2012年01月27日

「木の民」とも呼ばれるトン族(中国)。日本民族との意外な共通点。


「杉」の葉っぱをムシャムシャと食らう男。

「一ヶ月に一度くらい食べると良い。血圧が下がるんだ」

そう言うのは中国南部の少数民族「トン族」の医者である。トン族は別名「木の民」とも呼ばれるほどに、木造建築の技法に長けており、長年、「杉の森」と共に暮らしてきたのだ。

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トン族の村を「壺中天」のようだと表現する人もいる。「壺中天(こちゅうてん)」とは、俗世間から離れた別天地を意味する。

昔々、薬売りの老人が店先の壺の中にスッと消え入ってしまう。それを見たある男は、その老人を仙人だと思い、一緒に壺の中に入れて欲しいと頼み込む。そして、その男が壺の中で見たものとは…、美しい山川、金殿玉楼であった(後漢書)。



トン族の村に入るには、「風雨橋」という屋根つきの壮麗な木造橋を渡っていく。彼らが住まうのは深い森の中であるのだが、その橋の先には、「鼓楼」と呼ばれる巨大な木造の塔を中心とした集落が広がることになる。

橋を渡って入村する様は、まさに壺中に入るようなものであり、そして、その壺の中には美しい村が燦然と存在しているのである。

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村に入る風雨橋を「三途の川にかかる橋」、つまりコノ世とアノ世の境に喩える人もいる。

日本では、生死の境を三途の川と表現するが、中国では「陰陽河」と言うそうだ。川の名前は違えども、「水」を隔ててあの世へ行くという思想は同一であり、同根でもあるのかもしれない。

トン族の風雨橋は死者の魂を送り出すばかりではなく、新しい生命が送られてくる場所でもあると考えられている。



トン族の村の象徴でもある「鼓楼(ころう)」は、「崑崙(こんろん)山」にも通じる。「崑崙山」とは、黄河の源ともされる伝説上の山であり、そこには仙女・西王母が住んでいるという聖なる山である。

また、鼓楼(ころう)は葫蘆(ころ・ひょうたん)にも通じ、そのヒョウタンは「吉祥水」という聖なる水を吐くともされている。つまり、トン族の鼓楼の象徴するものは、魂の源ともされる霊山であり、聖水をもたらす泉でもあるのである。

聖なる鼓楼から噴出する吉祥水は、村に福をもたらし、風雨橋はその福が村外に流出するのを防ぐことになる。そうして、鼓楼の福気は村に充満する。

福に満たされた壺、それがトン族の村である。

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村民たちが一丸となって造営する「鼓楼」は、高さ20mを超える高層建築でありながら、金属は釘一本さえも使われていない。木に穴を穿って、その穴に木を通したり、ホゾを組んだりして造りあげていくのだ。

杉を模したという鼓楼は、10数層(奇数層が多い)の屋根を持ち、その形状は六角形や八角形(偶数形が多い)である。



これほど複雑な建築物でありながら、鼓楼には「設計図」がない。意匠のすべては棟梁の「頭の中」にあり、彼一人が木材に墨を引き、あらゆる作業を指示してゆく。

もともと、トン族は「文字」を持たず、その伝承は「口伝」のみ。そうして受け継がれてきたトン族の鼓楼は、民族の誇りでもあり、信仰の中心でもある。そして、この場は長老たちの会議が催される場所でもある。



そんな大切な鼓楼がすべて打ち壊されるという悲劇の時代もあった。それは、毛沢東による文化大革命(1966〜1978)の時代である。

この時代、少数民族の貴重な文化が全否定され、建造物などが徹底して破壊されたのである。多くの人命も失われ、その犠牲者は数百万から1,000万人とも言われている。

当然、トン族もその例外ではありえず、鼓楼のみならず、多くの犠牲者を出すことともなった…。壺中天は、不幸にも袋叩きにされたのである…。



そんな不幸の中にあって、鼓楼が設計図を持たないことは幸いした。

設計図に頼った建造物であれば、設計図がなければ再建は難しかったであろう。鼓楼ほどに複雑な造形物であれば尚更である。ところが、トン族の鼓楼の設計図は、棟梁の頭の中にシッカリと残されていたのである。

文化大革命の大嵐が収まるや、トン族はすかさず鼓楼の再建を果たすことができた。

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トン族が文字を持たず、口伝に頼っていたのは偶然ではないかもしれない。

なぜなら、この民族は長い歴史の中で迫害を受け続け、追われ追われて現在の山中に暮らすようになったと考えられているからだ。

文字に頼れば、それは迫害とともに失われるリスクも伴うであろう。しかし、口伝であれば、誰か彼かの頭の中に入っているのであるから、何かしらかの形で伝承を続けられる可能性も出てくる。



トン族は、漢民族から「洞人」「洞蛮」などの蔑称で呼ばれていた時代もあった。それは、トン族が洞(ほら)などの狭い空間に逃げ隠れして住んでいたからだとも言われている。

現在、トン族が暮らす森も、その広さが北海道の面積にも匹敵するという、とんでもなく深い山奥なのである。



もっと時代を下ると、トン族は「百越(越族)」と呼ばれた民の一派だったともいう。

百越とは、長江よりも南に住んでいた雑多な民族の総称である。彼ら越族の一部は、春秋時代に「呉」や「越」の国々を形成したが、秦により滅ぼされることになる。



トン族のルーツともされる「越族」。ここに日本民族との奇縁を見出す人々もいる。追われ追われた越族の一部が、海を渡って日本にまで流れ着いたという説もあるのだ。

山陰地方には、「越」のつく地名が多い(越浜など)。さらに、北陸地方は昔「越前」「越中」「越後」と呼ばれていた。



「呉越同舟」という言葉は、呉と越の国の仲の悪さを示すものであるが、じつは両者は同根の民族(百越)である。そして、両者ともに日本にやって来たとも考えられている。

「越」の呼称が残る日本海側は、もちろん越の国の人々。そして、「呉」の地名が残る九州・瀬戸内には呉の人々が住み着いたというのだ(例:広島県呉市)。

越人は朝鮮半島を経由して、呉人は東シナ海を直接日本まで渡ってきたとも言われている。



そう主張する人々の根拠は、越人が「稲作」という文化を持っていたということである。

もともとの日本列島に稲作はなく、そこには縄文人が暮らしていたと考えられている。日本に稲作がもたらされるのは弥生時代。そして、その稲作をもたらしたのは…、中国、もしくは朝鮮半島からやって来た百越(越族)の民ではないかというのである。

また、遺伝子分布統計によれば、Y染色体FR-02bという共通性も見つかっている(さらに細かく分類すれば、朝鮮民族と日本民族は異なる染色体を持つ)。



現在は単一民族とされる日本民族も、悠久の歴史の中では、多種の民族が混在していた時代があったのかもしれない。そして、その一部がトン族とつながる可能性があるというのも、また面白い。

歴史を紐解かなければ、そうした可能性に気付くことすらないかもしれないが、アジアの民というのは意外と共通した文化を持っていたりもする。

歴史は書き換えることができても、民族に深く根付いた文化までは抹殺することができない。

それゆえ、文化の共通性を探ることは、思わぬつながりに気付くことにもなる。

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桃源郷のように隔絶されたトン族の村だからこそ、古くからの文化は残されていたのであろう。

そして、宮大工の仕事のようなトン族の鼓楼に、我々日本人はどことなく懐かしさを覚えるのである。




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出典:地球イチバン
「イチバン広い杉の森とふしぎな暮らし〜中国・貴州省 トン族」


posted by 四代目 at 06:48| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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