不況、不況の世の中においても、「活況」を呈している所はあるものだ。
その一つが「水力発電」だという。
「(受注数は)見込みと比べて、数10倍です」
そう語るのは、「角野(すみの)製作所」の社員。
角野製作所(岐阜)は、もともと自動車や航空機の「精密機器」を手がけていたのだが、その高く精緻な技術力を生かして、水力発電用の「発電機」を製造するようになった会社である。
しかし、3月11日の大震災以前は、「ほとんど受注がなかった」という。
ところが、あの大震災の後、需要は急上昇。製造が追いつかずに、急遽、新工場を増設しなければならないほどになった。
とりわけ需要が多いのが、「超小型」水力発電機。
最も小型のものであれば、水位が「たったの3cm」でも発電が可能となる(電力量は約5W)。
道路脇の側溝にスッポリと収まるサイズで、街灯などを灯すことができる。

内部にラセン状の羽があり、その羽が水の流れを受けて回る仕組みである。
直径が少し大きなもの(約90cm)を使えば、約600Wの発電も可能となり、小さな事務所ならばその電力だけで運営することができるという。

さらに、昔話の民家に見られるような「水車」タイプもある。
外観はローテクであるが、中身はハイテクな水車である。
最大出力は2,200W。農産物の加工場などで実用化されている。

こうした自給自足的な「水力発電」に積極的に取り組んでいる地域がある。
岐阜県郡上市の「石徹白(いとしろ)」地区がその一つだ。
この地区の人口は約300人。
上記のような建物単位の発電機だけでなく、少し大きめの「小水力発電機」がすでに3機設置されている。
近い将来、一機50kWの小水力発電機を2機つくって、地区全域の電力を自給する予定である。
わずか4年という短い期間で、電力自給への道が明確に示されるまでになった。
原発の是非もあるが、大きな発電所はメリットばかりではない。
水力発電に積極的に取組む「石徹白(いとしろ)地区」の想いは、「災害時」にも電力を安定供給することにある。
東北地方の太平洋沿岸は、震災後も久しく電力が供給されなかった地域も多かった。
「もし、発電できたら…」、その想いは、不自由を味わった人ほど強く抱いた想いであったであろう。
発電機器を製造する角野製作所が受注に追われているのは、他者への電力依存の危険性を皆が痛感したことの現れでもある。
発電を個人、もしくは地区単位で行うことは、すでに技術的に可能である。
「費用」という問題もあるが、山梨県の都留市では「市民債」という手法で、その問題を解決している。
市民債を発行することによって、水力発電にかかる費用を住民に借りたのである。市民の協力のおかげで、総工費1億円のうちの4,000万円を市民債によってまかなえたという。
世界に誇る日本人の個人資産が有効活用された好例である。志に共鳴すれば、喜んでお金を出してくれる人々も多いようだ。
じつは、費用よりも大きな問題が別にある。
「水利権(水を利用する権利)」だ。
その権利は国(国土交通省)や都道府県、河川の大きさに応じて市町村などが持っている。
さらには、漁業権や水利組合なども絡んでくることもある。
この水利権の「許可申請」がクセモノである。
必要書類を手元にそろえるだけでも、一年以上かかることもあるのだとか。
オンラインからPDF書類を簡単にダウンロードするようにはいかないのである。
審査基準も厳しい。
巨大なダムの発電だろうが、超小型の発電だろうが、すべて同じ基準。
この水利権が得られずに、水力発電を「断念」する市町村もあるという。
逆に、すでに水利権を持っている業者は強い。
たとえば、「浄水場」などはすでに水利権を持っている。浄水場内での水の流れを利用するだけで、かなりの電気を生み出すことができる。
実際に、神奈川県横浜市の川井浄水場では、施設内に小水力発電機を備えている。
全国では、この他に13ヶ所の施設でこうした「水道管取り付け式」の発電機が利用されているという。

こうした小さな水力発電の実例を知るにつけ、この方法は日本に向いているのではないかと思えてきた。
太陽や風力は、広い土地を必要とする。日本の国土を考えるに、充分な発電量を得ようとするのは非現実的な側面がある。
水力といえども、従来の大型ダム方式では手詰まり感があった。巨大なダムを造る場所は、日本に限られている。
しかし、小さな水力発電となると、その設置場所は無限にあるように思える。
幅が20〜30cmあれば発電機が設置でき、水かさは3cm程度でも電気を作れるのである。
道路脇の側溝でもよければ、水道管の中でもよい。捨てるだけだった「下水」から、新たなエネルギーが生まれると考えるだけでも大きな希望がある。
技術が進めば、もっと利用幅が広がるかもしれない。
下水だけでなく、上水、つまり水道の蛇口から水を出すエネルギーも、電力に変えられるかもしれない。
蛇口をひねれば電気がつく、というのも面白い。
日本はそこかしこに水が流れている。
そして、あらゆる水の流れは電力となりうる。
福島第一の事故で日本人が痛感したのは、原発の危険性だけではないだろう。
電力を「他人の手に委ねすぎる危険性」も痛感したはずである。
どこか遠くの巨大な設備で電力を作るという手法は、「効率的」ではあるかもしれないが、「リスク」も高い。そこがやられたら終わりである。
すなわち、原発だろうが、グリーンエネルギー(太陽・風力)だろうが、「大規模」に発電する手法には、限界と危険性が同様に潜んでいるのである。
新たな道をつけるのであれば、「小型化」という道をつける必要がある。
発電を小型化し、分散することで、大規模発電を補うこともできれば、災害にも強くなる。
現在の世論では、原発と自然エネルギーを対置させる議論が多いが、そこに「大型発電」と「小型発電」を対比させてみるのも面白いだろう。
小型化を模索していけば、必然的に自然エネルギーという選択肢しか残らない(小型原発が開発されれば、話は別だが…)。
つまり、小型化を提唱することは、そのまま自然エネルギーの支持となり、間接的な原発反対のスタンスとなるのである。
真っ向から原発反対を叫ぶよりは、よっぼど現実的である。
デモには山のごとく動じない大企業でも、電力を使われなくなったら、浮き足立つであろう。
そして、その小型化というのは、大企業や国・都道府県への依存からの脱却にもつながる。
個人や市町村という小さな単位が、より大きな力を持ち、「独立性」を強めることができるのである。
実際、先述の「石徹白(いとしろ)地区」で小水力発電をまかされている人物は、「地域の独立」という言葉を口にしていた。
エネルギーを、そして社会を変えたいのであれば、これほど有力な選択肢もないであろう。
これは、今すぐに、誰にでも着手できる改革の一つである。
今、喜んで一塵のチリとなれば、それはいずれ誰にも動かせない巨大な山となりうるかもしれない。
前世紀にひたすら大規模化を目指したパラダイムは、ここらで少し、小規模化のほうへシフトさせるのも悪くはない。
選択肢を狭め続けた時代は、新世紀に入り、新たな選択肢を必要としているかのようである。
「何かに反対する」というスタンスも、ある意味つまらない。また、選択肢が限定される方向へ向かってしまう。
原発もあって良し、自然エネルギーもあって良し。大企業が発電しても良し。個人が発電しても良し。
鍋には色々な具材が入っている方が、楽しみが増えるというものである。
好き嫌いがある人は、好きなものだけを食えば良いし、好奇心のある人は、新たな食材にチャレンジしてみれば良いだろう。
「小水力発電」というのは、じつに美味しそうな具材である。
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出典:WBS特集「電力の地産地消に“小水力”」