2012年01月02日

2つのアメリカを一つにまとめた大統領「リンカーン」。分裂と統合の狭間であった南北戦争。



なぜに「リンカーン」はアメリカで最も偉大な大統領として讃えられているのか?

種々の歴代アメリカ大統領「ランキング」において、リンカーンがトップ3に名を連ねないことは珍しく、多くの場合がナンバー・ワンである。

「人民の人民による人民のための政治」という名演説はリンカーンのものであり、「奴隷解放宣言」も彼の行ったものである。

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しかし、彼の本当の偉業は「2つに分裂したアメリカ」を、再び「1つにまとめた」ということに尽きるのではなかろうか?

リンカーンが大統領に当選するや、南部アメリカ諸州は独立を宣言し、アメリカは真っ二つ(南北)に割れたのだ。そして、その結果起こった「南北戦争」にリンカーンは大統領任期の全て(4年間)を費やすことになる。

結果として、リンカーンはアメリカの再統一に成功している。

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日本史上において、最大の戦争は第二次世界大戦であるが、アメリカ史上における最大の犠牲者を出した戦争は、他ならぬこの「南北戦争(1861〜1865)」である。

南北戦争におけるアメリカ国民の犠牲者数は「62万人」。この数字は第二次世界大戦における40万人の犠牲をはるかに上回る(1.5倍)。

この南北戦争こそが、アメリカ建国以来の最大の危機だったのである。折しも、日本では江戸幕府が倒れんとしていた頃であった。



そもそも、なぜアメリカを2分する南北戦争は勃発したのか?

それはやはり「奴隷の是非」が引き金になっている。奴隷を否定する北部と、奴隷を肯定する南部の争いなのである。

両者の決裂は時間の問題であり、新たな大統領を選出する際には、新大統領が「奴隷制度にいかなる態度をとるか」が大いに注目されていた。



ところで、なぜ奴隷制度に関して、アメリカの南北でそれほどの「温度差」があったのか?

それは「綿花」の栽培が南部で盛んに行われていたためである。当時の綿花は「白い金」とまで呼ばれ、大金のなる作物であった。そして、その綿花の栽培は極端に安価な奴隷を酷使することにより成り立っていたのである。

すなわち、奴隷制度の廃止は南部にとっての経済的崩壊を意味した。当時のアメリカ南部は世界の綿花の75%を生産するほどの独占ぶりを見せ、経済的繁栄を謳歌していたのである。

そして、その繁栄の犠牲になっていたのが奴隷たちである。南部諸州が奴隷制度に固執する意味はここにあった。



結局は「リンカーン」が選ばれることになるこの大統領選挙(1860)において、アメリカ国民は「消極的な選択」をした。

なぜなら、あまりに奴隷制度に「過激」な候補を選ぶことは、確実に南北を分断することになると懸念されたからである。そこで白羽の矢が立ったのがリンカーン。当時の彼は無名の「穏健派」と見られていたのである。



ところが、アメリカ国民の選択は消極的すぎた。

貧しい農家の出であり、元は一介の弁護士に過ぎなかったリンカーンには、危急の国家を救えるような「力強さ」を感じることができなかった。

「ひょろひょろのゴリラ」とまでメディアに揶揄される始末。多くの議員たちはリンカーンを馬鹿にし、軍の将軍たちもリンカーンを舐めきって、命令すら聞いてくれなかったのである。

リンカーンが大統領に選出されたタイミングで南北戦争は開始されるのだが、それはリンカーンが奴隷制度に対して強硬だったからというわけではなく、むしろその弱みに付け込まれたいう感が強い。

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リンカーンが大統領に当選するや、南部諸州は「独立」を宣言し「アメリカ連合国」という新しい国家を立ち上げてしまった。

ここに事実上、アメリカは二分されたのである。もし、リンカーンが本当に弱い大統領であったのならば、アメリカは一つの国家に再びまとまることはできなかったであろう。

そして、アメリカが分断された状態では、のちの太平洋戦争においても、まことに小さき国の日本にすら敗れることになったかもしれない。



ところが、アメリカ最大の幸運は、この最大の危機において、歴代最高の大統領(エイブラハム・リンカーン)を得たことであった。

名声も後ろ盾もなかったリンカーンの能力は傑出していた。何よりも政治的な手腕に秀でていた。

彼の最大の悲願は「アメリカを一つにまとめる」ことであり、「奴隷解放」というのは、そのための政治的ツールの一つに過ぎなかった。



元来、リンカーンは奴隷制度には否定的であった。しかし、アメリカを分断してまでも奴隷制度を否定しようとは思っていなかった。彼はある演説で、こう語っている。

「も し、奴隷を一人も自由にせずにアメリカを 救うことができるものならば、私はそうするでしょう。

もし、すべての奴隷を自由にすることによってアメリカが救えるならば、私はそうするでしょう。

も し、一部の奴隷を自由にし、他はそのままにしておくことによってアメリカが救えるものならば、そうもするでしょう。」



彼の主眼は、奴隷を自由にすることでもなく、南北戦争に勝利することでもなく、アメリカを一つにすることに尽きた。

そのためには奴隷制度の存続を認めるという譲歩も惜しまなかったのである。



事実、南北戦争中に彼の発令した「奴隷解放宣言(1863)」というのは、奴隷を解放するどころか、奴隷を「容認」する内容のものである。

解放されるとされた奴隷には、「ある条件」が付いていた。その条件とは、アメリカ合衆国に対して、「反乱の状態にある州において」というものである。

すなわち、南部諸州が反乱を止めれば、奴隷を解放する義務は消え去ってしまうのである。実際、この宣言において、「反乱の状態にない」北部諸州の奴隷は追認されているのである。



それでも、南部は反乱の態度を変えなかった。

帰順するならば奴隷制度を認めるとリンカーンは宣言した。しかし、それを蹴って逆に奴隷を解放させてしまったのは、なんと南部諸州の頑なさだったのである。

もし、この時に南部が帰順していれば、奴隷は解放されることなくアメリカは再統一されたのであろう。しかし、そうはならなかった。南軍の戦況は優位であり、南軍が降伏する理由はどこにもなく、南軍は北軍に勝利して奴隷制度を存続させるつもりであったのだから。



この奴隷解放宣言ほど、リンカーンの政治的手腕が発揮されたものは後にも先にもない。

人倫にもかなう「奴隷解放」という響きは、アメリカ南部を国際的に不利な立場に追い込んだ。

事実、この宣言の後、南部を支援しようとしていたイギリスは国際社会の体裁を鑑(かんが)み、思いとどまらざるを得なくなっている。本来、イギリスは南部の主張する「自由貿易」の方が都合が良かったのだが、奴隷解放という「大義」には逆らうことができなかったのだ。



奴隷解放宣言の出されるまでの「前半戦」は、「南軍有利」の戦況が続いていた。

北部アメリカは圧倒的な人口(南部の4倍)と、圧倒的な軍勢(南部の3倍)を誇りながらも、南軍に押されまくっていた。

それは、成り上がりのリンカーンを馬鹿にしていた北軍の将軍たちの無能さもさることながら、北軍に「戦う意義」が欠如していたことにもある。南軍が「独立」という強く積極的な目標があるのに対して、北軍は「アメリカの崩壊を防ぐ」という弱く受け身な目標しか持っていなかったのである。



ところが、「奴隷解放」という「大義」は、北軍を一念発起させた。

不当に酷使されている奴隷を解放することに、北軍は「アメリカの正義」を見出したのだ。

国際的な「大義」を掲げ、「正義」のために戦うという現代まで続くアメリカの戦争スタイルは、この時に確立されたと言っても過言ではなかろう。



政治的な駆け引きで戦況を一変させたリンカーンは、アメリカ史上最も有名な演説をする。

「人民の人民による人民のための政治(the government of the people, by the people, for the people)」である(ゲティスバーグ演説)。

この演説は南北戦争における最大の激戦とされた「ゲティスバーグの戦い(1963)」の後になされたものである。



意外なことに、この演説をリアルタイムで聞いたであろう人々は驚くほど少ない。

なぜなら、この時のメインスピーカーはリンカーンではなく、当代最上級の演説家と謳われていた「エドワード・エヴァレット」だったからである。

エヴァレットは演説の準備に数ヶ月を費やし、演説の準備が整わないとして式典をさらに2ヶ月延期させたほどである。そして、当日の堂々たる演説は2時間を超えたという。



リンカーンが登場するのは、エヴァレットの2時間もの素晴らしい長広舌が終了し、参加者の疲れ切った後だった。

のちにアメリカ独立宣言と並び賞されることにもなるリンカーンの名演説は、たったの3分足らず。しかも、祈るような小声であったため、よく聞こえなかったのだとか。

待機していたカメラマンすら、その存在感の薄さにシャッターを切り忘れたほどである(結局、鮮明な写真は存在していない)。



それなら、なぜこの演説がこれほど有名になったのか?

それは「たまたま」居合わせた新聞記者が、「たまたま」リンカーンの演説を書き留めており、翌日の新聞に「小さく」掲載したからである。

わざわざ小さくしたわけではなく、リンカーンの演説はそれほどに短かったのだ(300語足らず)。



リンカーンという人物は、もともと天佑の元にあったのかもしれない。

政治的に計算された「奴隷解放宣言」に次いで、まったく思慮の外にあった「演説」までが極めて高く評価され、押しも押されぬ名大統領にまで登り詰めたのだ。

まさか、あの赤貧のリンカーン少年が…、ひょろひょろのゴリラが…。



その勢いのまま、アメリカ北軍(合衆国)の勝利は確定する。

そして、悲願のアメリカ統一の大事業は成される。

さらに、名実ともに揃った大大統領リンカーンは2期目の「再選」をも果たす。

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そこに…、英雄を英雄たらしめる「悲劇」は起こった…。坂本龍馬がそうだったように…。

リンカーンが「暗殺」されるのは、南北戦争が終結したわずか数日後のことである…(享年56)。



リンカーンの大統領就任とともに、アメリカ南北間に溜まっていた膿(うみ)は、南北戦争という分裂に発展し、その膿(うみ)が収まるや、リンカーンはこの世を去った…。その役目を終えたかのように…。

リンカーンの「生」は、まさにアメリカを一つに繋ぎ止めるためにあったかのようである。



そして、リンカーンの悲願であった「一つのアメリカ」は、その後の繁栄を謳歌する。

リンカーンの成した偉業は、価値観の著しく異なる世界でも「一つになり得る」ということを示したことかもしれない。



彼の名演説には、こんなものもある。聖書を引用した「分かれたる家」演説である。

「分かれたる家は立つこと能わず(マルコ伝)。

私はアメリカが瓦解するのを期待しません。家が倒れることを期待するものではありません。

私の期待するところは、このアメリカが分かれ争うことをやめることです。」



強い者ほど「分かれたる家」を志向するものなのかもしれない。綿花により巨富を得ていたアメリカ南部が独立を望んだように。

しかし、その強さを支える「何モノか」は、強ければ強いほど自分自身ではないはずである。多くの他者が支えない限りは、自分自身以上の強さは得られようがない。

それでも、強者は過信してしまう。自分自身の強さを。そして、「分かれたる家」になって初めて気付くのだ。その強さが「分かれた何モノか」に支えられていたことを。

世界の歴史は、「盛者必衰の理(ことわり)」そのままである。



現代のアメリカは、景気後退から世論が両極化し、来年の大統領選挙は不透明な状態が続いている。

アメリカの歴史を振り返れば、アメリカの強さはその一体感にあるとも感じられる。議論が紛糾しようとも、いざとなれば国民が一丸となる強さがアメリカにはいつもあった。

先のエコノミスト誌の記事でも取り上げられていたように、米ドルという統一通貨は現在のユーロ以上に危ない橋を渡りながらも、結局は「結束する」という選択を国民たちが下してきた歴史を持つ。



かたや、ヨーロッパの歴史はウェストファリア条約以降(1648〜)、分裂の選択を下し続けてきた。

その方向を大きく転換させたのが、統一通貨ユーロを生んだマーストリヒト条約(1992)であろう。

しかし、ヨーロッパは再び分裂を選択しようとしているのかもしれない。ユーロに起因する軋轢はヨーロッパ全域を軋(きし)ませ続けている。



リンカーンもやはり、そうした分裂の狭間に立たされた大統領であった。

しかし、彼の信念は揺るぐことがなかった。そして、「アメリカは一つであるべきだ」との強き想いは完遂された。



なぜ、彼が歴史上最も偉大な大統領として賞賛されているのか?

その理由は、もはや明白であろう。「奴隷解放宣言」や「人民の人民による人民のための政治」などの名演説は、一つのアメリカを彩る美しい花々に過ぎなかったということも…。

リンカーンは両極に分断された国論を見事に「和解」へと導いたのだ。そして、それこそを「政治」と呼ぶのであろう。







出典:BS歴史館
現代アメリカはここから生まれた!
〜戦争指揮官リンカーン・知られざる素顔


posted by 四代目 at 06:57| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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