「その御顔を見たら、呪われる」
1,300年間もそう信じられてきた人形があった。
「磯良神(いそらのかみ)」の人形である。
ここは大分県中津市。
3年に一度、旧暦閏年の10月12日に「古要神社」にて、神に捧げる人形芝居が行われる(正式名称:傀儡子の舞、および神相撲)。
1,300年も住民たちに受け継がれてきた伝統行事である。
「磯良神(いそらのかみ)」はその人形芝居に登場する神様である。
その御顔には紙が巻かれ、芝居をする者たちですら見たことがないという。
御顔に巻かれた紙が古くなって、それを取り替える時ですら、細心の注意を払って御顔は見ないようにしているそうだ。
誰しも「タタリ」には遭いたくない。たとえ、それが迷信だとしても。

この人形劇のクライマックスは「神相撲」。
東の横綱「祇園(ぎおん)さま」と西の横綱「住吉(すみよし)さま」の大一番である。
祇園さまは、ひときわ大きい。他の人形の軽く2倍はある巨大さである(65cm)。それゆえ、いかにも強そうだ。
対する住吉さまは、祇園さまの半分の小ささ(33cm)。圧倒的に不利である。
住吉さまがさらに不利になるのは、祇園さまに大勢の助太刀が現れてからである。
たった一人の小さな住吉さまは、押しに押されて何度も窮地に陥る。
ところが、一転、住吉さまは祇園さまの大軍勢を見事投げ飛ばすのである。

この人形芝居は、九州の豪族であった「隼人」と中央政権「大和朝廷」の戦い(719)を模したものと伝わる。
大きな「祇園さま」が大和朝廷であり、小さな「住吉さま」は九州の隼人である。
史実では、当然ながら大和朝廷(大きな祇園さま)が勝利を収めるのであるが、この人形芝居においては、逆に九州の隼人(小さな住吉さま)が勝つ。
それは、殺された隼人族数千人の怨霊を鎮めるためと言われている。すなわち、この人形芝居は隼人の霊への供養祭として始められたのである(744)。
現在に伝わる人形たちは、江戸時代、細川忠興により新しく作り直されたもの(1617)を大切に使い続けているのだという。
ところで、この人形芝居の寓するところは、一地方の反乱のみではないような気がしてならない。
というのも、相撲で対決する「祇園(ぎおん)さま」と「住吉(すみよし)さま」は、もっともっと意味深な存在である。
それは両方の神様を詳しく見ていくことで明らかになる。両神の背景には共通して「朝鮮」があるのである。
祇園さまの祀る神は、「スサノオ」と「牛頭(ごず)天王」。
対する住吉さまの祀る神は、「住吉三神」と「神功皇后」。
「スサノオ」と「牛頭天王」は異国由来の神とされ、対する「住吉三神」
と「神功皇后」は日本古来の神とされている。
スサノオは天から追放された後、新羅(朝鮮)のソシモリに降り立ったと伝わる(諸説あり)。
牛頭天王は元々、釈迦の聖地である祇園精舎の守護神であり、こちらは明らかに異国の神である。
牛頭天王は京都に流行った「疫病」を鎮めるために日本に呼ばれたとされる。昔、疫病は異国から来ると考えられていたため、異国の疫病に対抗できるのは、異国の神様より他にあるまい、となったのである。
京都の祇園祭は、その名残りである。夏は疫病の蔓延しやすい季節であったから、牛頭天王に是非疫病を鎮めてもらおうとしたのが、その起源とされている。
また、スサノオと牛頭天王は「恐ろしい神様」でもある。
日本の神様は、優しい神様(和する神)と恐い神様(荒ぶる神)の大きく2つに分けられるが、両神とも「恐い神様」なのである。
スサノオはワガママによって天から追放され、その粗暴な振る舞いにより、姉である天照大御神(あまてらすおおみかみ)は岩屋にこもってしまう。
その強さから、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治するという伝説もあるが、恐ろしい乱暴者というイメージが付きまとう。
牛頭天王は、その姿カタチの恐ろしさゆえに、近寄ることすらはばかられたという。頭には1mもの赤い角があったとされ、牛の顔をした鬼のような存在であったのだ。
かたや、住吉さまを象徴する「住吉三神」と「神功皇后」には良いイメージがある。
「住吉(すみよし)」の「吉」は古来「え」と読み、「すみのえ」、つまり「澄んだ入り江」のことである。
神功皇后は、応神天皇を生んだことから「聖母(しょうも)」とも呼ばれている。
どちらかといえば、両神ともに優しい神(和する神)である。
さらに、両神ともに水と関係が深い。住吉三神は海の神様であり、神功皇后は母なる海である。

ここで少し整理すると、「祇園さま(スサノオ・牛頭天王)」は恐ろしい神様であり、「住吉さま(住吉三神・神功皇后)」は優しい神様であることが分かる。
また、祇園さまが「大陸(異国)」を思わせるのに対して、住吉さまが「海(島国・日本)」に通ずる要素があることも分かる。
つまり、祇園さまと住吉さまとの相撲は、「大陸勢」と「島国勢」の戦いの姿をも思わせるのである。
素直なイメージに従えば、大陸勢が「悪玉」、島国勢が「善玉」ということにもなる。
人形の大きさもそれを示している。巨大な大陸勢(祇園さま)と小さな島国勢(住吉さま)である。
祇園さまと住吉さまが「朝鮮」でつながるのは、住吉さまの祭神である「神功皇后」に朝鮮征伐(三韓征伐)の伝説が残るためである。
海を渡った神功皇后は、朝鮮半島の「新羅・百済・高句麗(三韓)」を日本の支配下に収めたのだという。
この三韓征伐の伝説こそが、豊臣秀吉の朝鮮出兵、そして明治時代の征韓論、さらには韓国併合(1910)の大義名分とされるものである。
元々、神功皇后は天皇の一人とされていたのだが、なぜか大正時代の詔書(1926)により、歴代天皇から外されている。
さらには、実在しなかったという説まで根強い。また、神功皇后を卑弥呼、もしくはその跡を継いだ壹与とする説もある。
神功皇后の陵墓とされる古墳は現存するものの、宮内庁の厳重な管理下に置かれているために、まともな調査が行われたことは未だにない。
この辺りまで踏み込んでしまうと、歴史の「不都合な果実」に出くわしてしまうのかもしれない。
朝鮮半島と日本列島の知られざる歴史である。
歴史には「消された事実」が幾多とある。
冒頭でご紹介した「磯良神(いそらのかみ)」もそうである。
この神様は御顔を表すことすら許されていない。「呪い」という呪縛によって。
「磯良神」は神宮皇后の朝鮮出兵の際に、助力を求められた神様であるという。
磯良神には「潮の流れ」を操る霊力があったため、神功皇后の朝鮮征伐は成功したのだとも伝わる。
また、磯良神はウガヤフキアエズ(鵜草萱不合命)の同一神であるという説もある。
このウガヤフキアエズの神は「異類の神」とされる。
天皇につながる神々の名前には、すべてに「稲」が関連付けられているのだが、このウガヤフキアエズに限っては、その稲と無縁なのである。
現在の定説では、ウガヤフキアエズは神様の一人(一柱:神様は正確には柱と数える)とされているが、「竹内文書」などによれば、その名は一柱の神様を意味するのではなく、数十代にわたる「王朝」のことと記されている。
しかし、ウガヤフキアエズを長期に渡る王朝であったと伝える「竹内文書」は、現在「偽書」とされており、正式な歴史とは認められていない。
またまた、不都合な果実の登場である。
磯良神の御顔は、その「醜さ」ゆえに隠されているというのだが、はたしてそれは真実か?
都合の悪い真実が隠されたのではあるまいか?
ここで面白いのが、祇園さまも住吉さまも「同根」なのである。
その大元はイザナギ・イザナミの夫婦神である。
祇園のスサノオは、この夫婦の三兄弟の末っ子であり(姉にアマテラス)、住吉三神も然り、イザナギの禊ぎにより生まれた清めの三神なのである(三神とは表面・中ほど・底)。
つまり、祇園さまと住吉さまは、同じ神様の異なる側面と捉えることもできる。祇園さまが悪の顔、住吉さまが善の顔となる。
そして、その系図をさらに遡れば、ウガヤフキアエズ、つまり磯良神(いそらのかみ)に行き着くこととなる。
磯良神は、神功皇后に味方することに思い至れば、元々の正統性は住吉さまとも考えられる。
それならば、祇園さまが恐ろしい神様(荒ぶる神)であることにも合点がゆく。
しかし、現在の定説に従えば、正統と思われる住吉さまが軽く扱われ、ときには歴史の闇に葬られたりもしている。
それに対して、祇園さまは悪の神様から見事に転化し、おおいに隆盛を極めているとも言える。
大和朝廷により、歴史が都合よく操られた成果であろうか?
ここに一つ、歴史の「妙」がある。
武家政権の祖ともされる源頼朝、そのご先祖さまの源満仲(清和源氏の祖)は、住吉さまを奉じているのである。
つまり、大和朝廷以来、不遇をかこってきた住吉さまは、武家に担ぎ出されることにより、再び表舞台へと登場するのである。
そして、その武家政権は江戸時代の終わりまで続くことになる。
そもそも、武士の発生を考えると、なぜ源満仲が住吉さまを奉じたのかも、おぼろげながら見えてくる。
大和朝廷に辺境とされた東北や九州の民は、都人たちから侮られる存在であったものの、その優れた武勇によって一目置かれた存在でもあったのである。
武士階級というのは、そうした武勇に優れた辺境の民が、その祖となったと言われている。
つまり、武家とは辺境の民(東北・九州)の末裔とも言えるのである。
大和朝廷によって制圧された東北・九州の民は、日本列島に古来より住み着いていた集団とも考えられる。
すなわち、辺境の民こそが、元々住んでいたという意味では正統であり、大和朝廷こそが後からやって来た勢力であるということにもなる。
祇園さまに駆逐された住吉さまは、まさにそうした辺境の民と符合する。
それならば、その辺境の歴史が秘められ、書き換えられようとも何ら不思議はない。
江戸時代、武家の細川忠興が、あの人形芝居を再興したのは偶然なのであろうか。
それとも、真の歴史を少なからず伝えようとした歴史の必然だったのであろうか?
なぜ、1,300年もあの人形芝居は語り継がれているのか?
大きな力が残そうとしたわけではない。か弱い民衆によって細々と、しかし途切れることなく伝えられて来たのである。
歴史は無慈悲ではない。
残るべきものは、どれほどの苦難にさらされても残される。
九州の片田舎に残った人形芝居に、その影をみるのは大ゲサか?
それとも逆に、いつ途絶えてもおかしくないほどの小さき伝統が残された奇跡に、真実の影を見出すのか?

歴史の優しさは、どうとでも解釈できる融通の中にもみることができる。
各々が信じたいように信じられるくらいの余白は、充分に残されている。
ただ、自分の解釈を人にまで強要した時には、明らかに歴史は歪む。
実際、大和朝廷の歴史には、数々の歪みがある。
そして、その歪みは時おり歴史上で不思議な因果となって現れる。武家政権の誕生も、その因果の一つであろう。
日本古代の歴史には、まだまだ異論が多い。
ということは、その歴史には未だに解消されていない因果(歪み)が、まだまだあるということだ。
そうした歪みは、知るべき時、そして、正されるべき時を待っているのかもしれない。
その日が来るまで、あの人形芝居は続けられてゆくのだろう。
そして、その因果が消えた時、その伝統は必要なくなるのかもしれない。
人形芝居のクライマックスは、祇園さまと住吉さまとによる派手な大一番ではあるのだが、「磯良神(いそらのかみ)」の登場シーンの方が「印象的」だったと感じる人も多いという。
顔をおおった磯良神が舞台に登場するや、舞台はシンと静まりかえる。
舞の囃子が中断されるのである。
そして、その静けさの中で、磯良神の「宣り言(のりごと)」が厳かに唱えられる。
この「宣り言」こそが、この人形芝居の真のメッセージなのかもしれない。
いうなれば、傀儡(くぐつ)は操り人形に過ぎない。その背後には大きな「何か」が存在するものである。
日本という不思議な国の歴史は、傀儡(くぐつ)の歴史だとでも言うのであろうか?
人智の及ぶところは限られている。誰一人として、磯良神の言葉(宣り言)理解できる者はいない…。
すべての芝居を見届けるは、「明けの明星・宵の明星」という二柱の神さまのみである…。

「日本古代の歴史」関連記事:
幻の邪馬台国、謎の女王・卑弥呼とともに。
日本武尊の霊験か? 鳥も畏れるそのオーラ。
神話を忘れた国民は100年続かないという。
関連記事:
神様のお米と日本人。その長い長い歴史に想う。
日本の心を残す里「遠野」。時代に流されなかった心とは……。神の山「早池峰山」とともに。
「稲むらの火」で大津波から村民を救った「濱口梧陵」。「志は遠大に、心は小翼に」。
出典:ドキュメント20min.
「神を操り 神を継ぐ」

