2011年12月15日

まさかの「三陸のカキ」。これほど早く食べられるようになるとは…。畠山重篤氏とともに。


「奇跡のカキ」

築地(東京)の人々は、三陸から届いた牡蠣(かき)をそう呼んだ。

まさか、あの大津波が襲ったその年の内に、最大の被災地から「最高の牡蠣」が届くとは…。震災直後は誰一人として予想だにできなかった嬉しい誤算である。



実際、大津波が引いたあとの三陸には、何も残されていなかった。

海に浮かんでいた漁船も養殖用の筏も、海べりにあった牡蠣の処理場も、何もかもが貪欲な海に持ち去られてしまっていた。

誰もが絶望して当然の状況であった。



しかし、その絶望の渦中にありながらも、「畠山重篤」氏は望みの綱を放してはいなかった。

「意地でも復活させようと思っています。海は壊れていないのですから。」

自身の養殖場も加工場も失い、損失額は2億円にも上ると試算しながら、当時の畠山氏の心は、辛うじて楽観的な部分を保っていた。



彼が楽観できる根拠のいくつかは、過去の「経験則」に裏打ちされたものだった。

50年以上のチリ地震津波の時、通常2年近くかけて育つカキが、わずか半年で成長したということがあった。

「津波が起きた年は、もの凄く成長がいいんですよ。」

それは、海中の泥の底に沈んでいた栄養が、津波によって海中に溶け出してくるからだともいう。



それに、畠山氏が育てていたのは海ばかりではなかった。「山」をも育んでいた。

山の栄養が海のカキを育てるという信念から、彼の貯金は山の森の中にも蓄えられていたのである。20年以上、川の上流の山々に植林を続け、カキの栄養を山々から川を通して、セッセと海へと送り込んでいた。



なぜ、畠山氏はカキを育てるために山を育てるようになったのか?

それは、若き日の苦い経験に、その端を見ることができる。



昭和42年に大量発生した「赤潮」により、大切に育てていたカキが「真っ赤に染まり」、売り物にならなくなってしまった。

牡蠣の栄養は、海に漂う植物プランクトン。牡蠣一個は、一日にドラム缶1〜2本分(200〜400リットル)もの海水を濾しとっているのだという。

その海が真っ赤に染まったため、牡蠣はその赤い海をタップリと吸い込んでしまったわけだ。高度経済成長のもたらした負の側面の一つが、この赤潮だった。

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この赤潮を前にして、多くの漁師仲間は海を去った。

家業を継いで、わずか6年。24歳の若き畠山氏も去就を迫られた。

そんな苦境の中、彼はフランスへと飛ぶ。フランスは牡蠣の本場。そこに何らかの答えがあるかもしれない。



早速、地元のフランス人漁師に質問をぶつける。

「どうして、ここでは赤潮が発生しないのですか?」

待ってましたとばかりに、フランス人漁師は答える。「我々は森を手入れしているからね。森は海のおふくろなんだ」。



急ぎ日本に戻った畠山氏の為すべきことは、もはや明白であった。

その目はもう赤潮を見ておらず、照準は「山」へと定められていた。



しかし、当時の山々のなんと荒れ果てていたことか。

かつては雑多な木々が繁茂していたはずの森は、植林された杉が伐採された後で、ハゲ山ばかりが多かった。

さらに悪いことには、巨大ダムの建設の話までが持ち上がっていた。森をその水底に沈めるというのである。

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焦る畠山氏。

このままでは、山の回復どころか、永遠に森の恵みが遮断されてしまう。

当時、「山が海を育てる」などという発想はない。しかし、人々を説得するには、それなりに科学的な証拠も必要だ。



追い詰められた畠山氏は、幸運にも「松永勝彦」教授に出会う。松永氏の学説は、畠山氏の考えを裏打ちするものであった。

とはいえ、実地の調査には金もかかる。

さらなる助け舟は、畠山氏の母がソッと差し出した封筒の中に入っていた。それは新しい船を買うために、彼女が身を切って貯めていたお金だった。

「自分のやり方を貫きなさい」と母は言ったという。その母は、今回の津波により、不幸にも帰らぬ人となった。



畠山氏は2年間、海の水を汲んでは調べるを延々と繰り返し、ついに科学的な証明をすることに成功する。

海に注ぐ「鉄分」の9割が、山からもたらされていたことを突き止めたのである。上質のカキを育てるには、この鉄分(フルボ酸鉄)が不可欠であった。

こうして、畠山氏の「海を守るために、山を守る」という信念は確立され、今まで足元ばかりしか見えていなかった人々の視線を、大自然のつながりへと向けさせることにもなった。




「牡蠣はワタ(内臓)ごと食べますから、汚れた水で育った牡蠣を食べると当たってしまうわけです。」

畠山氏の育てた山は、周辺の川を日本でも有数の清らかさにまで回復させた。

「シラスウナギを見つけた時は嬉しかったです」

シラスウナギというのはウナギの若い姿であり、清らかな水にしか住めない。畠山氏の川(大川)には、四半世紀ぶりにシラスウナギが帰ってきたのである。



「海の中にも『森』はあるんです」と畠山氏。

これは比喩ではない。海中の植物プランクトンが行う光合成の量は、単位面積あたりの熱帯雨林と同じなのだという。

そして、その植物プランクトンを食するのが牡蠣。つまり、牡蠣はその殻(炭酸カルシウム)の中に二酸化炭素を「固定化」しているのである。それは他の貝類も同様である。



もともと、地球の大気に「酸素」はなかった。

初めて酸素を生み出したのは、海中の植物プランクトンだとされている。海中で飽和した酸素は、大気中にも放出され、大気中の酸素はオゾン層を形成した。

そのオゾン層は有害な紫外線の効力を弱め、ここに来てようやく人間が住める環境が整うのである。



畠山氏の育んだ舞根(もうね)の海は、「キュウリの味がする」という。

それだけ、植物プランクトンが豊富なのである。そして、それらが最高の牡蠣を育てるのである。

そんな畠山氏のことを「海の仙人」と呼ぶ人もいる。中には「魔法使い」と呼ぶ人も…。



しかし、その仙人も大津波のあとの無理がたたり、体調を崩し、大好きな海に出ることすらままらなくなった。

今回の「奇跡のカキ」の立役者は、じつは彼の息子「畠山哲」氏である。



一時は出稼ぎも考えたという哲氏。しかし、6月にカキの「稚貝」が石巻に打ち上げられたと知って、海に希望をつないだ。

すべてが津波に持ち去られてしまったかと思ったら、海はご丁寧にも稚貝の一部を返して寄こしたのである。奇跡のカキを生む「奇跡の種」は、不思議な偶然によりもたらされた。



しかし、津波直後の海では、「ビックリするぐらいに何も見かけなかった」という。

海に回復の兆しが見え始めたのは一ヶ月もしてからだった。「チョロチョロと現れたかと思ったら、一気に爆発的に増え出した」

「海は戻って来た」



ところが、牡蠣も津波のトラウマを抱えていたようだ。

通常、夏に数回は起こるという「放卵(産卵)」が、一回しか起こらなかったという。卵が取れなければ、来年以降の養殖ができない。

海中に放たれるカキの卵を取るには、巧みの技が求められる。ホタテの貝殻でキャッチをするのだが、ホタテの貝殻を早く海に入れすぎると、余計なものが付着してしまい、肝心の卵がくっつけなくなる。かと言って遅ければキャッチし損なう。

しかし、そこは百戦錬磨の漁師たち。見事に一回しかなかった放卵を捉えられたという。来年への希望は、確かに受け止められた。



幾多の危うい橋を渡りながらも、牡蠣は予想以上の成長を見せた。

畠山氏の言った通り、「津波が栄養を増やしてくれた」のかもしれない。



息子・哲氏が試しに採ってきたカキを見て、海岸で心配そうに待っていた畠山氏は思わず歓声を上げる。

「おーっ、上等じゃないかっ!」

そして、パクリ。

「舞根(もうね)の海の味がする! これなら大丈夫だ! うまいっ!」

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大津波の直後の海を見た人は、誰しもが「今年はダメだ…」と思わざるを得なかった。

まさか、こうして牡蠣が食えるようにまでなるとは…。

海の力、そして山の力も計り知れないが、「海を信じる」漁師たちの力も尋常ではない。



山があり、川があり、海がある。

そして、そこには人がいる。

それらの繋がりが強く太いほどに、損傷した箇所の修復は素早いものとなるのかもしれない。



山、川、海、そして牡蠣。

それらをガッチリつないでいた畠山氏。

奇跡のカキがもたらされたのは、決して偶然ではない。



その種は、50年以上前に蒔かれ、幾多の試練を生き抜いてきたものである。

たとえ未曾有の大津波とはいえ、その全てを奪い去ることは出来なかった。

そして、今また、その花は見事に咲いたのだ。

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出典:プロフェッショナル 仕事の流儀
「それでも、海を信じている〜カキ養殖・畠山重篤」


posted by 四代目 at 08:03| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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