2011年12月13日

大地震を引き起した「空白域」とは? 想定内であり想定外であった東日本大震災。


「想定外」と一口に言えど、そこには様々な想定がある。

東日本大震災ほどに大規模な災害となると、「想定外」と言われれば、「さもありなん」と大いに納得してしまう。ところが、これほどの大災害ですら、「想定していた人々」は確かにいたのである。大袈裟すぎると馬鹿にされながらも…。

たとえば、「島崎邦彦」氏は宮城県沖の「大地震」の可能性を警告していた。



彼の想定の根拠は、プレートの「空白域」にあった。

空白域とは、何千年もプレートが動いていない帯域のことである。地震学の基本的な考え方に従えば、何千年も動いていない部分には、相当のエネルギーが蓄積されている可能性が高い。そのため、ひとたび動けば、大地震を引き起こす危険性がある。



宮城県沖には、過去に大地震をもたらしたプレートがいくつかある。

明治三陸地震(1896)、慶長三陸地震(1611)、延宝房総沖地震(1677)…。

しかし、それらのプレートの狭間にあって、未だ大地震を記録していないプレートが一部分残されていた。それが島崎氏の警告した「空白域」である。そして、それが今回の東日本大震災を引き起こしたプレートでもあった。

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この「空白域」という考え方が一般化したのは、今から30年以上前の「根室沖地震(1973)」においてである。

北海道沖合のいくつかのプレートの中でも、この「根室沖」だけが過去の大地震の記録がなく、いわゆる「空白域」と認識されていた。ところが、その不気味な静けさを保っていた「空白域」は遂に躍動し、根室沖の大地震を引き起こしたのである。

こうした実例から、宮城県沖の空白域は、いつ動いてもおかしくない一触即発の状態にある、と島崎氏は考えていた。彼は国の地震本部で重要な役割を占めており(長期評価部会長)、長期的な「地震の予測」を作成するという重責を担っていた。



ところが、島崎氏の警告は「思わぬ反対」に合う。それは防災の立案を行う「中央防災会議(内閣府)」の反対であった。その反対の理由は、「十分な資料がない」ということだった。

これは実に奇妙な見解である。資料がないからこそ、「空白域」と呼ばれているのであり、それゆえに危険度が高いのである。

島崎氏は唖然とするより他にない。



最終的に内閣府が「想定」したのは、「実例」のある「塩屋埼沖地震(1938)」であった。この地震は、空白域の手前にあるプレートが引き起こした地震で、言ってみれば、空白域に蓄積された巨大なエネルギーの一部が「小出し」にされたようなものである。

たまらず島崎氏は「なぜか?」と問いかける。

「効果的に人や金を配分する必要がある」というのが、その答えであった。



想定とは「目に見えること(現実に起こったこと)」だけに対するもので十分なのであろうか。「目に見えないこと(未だ現実化していないこと)」を想定する必要はないのだろうか?

目に見えることだけに囚われていては、「未曾有(未だかつて無い)」と呼ばれるような事態には、一切対処できないということになってしまう。



政治的な想定は「過小評価」されがちであり、逆に科学的な想定は「過大評価」し過ぎることもある。

そのことを考慮した内閣府の最終決断は、「ギリギリのバランスのとれた意思」により、政治的な過小評価に大きく傾いた。結果的に、島崎氏の空白域は完全に無視されることとなった。しかし、この静かなる空白域が大きく波打つのは…、時間の問題であった…。



苦渋を飲まされたのは、島崎氏ばかりではない。「箕浦幸治」氏もまた、過大評価だ(大ゲサだ)という理由で、業界の爪弾きにあった人物である。

箕浦氏の研究していたのは、「地層」である。彼は幾多の地層調査から、過去の大地震の痕跡に気付いていた。津軽沖(1341)、渡島沖(1741)、鯵ヶ沢沖(1793)、山形沖(1833)、日高沖(1856)…。

そして、宮城県沖では貞観地震(869)の時に、大津波が運んだ大量の砂の地層を発見していた。貞観地震は「日本三代実録」に残る大津波を、東北の太平洋沿岸一帯にもたらした大地震である。そのため、箕浦氏の想定の中には、今回の大津波ですら視野に入っていた。



ところが、時はバブル全盛(1986)。大津波の可能性があるなどと喧伝されては、沿岸の土地の価値が大いに下がってしまう。箕輪氏の発見は、経済界にとって大いに不都合。

箕輪氏の研究資金は絶たれ、度重なる脅迫により日本国内にすら居場所を失い、遠くカムチャッカの地まで追い立てられてしまった…。



しかし、浮かれた日本にも聞く耳は残っていた。

箕輪氏の指摘を受け、「岡村行信」氏は宮城県沿岸を5年以上かけて400ヶ所以上の調査を行い、明らかに貞観地震の大津波の跡を各地に見出した。当然、福島第一原発へも警報を発した。

ところが、先にも記したように、国が想定するのは「塩屋埼沖地震(1938)」ばかりである。貞観地震(869)などと言っても、「は? いつの話?」となってしまう。



それでも、岡村氏は訴える。「貞観地震においては、塩屋埼沖地震とは全く比べものにならないほど非常にデカい津波が来ているのです!」

しかし、東京電力には聞く耳がない。「被害がそれほど見当たらない」との返答。貞観地震の記録は、平安時代の「日本三代実録」のみ。

しかし、その中には多賀城が破壊されたという記述があると主張した岡村氏の健闘虚しく、原子力安全保安院による本報告は「先送り」にされた。そして、その本報告は、東日本大震災よりも「先送り」されてしまった…。



結局、箕輪氏の発見は生かされなかったのか?

「捨てる神あれば、拾う神あり」。幸いにも、東北電力は箕輪氏の研究を高く評価した。女川原発(宮城)の増設にあたっては、箕輪氏の意見が十分に考慮されていたのである。



そして、運命の3月11日。東日本大震災、そして大津波。

箕輪氏の話を聞いていた女川原発は、大津波を食らいながらもほぼ無傷。

一方、岡村氏の警告を一蹴した福島第一原発は、世界最悪の原発事故を起こしてしまった…。



「嗚呼…」

識者たちは、天をあおいだ…。



今、大津波の被害受けた宮城平野では、貞観地震の時の地層が露出しているところもある。平安時代の大津波(869)とはいえ、地層としては、それほど近い過去だったのである。

太平洋沿岸の大地は、親切にもその痕跡をしっかりと留め置いてくれていた。しかし、その声なき大地の声に耳を傾けていたのは、箕輪氏、岡村氏などの少数の識者のみでしかなかった。



昔々、中国での話。

秦という国の宰相(趙高)は、「鹿」の掛軸を指差して、「馬である」と言い放った。

周囲の群臣の反応は?「う…、馬で…、ございます…」

趙高の権勢を恐れた人々は、鹿を馬と認めた。一方、正直に「鹿です」と答えた者たちは…、殺された(史記)。

「馬鹿」な話である。



しかし、この馬鹿な話は、現代においても確実に存在している。

島崎氏、箕輪氏、岡村氏などは、正直に「鹿です」と答えた人々であろうか?

そして、「想定外」と公言する人々は…。




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出典:ETV特集 シリーズ
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posted by 四代目 at 08:09| Comment(0) | 地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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