極限状態にさらされた人間が見るもの…。
それは天使か、ご先祖様か?
不思議な声を聞き、生命を救われる…。
海中洞窟のダイバー「ステファニー・シュワーブ」さんは、ある時、命綱を失ってしまう。
海中洞窟の内部は、迷路のように複雑に入り組んでいるため、スタート地点にくくりつけたロープ(命綱)を常に携行していなくては、帰る道を見失ってしまう。
さらに、単なる海中とは違い、ヤバくなってもすぐに浮上できない。なぜなら、横へ横へと進んで行くのであるから、真上は岩盤なのである。
そうした環境で「命綱を失う」ということは、直接の「死」を意味する。
ステファニーさんは酸素の量を確認した。「えっ!残り5分?」。てっきり20分は残っていると思っていたのだが、それは致命的な勘違いであった。
彼女は観念した。あと5分後に死ぬことが、ほぼ確定したのである。
観念したはずの心は、突然「怒り」に変わった。
その怒りは、亡くなった夫に対するものだった。いつもは夫と一緒に潜り、命綱を常に確認するのは決まって夫の役割だったからだ。
その彼は数週間前に、この世を去っている。

と、その時、その夫が海中に現れた。
そして、その方角には何やら白いモノが…。
なんと!、それは失くしたはずの命綱だった。
「もう、ダメだ…」と思えるような絶望的な状況において、人間は「別の存在」を見ることがままあるという。
信心深い人々はそれを「神」と呼んだり、そうでない人は「幻覚」だと言ったりする。
ジョン・ガイガー氏は、その不思議な存在を「サードマン(第三の人)」と命名した。
ある医師は、患者が「奇妙なこと」を言うのが気になった。
その患者は、自分とベッドの間に「何か」あるというのだ。何もないのに。
そして、その「何か」は「誰か」に変わった。それでも、誰もいない。
この医師は、あることに気がついた。
脳のある部分に刺激を与えると、「誰か」が現れるのかもしれない。
なぜなら、そのスイッチを切ると、「誰か」は消えてしまうのだ。
脳のある部分とは、「頭頂葉」と「側頭葉」を結合している部分だった。
これらの場所は、「空間に自分が存在している」ことを認識している部分である。
この部分が、何らかの刺激を受けると、「誰か」が現れるらしい…。
その刺激は、「極度のストレス」だと言う人もいる。
それは太古の昔より受け継がれてきた人間の「生きる知恵」であり、危機的な状況に陥った時に、そのスイッチが入ることで、「サバイバル・モード」に切り替わるようになっている、というのである。
海中洞窟のダイバーのステファニーさんは、「道に迷った」ことでスイッチが入ったのか?
「迷った」と思うと、脳は混乱する。パニック状態である。
とりわけ、頭のテッペン「頭頂葉」が混乱して、「自分のいるはずの位置(空間)」が狂ってしまう。いうなれば、GPSが狂って、いるはずのない場所を指し示すようなものである。

ここに「矛盾」が生じる。
自分の見ているもの、聞いているもの(現実)と、「感じているもの(自分の位置)」が食い違ってしまうのだ。
普段は重なっているはずの2枚のシートがズレてしまったようなものである。一つだったものがズレて、2つに見える(感じる)ようになる。
脳は矛盾を許さない。そのため、混乱しながらも何とかこの矛盾を「補正」しようとする。両方の像を正当化するのである。
その結果、現れるのが…。
自分とは別の場所に、「他者(サードマン)」が現れる。
しかし、それは他者ではなく、少しズレた自分自身なのかもしれない。ガイガー氏はそう考えた。
これと似た現象に、「幻肢(げんし)」というものがある。
これは手足などを切断した人々の実に9割以上が感じるものである。
ないはずの手足が、あるように感じるのが「幻肢」である。これもやはり、現実と感覚の「食い違い(矛盾)」がもたらす現象である。

ステファニーさんは、実際に「道に迷った」わけだが、生死の境をさまよった人々は、道に迷うように「生きる道」を見失ってしまう。
その「迷い」は、「自分の位置」の感覚を狂わせ、ズレさせる。すると…。
生死の境をさまよわなくとも、周りに対象物が何もないと、やはり「迷った」ように感じてしまう。
たとえば、見渡す限り何もない「砂漠」にポツンと一人取り残されると、動いているのか止まっているのかさえ、見失ってしまい、やはり「誰か」が現れたりするという。
比較対象があってはじめて、大きいか小さいかが判るのである。同様に、自分が動いているか、周りが動いているかが判るのである(隣りの電車が動いたのを、自分の電車が動いたと勘違いしてしまうこともよくある)。
座禅により瞑想する人々も、同じような感覚を感じることがあるという。
自分の感覚から全てを取り去ってしまうと、やはり自分の位置や大きさを特定できなくなる。自分を極大に感じたり、逆に極小に感じたり…。「無の状態」とでも言うのであろうか?
そして、しきりに幻覚が目に前に現れる。仏が現れたり、邪悪なものが現れたり…。
ある禅僧は、「仏が現れたら、仏を殺せ」と言ったりするが…。
自分の外側に現れる「自分」。
しかし、それが自分だと思う人は少ない。たいてい、他者だと思う。
その他者は、神であったり仏であったり、親であったり恋人であったりする。
ここで興味深いのは、その他者が必ず味方であることだ。
極限状態で現れるという「サードマン(第三の人)」は、きまって善良で、しかもなぜか正しい道を心得ている。
自分が知らないはずの正しい道を…。
アフリカなどの伝統的な通過儀礼では、あえて孤独やストレスにさらし、「サードマン」現象を体験させるものもあるのだという。
ガイガー氏は、サードマンが現れるには「ある条件」が必要だという。
それは「生きるという強い意志」である。
その前向きな意志がサードマンを現出させ、迷える心に正しい一歩を指し示すのだという。
なるほど。前向きな意志の結果であれば、サードマンという他者が善良であることには納得がいく。
しかし、なぜ「正しい道」を知っているのか?
サードマンが自分自身なのであれば、本当は自分自身が正しい道を「知っていた」ということなのか?
「完全に迷った」という感覚が、その知っていた道を思い起こさせてくれるということか?
事象の真意は闇の中なれど、サードマンが「希望」であることは確かなことのようである。
人間は迷ったり、完全に一人になったりすると、パニックになるようにできている。そう思っておいたほうが良さそうである。
山中で遭難する人は、間違いなくパニックになる。自分は大丈夫だと信じ込んでいる人ほど、ある一線を超えた途端、余計にパニックになるという。
しかし、そのパニックは「織り込み済み」なのである。
人類の長い長い歴史において、パニックを乗り越える方法は、すでにDNAに刻まれているのである。
そして、その方法の一つが「サードマン」現象ということになる。
パニック状態において、そのサードマンは「自分以外」であったほうが都合が良い。
なぜなら、混乱した自分が二人いたら、そっちの方が余計に混乱しそうである。何よりも、同じ自分が二人いるという現象自体が異常極まりない。
そこで「他者」が必要になる。
他者という存在であれば、現状をより「客観的」に見ることも可能になる。パニックの原因の一つは、必要以上に自分自身の想念に囚われてしまうことでもある。
誰かが他にいるだけで落ち着ける。実際にはいなくとも、いると感じるだけで救われる。たとえ、サードマンが一言も発することがなかったとしても。
呆れるほどに単純ではあるが、単純だからこその力強さと、その奥深さを感じざるを得ない。
むしろ、単純だからこそ、うまく機能するのかもしれない。複雑で繊細なものは、肝心な時に動かなかったりするものである。
ある人は、冒険家や探検家は「宗教家」でもあると言う。
あえて困難な状況を求め、迷える自分に出会い、そしてそこに真理を見る。
その姿は、苦行を求める行者のようだ、というのである。
「窮すれば変ず、変ずれば通ず」

四国八十八箇所めぐりの「お遍路さん」の脇には、必ず弘法大師(空海)さまが付き添って下さっているのだという。
「同行二人(どうぎょうににん)」という言葉は、そのことを表している。
冷めた眼で見れば、隣に弘法大師さまがいるはずはない。
そんな冷めた眼を持つ人でも、いざ窮地に陥れば、思わず弘法大師さまの姿を探してしまうかもしれない。
そして、自分の持つ「杖」にその影を見出し、不思議と次の一歩を正しい方向へと踏み出しているかもしれない。
サードマンが神であっても、幻覚であっても構わない。
どんなに強がったとしても、人間は「何もない」ということには耐え切れないようである。
杖一本だとしても、そこに「何か」があるだけで落ち着けることがある。「誰か」がいると思うだけで、安心できることがある。
人が本当に必要とするものは、それくらいのものなのかもしれない。
たとえ、それが矛盾していようが、説明のつかないものであろうが、イザという時にはさほど問題にはならない。
ただ恐いのは「無」。
それでも、人はそこを目指したがる。
その先に何があるのかを、あたかも人は知っているかのように…。
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出典:地球ドラマチック 「奇跡の生還に導く声〜“守護天使”の正体は?」


ただ生き延びた人間しか言葉を持たないので、あたかも生き延びれる正しき道に導く存在と思われているに過ぎないのではないでしょうか?
本来のサードマン現象はただ絶望的な死への恐怖や苦痛を和らげる脳の防衛機能、それ以上の効果はないのではないかと感じます。
たまたま生き延びた人間には善き友に映るのは確かでしょうが、死者の証言は得られないのがポイントだと思われます。サードマンを善良な存在にして利用したい者達が神や天使の導きだと騒ぎ混乱を呼んでいるだけで。
「無に帰した」と、かたずくかもしれないけれど、自分(あなた)が死んだらどうなるでしょう?存在しもしない「無」には、はたして行けるのでしょうか。結局のところ各々の主観世界ではだれも死なないと思います。ただ、何かでのつじつま合わせが待っているのでは・・・
「無に帰した」と、かたずくかもしれないけれど、自分(あなた)が死んだらどうなるでしょう?存在しもしない「無」には、はたして行けるのでしょうか。結局のところ各々の主観世界ではだれも死なないと思います。ただ、何かでのつじつま合わせが待っているのでは・・・
「無に帰した」と、かたずくかもしれないけれど、自分(あなた)が死んだらどうなるでしょう?存在しもしない「無」には、はたして行けるのでしょうか。結局のところ各々の主観世界ではだれも死なないと思います。ただ、何らかでのつじつま合わせが待っているのでは・・
ホントにすいません。
初心者なんです。