくる「難波津」と、国の都である「飛鳥」のちょうど中間に位置し、外交には持ってこいの立地であった。

ちなみに、この地に造営された「斑鳩寺」と「斑鳩宮」だけは、紛れもなく聖徳太子にまつわる遺構であるとされている(これは太子否定派たちも認めるところである)。

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厩戸皇子は別名「豊聡耳(とよとみみ)」とも呼ばれるが、それは10人の話を同時に聞き分けることができたという伝説に由来する(一説には36人とも)。

この逸話を拡大解釈すれば、厩戸皇子が多くの人々の意見に耳を傾けたとも考えられる。そして、多くの人々とは他国から来た渡来人たちであったかもしれない。



多くの渡来人たちを抱える厩戸皇子は、国際情勢に精通するようになった。そして、その情報網を生かして、2度目の遣隋使を送るタイミングを虎視眈々と狙っていた。

一度目は大失敗に終わった遣隋使。2度連続の失敗は国家としての威厳に大きく関わる。



その絶妙のタイミングを厩戸皇子に囁いたのは、高句麗の僧侶「慧慈(えじ)」ではなかったか。僧侶「慧慈」は、厩戸皇子が仏法の師とも仰いだ人物であり、生国である高句麗の情勢に通じていた。

時は607年、この年、隋と高句麗の国境線には不穏な空気が漂っており、あわや大戦(おおいくさ)かとも思われていた。

厩戸皇子が2回目の遣隋使を送ったタイミングは、まさにその一触即発のその時である。隋がいかなる大国と言えども、高句麗と緊張関係にある中で、日本を邪険に扱うことはできなかった。



さらに、遣隋使が持参した国書の文面は、その後の歴史において忘れ難いほどの強烈な印象を世界に示した。

「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」

「日出づる処の天子」とは日本の天皇であり、「日没する処の天子」とは隋の皇帝である。わずか7年前に未開として一蹴された日本が、ここまで堂々と大国・隋に対峙したのである。

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この書を一見するや、隋の皇帝(煬帝・ようだい)は「激怒した」とも伝わる。しかし、それでもこの書により、日本と隋は正式な国交を開くことにもなった。

大国の皇帝を激怒させながらも、しっかりと国交を結ぶことに成功したとは、如何なる次第か?



一説には、この書は教養に溢れており、大国・隋といえども一目置かざるを得なかったとも言われている。

たとえば、「日出づる処」とは東方を意味し、「日没する処」とは西方を意味する。これは、「摩訶般若波羅蜜多経」の注釈書である「大智度論(だいちどろん)」にある一節である。国書の冒頭に、こうした「おっ」と思わせる引用がなされているのである。



隋の煬帝も「日没する」という縁起の悪い表現に激怒したわけではないと考える人々もいる。むしろ、「天子が二人いる」ということに憤慨したのだという。

中国の思想によれば、天子は「一人しかいない」のが常識であり、他国とはいえ、海の向こうにもう一人の天子がいるなどということは「けしからん」ことなのである。

隋の煬帝による返書を見ると、日本の天皇を天子ではなく「倭皇」としている。しかし、そのまた返書で日本側は「倭皇」ではなく「天皇」という呼称を明記している。



日本という国が隋に認められたのは、遣隋使を送ったタイミングや国書の秀逸さもあったかもしれないが、国として体裁を整え出していたことも忘れてはならない。

国の憲法とされた「憲法十七条」、豪族以外の優秀な人材を登用する道を拓いた「冠位十二階」など、新たな国づくりは着々と進められていたのである。

これらの業績は一般的に厩戸皇子(聖徳太子)の偉業とされるものであるが、最近の通説では、聖徳太子一人の仕事ではなかったであろうとも考えられている。しかし、それでも天皇の摂政である厩戸皇子が何らかの形で関わっていたであろうことは確かなことでもあろう。



日本の政体が「天皇を中心とした国」として確立するのは、大化の改新(645)以降であるとされている。そして、その国体が完成するのが奈良時代、710年の平安京ということになる。

それ以前は、各地に豪族たちが林立する殺伐とした国だったのであり、先に記したように、豪族たちの都合で天皇が変わってしまう時代でもあった。



飛鳥時代に制定された憲法十七条を読むと、そこには「人としての心得」が示されていると同時に、豪族たちの勝手を許さないという気迫も感じられる。

「和を何よりも大切とし、諍(いさか)いを起こさぬように。人々は群れたがるが、それでは人格者にはなれない(第一条)」

「天皇の命令を受けたのならば、謹んでそれに従うように。天皇が天であり、臣下は地である(第三条)」

「国には、二人の君主はいない。天皇だけが君主である(第十二条)」




飛鳥時代に示された「天皇中心」の統治体制は、その100年後の奈良時代に確立することになる。

そして、その道を初めて示した中心人物の一人が厩戸皇子(聖徳太子)ということにもなる。それゆえ、聖徳太子を称えることは、天皇中心の体制を強化することにもつながった。

大化の改新(645)以降、聖徳太子が必要以上に讃えられたのには、こうした理由もある。

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そんな理由もあって、その死後に聖徳太子は神格化されていくわけだが、その反面、厄介者である豪族の代表格だった「蘇我氏」は徹底して貶められていった。

厩戸皇子(聖徳太子)の死後、蘇我氏はその権勢を思うままに振るい、天皇を軽んずること甚だしい。推古天皇亡き後の「舒明天皇」、「皇極天皇(女性)」は蘇我氏の立てた天皇である。

大化の改新前夜の「乙巳の変」は、専横を極めていた蘇我氏を滅ぼした政変である。そして、蘇我氏亡き後、ようやく権力は天皇の手中に戻り、中央集権の国家が誕生していくことになるのである。

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歴史は勝者によって、書き換えられていく。

悪の根源とされた豪族・蘇我氏は、歴史書において逆賊とされ、新国家の理想像は聖徳太子に求められた。

その結果、飛鳥時代の悪行は、すべて豪族たちのせいとされ、同時代の偉業は、すべて聖徳太子に起因するものとされた。

こうして、聖徳太子は「さまさま」となったのである。



そういう意味では、聖徳太子は「いなかった」のかもしれない。

厩戸皇子は確かに存在したが、その実像は聖徳太子ほどに巨大ではなかったかもしれないからだ。



聖徳太子こと厩戸皇子には、その血を継ぐ皇子(山背大兄王)がいた。

しかし、蘇我氏はその皇子が天皇となり力を持つことを恐れた。その結果、山背大兄王は遠ざけられ、攻めたてられ、自害へと追い込まれた。

無念かな、蘇我氏の血をも引いていた厩戸皇子(聖徳太子)の血統は、蘇我氏によって、ここに絶たれたのである。



厩戸皇子も、その息子・山背大兄王も、天皇になる資格を持つ皇族であった。

しかし、厩戸皇子の聡明さは、蘇我氏の恐れるところでもあったのであろう。蘇我氏が山背大兄王を必要以上に警戒したことでも、それは窺い知れる。



だが、蘇我氏を滅ぼした新政権が喜んで厩戸皇子を讃えることができたのは、その血族が途絶えていたためでもある。

どんなに讃えようとも、厩戸皇子一族に権力を与えることにはつながらなかったからだ。もはや、彼らの一族はいないのだから…。



もし、山背大兄王の悲劇がなかったならば、厩戸皇子の名も逆賊の一味とされていたかもしれない。なぜなら、厩戸皇子も逆賊・蘇我氏の血を引く一族なのである。

幸か不幸か、その血が絶たれたことで、厩戸皇子はある意味、別格の存在となりえた。

そして、聖徳太子となり得たのである。



飛鳥時代の日本は、国としての形を模索していた時代でもあった。

そして、その形は次の奈良時代により、ほぼ確定し、天皇中心の制度は現在にまでつながることとなった。

聖徳太子という存在は、失われかけていた天皇家の求心力を取り戻し、それを現代にまでつなげたということになる。



豪族たちの小競り合いが続く中、世界を見つめ、日本の未来を慮(おもんぱか)っていた聖徳太子。

彼がいたか、いなかったか? その答えは簡単には出ない。

しかし、日本という国が、現にこうして存続していることこそが、過去の先人たちの偉業の結果なのであり、その偉業が誰の手柄かどうかは、また別問題なのである。



聖徳太子にまつわる伝説の一つに、「飛翔伝説」というものがある。

諸国から献上された数百匹の馬の中から、聖徳太子は一発で「神馬」を見抜く。

そして、聖徳太子がその神馬にまたがるや、神馬は天高く飛翔して、日本国中を巡ったという。



聖徳太子の想いは、飛翔するかのように日本を飛び出し、そして、時代をも飛び越えたていたのかもしれない。

そうした存在が、我々日本人の胸の内にあることは、大いなる誇りでもある。

聖徳太子が歴史に存在したかどうかよりも、そうした理想像が後世に示されたことの方に、大いなる価値があるようにも思う。




出典:BS歴史館 シリーズ英雄伝説(2)
 聖徳太子は実在したのか!?〜古代史の巨大な謎に迫る


posted by 四代目 at 09:50| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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