神がいるから祈るのか?
それとも、祈るところに神がいるのか?
「祈る」という美しさは日本各地を彩っているが、その祈りの陰には深い悲しみが佇んでいることも少なくない…。
その女性の祈りは、とても静かなものだった。
その祈りは、一体の「花嫁人形」とともに捧げられていた。
当時7歳だった息子を亡くして、早16年。もし生きていたならば、彼は23歳という年であり、そろそろお嫁さんをもらってもおかしくない年頃である。

青森県にある「川倉・賽の河原地蔵尊」には、こんな伝説が残る。
幼くして亡くなった男女の霊は、年頃になると神様が結びつけてくれるのだ、と。
死別という現実は過酷であるが、せめて違う世だけは甘美であって欲しい。切なる祈りは、霊を慰めるとともに、祈る者自身をも安堵させてくれるのだという。
一方、ある男性の祈りは、荒々しくも純粋であった。
その地は極寒の北海道。しきりに雪の降る中、凍りつかんばかりの冷水を頭からかぶり続けている…。
この「佐女川神社(木古内町)」では、真冬の最も寒い時期(1月13〜15日)に、寒中みそぎ祭りが行われる。
4人の若者(行修者)が、まる2日間神社に篭って、一時間ごとに身を斬るような冷水を浴び続ける。彼らが眠りに就くのは深夜2時半。3時間だけ眠ることが許されるのである。
その貴重な3時間をも、自らの意志で氷水をかぶり続けていたのが、その男性であった。
なぜ、そこまでするのか?
「自分の生き方を見つめ直したい」と語るものの、その本意は本人にとっても慮外のものなのかもしれない。

まる2日間の厳しい水垢離を完遂した4人の若者たちは、それぞれ御神体(別当・弁財天・山の神・稲荷)を胸に抱えて「海」へと向かう。
みそぎ、最後の地、男たちは御神体とともに凍てつく津軽海峡へと飛び込む。ここまでして、ようやく祈りが終わるのだ。
この祭りの起こりは、およそ180年前(1831)。
その頃の佐女川神社は、人々の信仰心の薄れとともに、すっかり荒廃していた。
そんな中、当時の神主は「御神体を清めよ」とのお告げを受ける。そのお告げに従い、神主は極寒の海で何度も何度も沐浴を続けたという。その神主の目の前には、大鮫が現れ、その背には美しい女性の姿もあったとか。
すると、御神体を清めたその年からは豊漁豊作に恵まれ、天保の大飢饉をも乗り切ることができたのだという。
ところ変わり、三重県・伊勢神宮。ここでは、時を超えた祈りが行われている。
伊勢神宮は20年に一度、建物を新たに造り替える(式年遷宮)。そして、その建て替えに必要な用材は、「御杣山(みそまやま)」とされる山々から伐り出されることになる。
歴史上、御杣山は点々と場所を変えてきた。元々は伊勢神宮の背後の山々が御杣山とされていたのだが、原木の枯渇により、何度か場所を変えざるを得なかった。なにせ、式年遷宮のために必要とされる檜(ひのき)は一万本以上なのである。
しかし、場所を変え続けるのも限界がある。用材とされる檜は、樹齢200〜300年。そうそう簡単に育つものではない。
そこで、今からおよそ90年前(1923)、檜の「種」から苗木を育てて植林するという作業が始まった。その場所は、正宮周辺の神路山・島路山・高倉山の三山。古来より御杣山とされていた神聖な山々である。
これら三山から用材が供給可能となるのは、今から100年以上のちの2120年以降。すべての用材をこれら三山でまかなえるようになるのは、400年以上のちの2400年以降。
当然、現在作業に携わる人々は、これら三山から木々を伐り出す様を目にすることはない。それでも、彼らは後世の人々を信じて、種を取り、苗木を植え続けるのである。
なんと遠大な祈りであろうか。

時として宗教心がないともされる日本民族であるが、この民族の信仰心は遥かな歴史の産物でもあるために、あたかも「ないかのように」自然に育まれているとも解釈できる。
両手を合わせ、頭(こうべ)を垂れる彼らの姿は、あまりにも自然で違和感がない。そこに宗教という陰が感じられなくなるのも、また然りである。

祈る姿や形は様々なれど、そこに込められた想いは一様であるようにも思える。
彼らは決して下を向いているわけではない。何かに面と向かっているのであり、前を向いているのである。
哀しくも美しい祈りは、この国を照らす一隅の光ともなろう…。
関連記事:
最も弱い者を救うという「お地蔵様」。現代の救いはどこにある?
インカ巡礼の旅「コイヨリティ」。暗闇の中、生と死に想いを馳せる……。
あるアメリカン・ムスリム(イスラム教徒)の想い。暗い過去に足を引っ張られながら……。
出典:新日本風土記 「列島縦断 “聖地”の旅」

