日本にも「国産ロケット」ある。
「H2シリーズ」と呼ばれるロケットが、それである。
それらは「人工衛星」を打ち上げるためのロケットで、H2(1994〜1999)に始まり、H2A(2001〜)、H2B(2009〜)と発展を遂げている。
なぜ、日本は「国産」にこだわったのか?
その理由を探るべく、日本のロケットの歴史を見ていきたい。
時を第二次世界大戦まで巻き戻してみると、戦争に敗れた日本は、戦勝国から宇宙開発を「禁じられて」いた。
なぜなら、当時の宇宙開発というのは軍事開発の別名であり、宇宙競争というのは、そのまま軍拡競争であったのである。
戦争に敗れた国(日本)は、軍事に直結する宇宙開発を許されるはずがない。
日本の優れた戦闘機などの航空技術は、戦勝国の手によって徹底的に破壊され、その分野は広野と化してしまった。
戦後の日本が初めて開発したロケットは、「ペンシル・ロケット(1954)」。
その名の通り、長めの鉛筆(ペンシル)程度のロケットであった(全長わずか23cm)。
このオモチャのようなロケットでも、日本のロケット技術は着実に育まれていった。
その技術は、ベビー・ロケット(1955)に引き継がれ、その後、アルファ・ロケット(1957)、シグマ・ロケット(1961)などへと発展していくことになる。
そうした細々としたロケット開発にとって、伊勢湾台風(1959)は大きな転機となった。
この猛烈な台風は「明治以来最大」であり、全国に渡って甚大な被害をもたらした(犠牲者5,000人以上)。
GDP比の被害額では、関東大震災に匹敵し、阪神淡路大震災の数倍に達するほどであった。
「気象衛星があれば、台風の被害を軽減できたのではないか?」
そうした声の高まりとともに、「実用衛星」を早急に求める世論は高まる。
しかし、戦後にゼロからスタートした日本の技術では、まだまだ実用化は遠かった。
ここに手を差しのべてきたのはアメリカ(デルタ・ロケット)。
協力したアメリカ側も、アメリカが日本のロケット開発を管理下に置くことで、軍事利用(弾道ミサイルなど)を監視できると好都合であった。
日本はアメリカの技術を導入することで、日本初の人工衛星(きく1号)を打ち上げることに成功する(1975)。
この時の「N1ロケット」が、日本では本格的なロケットの鏑矢となった。
N1ロケットは次々と人工衛星を打ち上げ、着々と成果を上げていく。
しかし、問題が起こった。
1980年に打ち上げられた人工衛星「あやめ2号」が、高度3万6,000kmで「行方不明」になってしまったのだ。
原因は何か?
「アメリカ製の小型エンジン」ではないか?
ところが、アメリカのメーカーに説明を求めても、一切ノーコメント。企業秘密の一点張りである。
日本が供与を受けていたアメリカの技術は全て「ブラック・ボックス」の中。
その設計図は、エンジンの形のみで、内部はすべて空白であった。
ここに至り、日本の技術者たちは「国産」の必要性を痛感するのである。
開発者の一人である五代富文氏は当時を想い、こう語る。
「順調にいっている時はいい。
だけど、ロケットは必ず失敗する。
その失敗の原因が究明できなければ、同じ失敗を繰り返すしかなくなる」
こうして始まったのが「H2ロケット」の開発である。
「お金がない。技術がない。人がいない。」
そんな「ないない尽くし」の手探りによるスタートであった。
宇宙への道に大きく立ち塞がっていたのは「5秒のカベ」と呼ばれるものであった。
エンジンに点火してから「5秒」。
この壁が超えられずに、多くのエンジンは5秒以内に「大爆発」を起こし続けた。
地球を飛び出すには、最低でも「350秒」はエンジンが安定して燃焼してくれなければならない。
試行錯誤の末に、何とか「5秒のカベ」を克服したかに見えた。
しかし、本番の打ち上げを1年後に控えたある実験で、またもや「5秒のカベ」に行く手を遮られてしまう。
悪夢ふたたび。まさかの大爆発(4.7秒後)。この大失敗により、計画は2年間の遅れを余儀なくされる。
5秒の壁とは、それほどに大きな壁であった。
原因は何か?
国産であるから究明は可能であった。同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。
浮かび上がってきた原因は…、わずかな「溶接の跡」であった。
「溶接」というのは、部品同士をつなぎ合わせることであり、その繋ぎ目に「わずかな段差」があったのだ。
そして、その段差に力が集中してしまい、結果的に破損してしまっていたのである。
さらに調べると、それらの溶接跡が「機械」によるものであることが判明した。
卓越した職人の手による溶接は、まったく段差がない。ところが、機械による溶接にはわずかなムラがあったのだ。
それは、ミクロン単位(1000分の1mm)。たとえミクロンといえども、侮れない。
このミクロン(1000分の1mm)の狂いは、高速回転する部品などでは、遠心力によって100kgを超える力を生じることもあるのだ。
宇宙技術というのは、それほどに精緻な世界であり、その狂いが大惨事を生むのである。
溶接の跡を消すべく、職人たちは磨きに磨いた。何十時間も何百時間も磨き続けた。
最後の頼りは、職人の指先の感覚のみ。決して機械ではできない領域の仕事であった。
こうして、1000ヶ所以上の繋ぎ目がキレイに消えていった。
そして、迎えた打ち上げの日(1994年2月)。
初の純国産ロケット「H2ロケット」は、心地良い爆音とともに宇宙の空へと飛び立って行った。
ボルト一本から塗装に至るまで、隅の隅まで「Made in Japan」のロケットは、見事に宇宙の高みへと届いたのである。
30cmにも満たなかったペンシル・ロケットから始まったその歴史は、ここにひとまずの勝利を得ることとなった。
しかし、「ロケットは失敗するもの」である。
5度の連続成功の後、H2ロケットは痛恨の2度の連続失敗を喫する(1998・1999)。
心ないメディアは騒ぎ立てる。「H2ロケットまた失敗」「343億円がムダに」。
原因は?
再びこの問いが鎌首をもたげる。
原因究明のためには、失敗して海に落ちたエンジンの現物を調べる必要があった。
しかし、落ちた箇所は太平洋。砂丘に落とした米粒を拾うほどに困難なミッションであった。
それでも、H2ロケットのエンジンは海中で奇跡的に見つかった。
開発者たちの執念のなせる技か。
同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。何としてでも原因を究明しなければ、先へは進めないのである。
問題の原因は、エンジンに燃料を送る部分にあった。
ごくわずかに生じた振動が増幅され、それが大爆発を引き起こしていたのだ。
ふたたびミクロンの世界に戻り、調整を続ける。
その成果は、次のH2Aロケットとして、さらなる進化を遂げた。
この新ロケットの性能は他国を凌ぐことともなった。打ち上げ能力を単位重量で換算すれば、スバ抜けて高性能であったのだ。
しかも、開発コストの「安さ」もケタ違いだった。
それは「円高」という苦難が、コスト競争力を奪った苦い経験によるものでもある。
従来のH2ロケットの打ち上げコストは一機当たり190億円。国際平均100億円の2倍近い額だった。
なぜなら、開発当初は1ドル240円ほどだったのが、いつの間にやら1ドル100円以下になってしまっていたのである。
そのため、跡を継いだH2A、H2Bでは、とりわけ開発費を抑えることに注力されたのである。
先の五代氏は語る。
「飛行機の歴史とて、まだ100年。
宇宙開発などは、まだ50〜60年。
まだまだじゃないですか」
このグローパルな時代にあって、あえて国産に固執する意味は確かにあった。
安穏とした時代であれば、他国は喜んで協力してくれる。
しかし、ひとたび苦難に直面すれば…、頼れるのは自分の足元以外には何もないのである。
もし、アメリカから技術供与を受けたN1ロケットのように、失敗の原因が究明できないのであれば、そこからは一歩たりとも前へ進めない。
日本のロケット開発者たちは、その不利を一度の失敗で悟り、その後の失敗の原因は一つ残らず克服しながら進んで行った。
ロケット開発においては、国産という選択肢が最も近道だったのである。
日本のロケット技術は、そのおかげで確実に前進を続けている。
ないない尽くしの苦境にありながらも、彼らが最初の選択を誤ることは決してなかったのである。
今後ともに、種子島の宇宙センターからは、次々と日本のロケットが飛び立っていくのであろう。
過去に殺生の道具として「鉄砲」が伝来したというこの地から、今では「平和」に向けたロケットが打ち上げられるというのも、奇縁な話である。
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出典:コズミック フロント〜発見!驚異の大宇宙〜
執念!純国産大型ロケット開発 苦難の歴史を乗り越えて
ありがとうございます。
きく1号は、(初の液体燃料ロケット)N−1ロケットでの最初の人工衛星です
日本初は、ラムダロケットです。
ラムダロケットの打ち上げ技術は、米軍やNASAに、日本のロケットは絶対監視下におかないとヤバイ。と思わせる代物でした。