日本には「神様が食べるお米」がある。
そのお米を作るのは「神宮神田(三重県伊勢市)」
作業に携わる人々は皆、上下ともに真っ白い衣装に身を包んでいる。
植えられている品種は13品種と数多い(広さ3ha)。
それは、台風や冷夏などでも、確実に収穫するためである。
神様へのお米は決して実らぬことがあってはならない。
そのお米を食べるのは…、伊勢神宮におわします天照大御神。
神様のお米は、忌火屋殿(いみびやでん・神様の台所)で毎日炊かれる。「忌火(いみび)」というのは、清らかな火のことであり、タブーという意味ではない。
そもそも、「忌」という文字は、神様専用という意味であり、一般の人々が遠慮すべきところから、タブーという意味が出てきたのである。
神様のお食事は、日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)という神事である。
この神事は、1,500年もの昔から、一年365日欠かしたことがないという。
そもそもの起こりは、天照大御神が「一人で食べるのはツマらぬ」と言われたこと。
そして、一緒に食事する相手として天の橋立から呼ばれたのが、豊受大神(とようけのおおかみ)だったという。
これが雄略天皇の時代(1,500年前)との話である。
神様は一日2食。朝8時(冬9時)と夕方4時(冬3時)の2回(これは室町時代以前の古代人の慣習でもある)。
神様への神饌(みけ)の基本は「水・塩・飯」の3品。
神話の時代から続く伝承である。

「水」は高天原(天の神々の住まう場所)から移したと伝わる井戸より。
「塩」は倭姫命(やまとひめのみこと)が「ここで作りなさい」と命じた二見(三重県伊勢市)の御塩殿(みしおでん)の堅塩(かたしお)。
そして、「飯」は冒頭でご紹介した神宮神田(じんぐうしんでん)のお米である。このお米も、塩と同様、倭姫命(やまとひめのみこと)が「ここで作りなさい」と命じたとのことである。
「飯」としてお米が選ばれたのは、天照大御神が「これを主食にしなさい」と言って、高天原で稲穂を授けたからと伝わる。
実際のところ、稲作は中国から朝鮮半島を渡って、日本へ伝えられたと言われている。
それは、数千年も昔の話であるのだが、朝鮮半島と日本列島の狭間にある「対馬」には、その痕跡が今もなお確かに息づいている。
対馬市の豆酘(つつ)地区では、今なお数千年前のお米(対馬赤米)を作り続けているのだという(赤米神田)。
そのお米を食べる時、必ず手にのせて、手で食べる。
それが、気の長くなるほど遠い昔からの作法なのだという。
収穫を祝う「お吊りまし神事」というのも伝統だ。
部屋の天井から、コメ俵を吊り下げて、収穫を感謝する。
その意味は分からずとも、この神事は数千年の時を経てなお、現在も脈々と受け継がれている。

いずれにせよ、日本人はお米を大切にしてきた。
そして、どの稲作民族よりも巧みに稲を栽培することに成功している。
元々のお米は、決して日本の風土に適したものではなかった。
稲は暑い気候を好む植物であるから、雪の降るような地域では栽培できなくて当たり前なのである。
ところが、今の日本では、米どころといえば雪国であり、最北の大地・北海道でもコメの栽培が可能である。
しかし、さすがに北海道で栽培できるようになるまでには、日本民族も相当に苦労したようである。
それが成されるのは、明治時代以降であるのだから。
その記念碑となったコメは「赤毛」と呼ばれる米であった。
寒さの中でも良く育つ種子を選びながら、丹念に少しずつ稲を寒さに慣らしながら、「中山久蔵」氏は北海道で稲の栽培を続けた。
その見事な結果が「赤毛」である。白い米なのだが、稲の毛が赤いことから、こう呼ばれている。
偶然とはいえ、日本に初めて伝わったとされる「赤米」と「赤」でつながっていることは興味深い。

また、水を多用する稲作により、日本人の水の扱いは目を見張るほど進化した。
たとえば、菱野の「三連水車」というのは、江戸時代の灌漑設備であるが、水の力だけを使って、川よりも高いところに水を流すことができる。

筑後の堀川用水に水を引くために作られた「山田堰」は、水底の高さを巧みに調節したことで、水の流れる速さを自在に操るようにできている。
「土砂吐き」という流れの速い場所では、水の力で土砂が自動で掻き出されるため、決して堰が土砂で埋まることがない。
良くも悪くも、日本は水の国。
水に笑い、水に泣いてきた。
稲作を通じた水との長い付き合いにより、日本人はうまく水を味方につける術を学んできたとも言えよう。
栽培のみならず、コメは日本人の金銭感覚をも鋭く磨いた。
その結果、日本には世界最初の金融相場が発生するのである(大阪・堂島)。
米に裏打ちされた「米切手」は紙幣の替わりとなり、敷銀と呼ばれる証拠金さえ積めば、差金決済による先物取引が可能であった。これらの仕組みは、現代の基本的な金融取引のシステムと全く同じである。
昔の紙幣といえば金(ゴールド)に裏打ちされていることが常であったが、米切手の場合、金の代わりにお米との交換が保証されていた。
重たい米俵を移動することなく、紙切れ(米切手)だけで日本全国のお米を自在に操ることが可能となる実に効率的な仕組みであった。

しかし、稲作のもたらしたものは「富」ばかりではなかった。
同時に「争い」も生んだ。
稲は、同じ場所で半年以上も栽培しなければならないため、必然的にその地を「外敵から守る」必要が生じる。
その外敵とは、野生の動物でもあったし、同じ人間でもあった。
土地を争い、水を争う。「国」の誕生の起源である。
そもそも国というのは、守り争うためにできたようなところがあり、その歴史が戦争ばかりであることは、ある意味必然なのである。
稲作の盛んとなった弥生時代の吉野ヶ里遺跡には、争いの痕跡が幾多と残る。
防御の堀や杭、首のない人骨…。

稲作を巡る争いは、古代の日本民族たちの権力闘争でもあった。
現在、日本一の神様は、先述の天照大御神(伊勢)ということになっている。これは明治政府が、天照大御神を天皇家の先祖と決めたからである。
そして、天照大御神が日本民族の稲を授けたとも伝わるように、天照大御神は稲作の起源でもある。
それ以前の日本は?
縄文人とも呼ばれるような、その土地ごとに根付いていた人々があまたいたと考えられている。
天照大御神の伊勢神宮と並び称される「出雲大社」を起源とする民は、そうした土着の民の一つである。
神話によれば、出雲の大国主が国を譲ったということになっている。
ここには、確実に「争い」の影がある。
その争いは、土着の民族と稲作民族とによるものである。
平和に行われたとされる「国譲り」であるが、川が真っ赤になるほど血が流された可能性もある(神話では八岐大蛇の血とされているが…)。
ある地方では、「お米一粒には、7人の神様が宿る」と言われている。
その7人の神様とは、諸説あるものの、その中には必ず「大黒天」が入っている。
大黒天というのは、出雲の大国主のことでもある。つまり、国を譲った大国主は、稲作民族のお米の中に宿されたのである。
ここで面白いのが、大黒天・大国主ともに元々は「争い」の神様であったことだ。
今では福の神の一人である大黒天も、元々はインドの破壊神・シヴァの化身であり、大黒天の「黒」は、元々「暗黒」という意味である。
死者を弔う尸林(しりん)に住むという大黒天は、血肉を喰らい、争えば必ず勝つという神。三つの顔と六本の腕を持ち、忿怒の形相で睨みつけている。
大国主も様々な別名を持ち、その一つが「八千矛神」であり、要するに武力の神様である(「八」という文字は殺された八岐大蛇をも連想させる)。
神話によると、大国主は2度死んでおり(2度生き返る)、はたして最終的に出雲の統治を許されたのが、元々の大国主だったのかは異論の尽きないところである。
そんな争いの歴史も、いまでは遠い昔。
大黒天は袋に七宝(金や銀)を持った長者様のようになり、大国主はお米にも宿ると言われるように豊穣の神様となっている。
それでも、大黒天の微笑みの影には、いまだに争いの要素が潜んでいるのかもしれない。
お米は事あるごとに物議を醸し出す。
現代においても、コメを輸入すべきか否かについては、議論紛糾するところである。
食卓にのぼる一杯のご飯。
この一杯のおコメには、信じられないほどの歴史が詰まっている。
それは、米に一喜一憂してきた日本人の歴史である。
いかなる歴史の中でも、日本には稲が実り続けてきた。
稲の実る色は、果てしなく優しい。
ある人は、その色を「ときの色」と呼んだ。「とき」とは、実りの「時」を表している。

青く猛々しかった稲が柔らかく色付く時、大黒様は満面の笑みとなる。
自然と頭(こうべ)を垂れ、「もう刈っていいよ」と教えてくれるのである。
神宮神田に実った稲は、手で刈られ、手で摘まれて神様に捧げられる。
その様に、神様のお米をつくった人々は、ホッと胸を撫で下ろす。
「今年も無事に実った…。」
日本人の歩んできた道、そして、これから歩む道。
その道端には、いつも稲が実っているのであろう。
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出典:新日本風土記
「コメの旅 イネの道」

