2011年11月20日

なぜ「マツタケ」は消えたのか? 本当に失われたのは自然との「絶妙な距離感」。


「マツタケへの日本人の愛着は他の追従を許さない」

そう韓国人が呆れるほどに、日本人は松茸を好んで食べる。

あまりにも日本人が「マツタケ、マツタケ」と騒ぐため、その「学名」には「Tricholoma matsutake(まつたけ)」と、日本語の読みが加えられたほどである。



日本人と同種であろう韓国や中国の人々は、日本人ほどにマツタケを特別視していない。薬になるか、もしくは日本で高く売れるか、その程度である。

ましてや、欧米人ともなると尚更だ。彼らはマツタケの芳(かぐ)しい香りを、「軍人の靴下の臭い」と表現してはばからない。

マツタケの香りの主成分は、「1-オクテン-3-オール」と「桂皮酸メチル」というもので、外国人には「松脂(まつやに)臭い」だけの香りである。



ところで、なぜ日本人はマツタケを好むようになったのか?

それは、日本人がずっと昔からマツタケを「常食」してきた歴史があるからだという。



1,200年以上前の「万葉集」にもマツタケは登場し、江戸時代には「庶民の食」として、シッカリと定着していたようである。

「マツタケを煎ってからダシ汁を加える」というのが一般的な食べ方だったようだ(マツタケの旨味成分は加熱することで出てくる)。

その他、吸い物、焼き物、蒸し物、寿司などなど、いろいろな調理法でマツタケが庶民に食されていたことが江戸時代の記録に残る。

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つまり、日本人にとって、マツタケは「いつもの味」であり、「懐かしい味」なのである。

世界には嫌悪する人も多いマツタケの独特な香りも、日本人のDNAにとっては、「クセ」になってしまっているのだ。



「ん?なんであんな高価なマツタケを江戸の庶民は軽々と口にしていたんだ?」

じつは、現在では「高嶺の花」であるマツタケも、かつては他のキノコ同様、「普通に採れていた」のである。



マツタケが極度に「希少化」したのは、戦後のたった50年の話である。

戦前には、マツタケを満載した貨物列車が毎日、東海道本線を行き来し、店頭にはマツタケが山と積まれていたほどだという。

記録に残るマツタケの生産量は最大1万2,000トン(1941)。それに対して、昨年(2010)は140トン。

この50年で、マツタケが激減したことが明らかである。

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しかし、なぜマツタケは激減したのか?

真っ先に思い浮かぶのは、「環境破壊」であろう。

ところが、じつは全くの逆で、環境を「破壊しなくなった」から、マツタケが採れなくなったのである。



というのも、マツタケは栄養の多い土地では育てない。

それはマツタケの宿主となる「アカマツ」も同様で、両者ともに「荒れた土地」を好んで生息する(マツタケはアカマツの根に共生する)。

植物学では「パイオニア(先駆)植物」と分類され、栄養の乏しい土壌に育ち、その土地が豊かになるにつれて姿を消していくのである。



戦後、日本人はあまり「山」に入らなくなった。

すると、山は落ち葉などが降り積もり、ドンドン豊かになる。

そうなると、もうマツタケやアカマツの出番はなくなってしまうのである。



昔の日本人はセッセと山に入った。

木を伐り、それを「燃料」とし、落ち葉を集め、それを「肥料」とした。

人里近くの山は、おいしいところを全て人間に持っていかれて、なかなか肥えるヒマがなかった。つまり、森は慢性的に「栄養不足」となっていたのである。



そして、この「栄養不足」の状態こそが、マツタケにとって「理想的」な状態だった。

結果として、人里近くの山の土中には、マツタケの菌糸(シロ)が常駐し、毎年毎年マツタケの提供を続けてくれていたのである。



戦後、燃料としての「薪」、そして肥料としての「落ち葉」は必要とされなくなった。

燃料革命、そして肥料革命である。

すると、森は鬱蒼(うっそう)と生い茂り、地面はミルフィーユのごとく落ち葉が幾重にも層を成すようになった。



森は茂るほどに「アカマツ」は暮らしにくくなる。

アカマツは栄養が少ないことにはテンで平気でも、「日当たり」が悪くなるのは大の苦手である。アカマツが荒地を好むのは、他の植物が育ちにくく、日当たりが大変良好であるためだ。



また、落ち葉が腐葉土となり栄養豊富になると、マツタケ菌は暮らせなくなる。

なぜなら、栄養豊富な養分を求めて「雑多な菌」が繁殖してしまうからだ。残念ながら、マツタケ菌には競争力が「皆無」である。マツタケ菌は「もっとも弱い菌」といっても過言ではない。



アカマツ、マツタケの両者は、このようにデリケートである。

他の植物や菌が繁茂した森では暮らしていけない。できるなら、アカマツとマツタケだけにしていて欲しいのである。



このデリケートさゆえに、マツタケは「人工」で栽培できていない。

「天然モノ」とワザワザ銘打たなくとも、マツタケには天然モノしかないのである。

他のキノコ類が「死んだ木」に生えるのに対して、マツタケは「生きたアカマツ」にしか生えないというやっかな特徴も、人工化の大きな障壁となっている。



人工栽培への取り組みは盛んであるものの、今のところ全戦全敗。

アカマツの根っこにマツタケの菌糸を共生させるところまでは上手くいくのだが、肝心のマツタケが出てきてくれない。



マツタケ的には、「本当の姿」はあのお馴染みの傘姿ではなく、地中にある白くモヤモヤとした菌糸の姿(シロ)である。

あの傘を地上に出すのは、他の場所に別天地を求めるためである。そのため、もし地中が快適であれば、ワザワザ地上に姿を現すことはない。

matsu1.jpg


この点が最大のナゾである。

どういう条件がそろえば、マツタケは地上に顔を出すのか?

いまだに分かっていない。



研究室では全戦全敗でも、森の自然環境をマツタケ用に整えることは可能である。

まず、アカマツ以外の木を全て伐採する。そして、落ち葉も全てかき出す。落ち葉のみならず、腐葉土となった地上数センチの栄養豊富な土も剥ぎとる。

こうして、徹底して森を破壊してやると、マツタケはちゃんと出てくるのである。



森が追い詰められるほどに、森はマツタケを出してくれるわけだ。

そして、アカマツの落ち葉が周囲の土を豊かにし、いずれ他の植物が育てるようになれば「老兵去るのみ」、アカマツは消えてゆく…。同時にマツタケも消えてゆく…。

変転してやまない自然の流れである。



土が豊かになるに従って、そこに生育する植物は変化するのが自然である。

人間が同じ植物を同じ場所で栽培し続けられるのは、その自然の流れを「あるところで止めている」からに他ならない。

自然のままに土が豊かになれば、いずれ木が生え森となる。決して田畑のままに留まることはできない。

それはマツタケが同じ場所に留まり続けることができなかったのと一緒である。



人間が自然と共生するということは、ある意味、大自然に進化を待ってもらっていることでもある。

畑が畑であり続けられるのは、草を除き、木が生えないようにしているからである。

必要以上の栄養があれば、雑木が生い茂り、とてもではないが耕せる状態ではなくなってしまう。



人の住めない「山」と、人の住む「里」の境界には、かつて里山という「人と山の共有地」のようなものが存在していた。

その共有地は、適度に自然が破壊され、自然の流れが止められたゆえに、決して山になることはなかった。

ところが、人々が山を離れるや、そうした共有地は全て「山そのもの」となった。山に帰ったのである。

マツタケが消えたのは、里山が山に帰った当然の結果である。



外国には「コモンズの悲劇」という言葉がある。

コモンズとは「共有地」である。共有地の自然は皆が手当たり次第に「乱獲」するために、悲劇的に荒れ果てるという意味だ。



程度の差こそあれ、ある意味、日本の里山も「コモンズの悲劇」である。

そして、その悲劇の結果が「マツタケ」である。

さらには、この悲劇が止んだ結果がマツタケの激減である。



何も生えなくなった土地に生えるマツタケ。

そして、他の植物が生えるようになったら姿を消すマツタケ。

最も弱いとされるマツタケ菌であるが、じつは「最も強い」のかもしれない。



ただ、最も「遠慮深い」菌でもあるために、他の菌が登場すると、進んで場所を明け渡すのかもしれない。

自分の役割を充分に心得て、去る時を知れば、潔く去ってゆく。



武士は荒れた世を治めるために登場し、世が治まれば姿を消した。

そんな姿が日本人の好むマツタケに重なるのは、何かの偶然であろうか?



マツタケは大自然と「絶妙の距離感」を保ち続けることでのみ、豊富な収穫を期待できる。

何の科学的知識がなくとも、江戸の人々はこの絶妙な距離感を自然体で保っていたのだ。

今の日本人は、科学的な知識をふんだんに持ち合わせながら、マツタケを生むことはできないでいる。



歴史長き日本民族による「自然との共生の知恵」に脱帽せざるを得ない。

マツタケの減少は、現代人の「自然からの乖離」を象徴しているのである。



自然は破壊しなければ良いわけでもないだろう。

我々は自然を食らって生きなければならないのである。

破壊は必然である。問題はその「程度」ということになる。



「程々(ほどほど)」をわきまえていた日本民族。

何千年も一つの島国で生き続けた彼らには敬意を覚える。

ヨーロッパの民族が自分の土地の自然を破壊し尽くし、アメリカという別の大陸を求めたのとは対称的である。もっとも、日本民族は大陸を求めようにも、中国が強大すぎたのだろうが…。



弱いからこそ、知恵は出る。

敵わないからこそ、力で解決できない。



マツタケに馳せる想いは尽きることがない。

もう少しマツタケに学ばなければ、人類には「もう一つの地球」までが必要となってしまい、いずれまた、「もう一つ」となるだろう。



「程々(ほどほど)」とは、どういうことなのだろうか?

武士たちは、つかず離れずの「間合い」を充分に心得ていたはずである。




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出典:いのちドラマチック
「マツタケ 弱者の戦略」


posted by 四代目 at 06:36| Comment(1) | 植物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
キノコの類の中でもマツタケなどの共生種は、菌糸で樹木に栄養を送りながら、自分も生かしてもらう。
とっても理想的な関係でありながら、その地が肥えてくるとそこに居られなくなる為、別天地を求めてキノコとして登場する。

日本の…一見荒れてはいるけど土の肥えた山には生きられなくても、伐採してハゲ山となってしまった山の再生には、持ってこいの植物かもしれませんね。

自然は循環してこそ健やかに保たれる。
『環境保護』と銘打った行動の多くは、無知が為に更に環境破壊を促進させる結果を招くものも。

10年20年ではなく。一部地域でもなく。
もっともっと長い目で。全体を見て。
…その上で、細部に行き届く年間計画を打ち出して行かなければ…と思います。例えば明治神宮の杜のように。
Posted by hanna at 2011年11月22日 01:39
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