「ウラン・ガラス」という骨董品がある。
ガラスに「ウラン」を加えると、淡い黄緑色になり、世にも稀な美しさとなる。
その美しさに加え、ウラン・ガラスには不思議な魅力があった。
夜明け前に「妖しい蛍光色」を発するのである。

今では、その蛍光色が「紫外線」を受けて発せられるものだと分かっている(夜明け前の青い空には紫外線が満ちている)。
しかし、当時(1830年代)の人々は、ただその妖しさと美しさに惹かれたのである。
ウラン・ガラスは、欧米で広く愛され、コップや花瓶、アクセサリーなどとなって大量に生産された。
現代人ならばご存知の通り、ウランが発するものは蛍光色ばかりではない。
目には見えない「放射性物質」も発している。
しかし、当時の人々はそのことこそ、知るよしもなかった。
この「目に見えない」物質に最初に気付いたのは、「アンリ・ベクレル」氏。
研究に使っていたウラン鉱石の粉末を机の引き出しにしまっておいたところ、一緒の引き出しに入っていた「写真乾板(フィルムの原型)」が、「なぜか」感光していたのである。
光がないのに、なぜ写真乾板が光を感じ取ったのか?
考えられた原因は一つ。一緒に入れておいたウランが「光を発した」ということだった。
最終的には、それは光ではなく、光と似た性質を持つ「見えないエネルギー」であるとベクレル氏は考えた。
のちに判明することであるが、それこそが「放射性物質」であった。
こうして、偶然の結果、放射性物質の存在は世界に知られるようになるのである(1896)。アンリ・ベクレル氏は、この功績によりノーベル賞を受賞することになる(1903)。
すでにお気付きかとは思うが、放射能の単位・ベクレルは彼の名にちなむものである。
ベクレル氏の研究を一段と進展させたのは、「キュリー夫人」である(ベクレル氏は、見えないエネルギーの正体や原理は謎のままに放置していた)。
キュリー夫人は、ウランよりも強いエネルギーを発する放射性物質を次々と見い出してゆく。
「ジャガイモ小屋と家畜小屋を足して2で割ったような研究室」で、彼女は「ポロニウム(1898)」、そして「ラジウム(1902)」を発見していったのである。

それもこれも、夫である「ピエール・キュリー」の作った精密な計測機器があってこそであった。
その優れた計測機器(ピエゾ電流計)は、放射性物質の放つ微弱な電流を検知することができたのだ。
ピエールには「計測オタク」な側面があり、明確な使い道もないまま、このピエゾ電流計を作っていたのである。それが、ひょんなことから放射性物質の特定に活用されたのは、またもや世の偶然であったのか。

「放射能」という命名もキュリー夫妻によるものであった。
「radio-activite」、ラテン語で「radio」は「光の放射」を、「activite」は「能力」を意味する。
つまり、「radio-activite」は「光を放射する能力」となる。
ここで着目すべきは、当時の人々にとっての放射性物質は「希望の光」であったということだ。
現代においては「負の側面」ばかりが際立ってしまっている放射性物質だが、当時の人々は「光あふれる新発見」に大きな期待を抱いていたのである。
時は20世紀初頭。
ダーウィンの進化論、メンデルスの遺伝子などなど、「見えない世界」への探求が深まり、科学は新たな領域へと突入していた。
そうした成果が、自動車や飛行機の発明へとつながり、華やかなる時代が幕を開けていた。
そこに現れた「放射性物質」。
医療の現場では、不治の病である「ガン」が治る夢の治療法(放射線治療)として絶賛され、産業界もこぞって放射能の効用を謳い上げた。
「放射能は魔法の力。あなたもその力を試してみよう!」

美肌クリームにはラジウム(放射性物質)が練り込まれ、オーデコロンにもラジウムが混入された。
なにせ、放射性物質ラジウムは、素晴らしいエネルギーを放つ最新の物質なのである。「放射能入り」が最大の売り文句となっていた。
チーズにもチョコにも添加され、人々は喜んで放射性物質ラジウムを体内にまで取り込んだ(内部被曝)。
ラジウム入りの水を作れるという「夢の蛇口」までが登場した。これでお風呂も放射性物質で満たせるようになり、全身に放射性物質を浴びることまでが可能になった(外部被曝)。

こうした放射性物質ブームで幸いだったのが、「本物の」ラジウムは高価すぎて、「ラジウム入り」を謳う商品の多くが「まがい物」であったことだ。
逆に不幸だったのは、本物を買えるお金持ちたち。放射性物質入りの水を大量に飲んで死んだという記録も残る。
美しい蛍光色を発するということから、ガンを癒すということまであり、放射性物質は「プラスの側面」ばかりが世の中に誇張されていた時代である。
しかし、そんな風潮に真っ向から逆らい、「その恐ろしさ」に警鐘を鳴らす人々も少数ではあったが存在した。
「H.G.ウェルズ」氏は、そんな否定的な人物の一人であった。
彼の著作「解放された世界」には、こうある。
「いったん爆発すると、それはエネルギーが尽きるまで近づくこともコントロールすることもできない」
彼は想像の中で「原子爆弾」を生み出したのである(1914)。
ウェルズ氏の小説の中では、1956年に原子爆弾が完成する。
彼によればその爆弾は「戦争そのものに『決定的な一撃』を与える究極の爆発物」である。
あまりにも、その後に起こる出来事と一致しすぎているために、これが小説の中の出来事とは到底思えないほどである。
残念ながら、人類は最悪のシナリオを歩む結果になる。
新たな科学が切り拓いた道は、自動車や飛行機を生み、多くの人の生命も救えるようになっていた。
ところがその同じ道で、自動車は「戦車」を生み、飛行機は「戦闘機」に変わった。
そして、ガンを治療して人の生命を救う放射性物質は、大量殺人兵器(原子爆弾)へと変貌を遂げた。
新たな科学は戦争を激化させ、第一次世界大戦、第二次世界大戦という悲惨な歴史を生むことにもつながってしまったのだ。
キュリー夫人は科学者になる前に、こう語っていたという。
「自分が人の役に立っている。私はそう実感したいだけなのです」
彼女が科学者になり、放射性物質を探求したのは、ひとえにこうした善意からであった。
第一次世界大戦の戦火の中、キュリー夫人は車(プチ・キュリー号)に「レントゲン撮影機」を積み込み、負傷兵の体内に残された弾丸や異物の除去に尽力した。
彼女のレントゲン装置には、より効率的なラドンが使われていたという。
しかし、戦争の勝利を目指す各国は、総力を挙げて科学を殺人へと振り向けていた。
ドイツは人工的に核分裂を起こすことに成功し、それに戦慄したアメリカは世界の頭脳を結集して核爆弾を作り上げた(マンハッタン計画)。
その結果、原子爆弾の完成は、小説よりも10年以上も早まった(1945)。

この完成をキュリー夫人が知らなかったのは幸運か?
この時、彼女は先立った夫・ピエールの元へと帰っていた。

夫ピエールはキュリー夫人とともにノーベル賞を受賞した数年後に、不慮の死を遂げていたのである。
彼はその死の前に、意味深い言葉を残している。
「自然の秘密を知ることは、本当に人類の利益になるのだろうか?
人類には、それを有効利用する用意があるのだろうか?
その知識が人類に害悪をもたらすことはないのだろうか?」
彼の危惧したとおりに、強烈な光を放つ放射性物質は、大きな「希望」を上回るほどの「絶望」を人類にもたらした。
人類は放射能に笑い、そして泣いたのだ。
強すぎる光は、暗すぎる影をも同時に生んでしまう。
20世紀には、その光と影がいみじくも同居していたのである。
ピエールの言葉には続きがあり、こう締めくくられている。
「人類はこうした新発見から害悪よりも利益を引き出す。
私は、そう信じる者の一人です。」
21世紀となった現在、
我々は依然としてその「岐路」に立ちつくしたままである。
そこには、泣き崩れる人々の姿も、いまだ多い…。
「放射能」関連記事:
想像を超えて放射能に汚染された「飯館村」。「もうガンバレません…。」
次々と解明される「食」の放射能汚染のメカニズム。その最新報告より。
標高35mの敷地を10mまで掘り下げて造られた「福島第一」。その意外は理由とは?
出典:BS歴史館
キュリー夫人と放射能の時代〜人は原子の力とどう出会ったのか?
今に生きる私たちの記憶の中には、希望が絶望に変わってきた歴史が生きている。
たくさんの失敗・犠牲の上に生きている。
それら与えられた恩恵を還元する時に生きている。