2011年12月01日

なぜ、日本は国産ロケットにこだわったのか? H2シリーズに結晶化したその高い技術力。


日本にも「国産ロケット」ある。

「H2シリーズ」と呼ばれるロケットが、それである。

それらは「人工衛星」を打ち上げるためのロケットで、H2(1994〜1999)に始まり、H2A(2001〜)、H2B(2009〜)と発展を遂げている。

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なぜ、日本は「国産」にこだわったのか?

その理由を探るべく、日本のロケットの歴史を見ていきたい。



時を第二次世界大戦まで巻き戻してみると、戦争に敗れた日本は、戦勝国から宇宙開発を「禁じられて」いた。

なぜなら、当時の宇宙開発というのは軍事開発の別名であり、宇宙競争というのは、そのまま軍拡競争であったのである。



戦争に敗れた国(日本)は、軍事に直結する宇宙開発を許されるはずがない。

日本の優れた戦闘機などの航空技術は、戦勝国の手によって徹底的に破壊され、その分野は広野と化してしまった。



戦後の日本が初めて開発したロケットは、「ペンシル・ロケット(1954)」。

その名の通り、長めの鉛筆(ペンシル)程度のロケットであった(全長わずか23cm)。

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このオモチャのようなロケットでも、日本のロケット技術は着実に育まれていった。

その技術は、ベビー・ロケット(1955)に引き継がれ、その後、アルファ・ロケット(1957)、シグマ・ロケット(1961)などへと発展していくことになる。



そうした細々としたロケット開発にとって、伊勢湾台風(1959)は大きな転機となった。

この猛烈な台風は「明治以来最大」であり、全国に渡って甚大な被害をもたらした(犠牲者5,000人以上)。

GDP比の被害額では、関東大震災に匹敵し、阪神淡路大震災の数倍に達するほどであった。



「気象衛星があれば、台風の被害を軽減できたのではないか?」

そうした声の高まりとともに、「実用衛星」を早急に求める世論は高まる。

しかし、戦後にゼロからスタートした日本の技術では、まだまだ実用化は遠かった。



ここに手を差しのべてきたのはアメリカ(デルタ・ロケット)。

協力したアメリカ側も、アメリカが日本のロケット開発を管理下に置くことで、軍事利用(弾道ミサイルなど)を監視できると好都合であった。



日本はアメリカの技術を導入することで、日本初の人工衛星(きく1号)を打ち上げることに成功する(1975)。

この時の「N1ロケット」が、日本では本格的なロケットの鏑矢となった。

N1ロケットは次々と人工衛星を打ち上げ、着々と成果を上げていく。



しかし、問題が起こった。

1980年に打ち上げられた人工衛星「あやめ2号」が、高度3万6,000kmで「行方不明」になってしまったのだ。



原因は何か?

「アメリカ製の小型エンジン」ではないか?

ところが、アメリカのメーカーに説明を求めても、一切ノーコメント。企業秘密の一点張りである。



日本が供与を受けていたアメリカの技術は全て「ブラック・ボックス」の中。

その設計図は、エンジンの形のみで、内部はすべて空白であった。

ここに至り、日本の技術者たちは「国産」の必要性を痛感するのである。



開発者の一人である五代富文氏は当時を想い、こう語る。

「順調にいっている時はいい。

だけど、ロケットは必ず失敗する。

その失敗の原因が究明できなければ、同じ失敗を繰り返すしかなくなる」



こうして始まったのが「H2ロケット」の開発である。

「お金がない。技術がない。人がいない。」

そんな「ないない尽くし」の手探りによるスタートであった。



宇宙への道に大きく立ち塞がっていたのは「5秒のカベ」と呼ばれるものであった。

エンジンに点火してから「5秒」。

この壁が超えられずに、多くのエンジンは5秒以内に「大爆発」を起こし続けた。

地球を飛び出すには、最低でも「350秒」はエンジンが安定して燃焼してくれなければならない。

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試行錯誤の末に、何とか「5秒のカベ」を克服したかに見えた。

しかし、本番の打ち上げを1年後に控えたある実験で、またもや「5秒のカベ」に行く手を遮られてしまう。



悪夢ふたたび。まさかの大爆発(4.7秒後)。この大失敗により、計画は2年間の遅れを余儀なくされる。

5秒の壁とは、それほどに大きな壁であった。



原因は何か?

国産であるから究明は可能であった。同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。

浮かび上がってきた原因は…、わずかな「溶接の跡」であった。



「溶接」というのは、部品同士をつなぎ合わせることであり、その繋ぎ目に「わずかな段差」があったのだ。

そして、その段差に力が集中してしまい、結果的に破損してしまっていたのである。



さらに調べると、それらの溶接跡が「機械」によるものであることが判明した。

卓越した職人の手による溶接は、まったく段差がない。ところが、機械による溶接にはわずかなムラがあったのだ。



それは、ミクロン単位(1000分の1mm)。たとえミクロンといえども、侮れない。

このミクロン(1000分の1mm)の狂いは、高速回転する部品などでは、遠心力によって100kgを超える力を生じることもあるのだ。

宇宙技術というのは、それほどに精緻な世界であり、その狂いが大惨事を生むのである。



溶接の跡を消すべく、職人たちは磨きに磨いた。何十時間も何百時間も磨き続けた。

最後の頼りは、職人の指先の感覚のみ。決して機械ではできない領域の仕事であった。

こうして、1000ヶ所以上の繋ぎ目がキレイに消えていった。



そして、迎えた打ち上げの日(1994年2月)。

初の純国産ロケット「H2ロケット」は、心地良い爆音とともに宇宙の空へと飛び立って行った。

ボルト一本から塗装に至るまで、隅の隅まで「Made in Japan」のロケットは、見事に宇宙の高みへと届いたのである。

30cmにも満たなかったペンシル・ロケットから始まったその歴史は、ここにひとまずの勝利を得ることとなった。

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しかし、「ロケットは失敗するもの」である。

5度の連続成功の後、H2ロケットは痛恨の2度の連続失敗を喫する(1998・1999)。

心ないメディアは騒ぎ立てる。「H2ロケットまた失敗」「343億円がムダに」。



原因は?

再びこの問いが鎌首をもたげる。

原因究明のためには、失敗して海に落ちたエンジンの現物を調べる必要があった。

しかし、落ちた箇所は太平洋。砂丘に落とした米粒を拾うほどに困難なミッションであった。



それでも、H2ロケットのエンジンは海中で奇跡的に見つかった。

開発者たちの執念のなせる技か。

同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。何としてでも原因を究明しなければ、先へは進めないのである。



問題の原因は、エンジンに燃料を送る部分にあった。

ごくわずかに生じた振動が増幅され、それが大爆発を引き起こしていたのだ。



ふたたびミクロンの世界に戻り、調整を続ける。

その成果は、次のH2Aロケットとして、さらなる進化を遂げた。

この新ロケットの性能は他国を凌ぐことともなった。打ち上げ能力を単位重量で換算すれば、スバ抜けて高性能であったのだ。

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しかも、開発コストの「安さ」もケタ違いだった。

それは「円高」という苦難が、コスト競争力を奪った苦い経験によるものでもある。



従来のH2ロケットの打ち上げコストは一機当たり190億円。国際平均100億円の2倍近い額だった。

なぜなら、開発当初は1ドル240円ほどだったのが、いつの間にやら1ドル100円以下になってしまっていたのである。

そのため、跡を継いだH2A、H2Bでは、とりわけ開発費を抑えることに注力されたのである。



先の五代氏は語る。

「飛行機の歴史とて、まだ100年。

宇宙開発などは、まだ50〜60年。

まだまだじゃないですか」



このグローパルな時代にあって、あえて国産に固執する意味は確かにあった。

安穏とした時代であれば、他国は喜んで協力してくれる。

しかし、ひとたび苦難に直面すれば…、頼れるのは自分の足元以外には何もないのである。



もし、アメリカから技術供与を受けたN1ロケットのように、失敗の原因が究明できないのであれば、そこからは一歩たりとも前へ進めない。

日本のロケット開発者たちは、その不利を一度の失敗で悟り、その後の失敗の原因は一つ残らず克服しながら進んで行った。



ロケット開発においては、国産という選択肢が最も近道だったのである。

日本のロケット技術は、そのおかげで確実に前進を続けている。

ないない尽くしの苦境にありながらも、彼らが最初の選択を誤ることは決してなかったのである。



今後ともに、種子島の宇宙センターからは、次々と日本のロケットが飛び立っていくのであろう。

過去に殺生の道具として「鉄砲」が伝来したというこの地から、今では「平和」に向けたロケットが打ち上げられるというのも、奇縁な話である。




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出典:コズミック フロント〜発見!驚異の大宇宙〜
執念!純国産大型ロケット開発 苦難の歴史を乗り越えて


posted by 四代目 at 08:17| Comment(2) | 宇宙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
参考になりました。

ありがとうございます。
Posted by とおりすがり at 2012年12月12日 21:48
日本初の人工衛星は、きく1号じゃなくて、おおすみですよ。
きく1号は、(初の液体燃料ロケット)N−1ロケットでの最初の人工衛星です
日本初は、ラムダロケットです。

ラムダロケットの打ち上げ技術は、米軍やNASAに、日本のロケットは絶対監視下におかないとヤバイ。と思わせる代物でした。
Posted by 案山子 at 2016年03月14日 14:22
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