2011年11月15日

「アメリカ人」であることと、「イスラム教徒」であることは「矛盾」したことなのか?


今から10年前、アメリカで2塔の巨大なビルが崩壊した。

「9.11同時多発テロ事件(2001)」である。

憤ったアメリカ国民は、闇雲に「イスラム」への風当たりを強めた。なぜなら、そのテロの首謀者がイスラム教徒と断定されたからである。

そして、その矛先はイラクへと向かい、テロから1年半後には「イラク戦争(2003)」という形で報復が敢行された。



こうした一連の出来事の中で、最もトバッチリを受けたのが「イスラム系アメリカ人」であった。

彼らはアメリカにあっては「イスラム教徒」として糾弾される。「なぜ、ビルをブッ壊したんだ?」

そして、イラクにあっては「アメリカ人」として非難された。「なぜ、イラクに爆弾を落とすんだ?」



崩壊した2塔のビルは象徴的である。

あの「2つのビル」と同時に、イスラムへの信頼と、アメリカへの信頼という「2つの信頼」も姿を消したのだから…。



2つのビルは、「白か黒か」で物事を単純化したがる人間の「二元性」をも強く表していた。

テロ事件以降、アメリカ国民はイスラム教徒を「黒(悪)」と決めつけた。

イスラムの子供が花火を買うのを見ただけでも、「爆弾を作るのではないか?」と勘ぐり、警察に通報する人までいたという。

イスラム教徒(黒)であり、アメリカ国民(白)であるというのは、大きな「矛盾」となったのである。



キリスト教や仏教の教えが一つとは言い切れないように、イスラム教にも様々な流れがあり、そこには多様な考え方が存在する。

単一の宗教といえども、白黒は曖昧で、むしろほとんどがグレーゾーンと捉えた方が正確かもしれない。

しかし、他者を見るときにはどうしても、その違いにまで目を向けられない。「イスラムはイスラムだ」と極度に単純化(白黒化)してしまう。

そして、「イスラムはテロリストだ」とまで極端化してしまうのである。

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こうした環境の渦中におかれた「イスラム系アメリカ人」たちは、「イスラムとは何か?」、そして「アメリカとは何か?」、それらのアイデンティティの疑問に直面せざるを得なかった。

彼らの存在自体が「矛盾」とされたのだから。



ところで、イスラム教徒というと、厳格な宗教規律を重んじる人々を連想するかもしれないが、実際のところ、日本人と仏教のように、宗教的というよりも「文化の一部」と捉えているイスラム教徒も数多い。

とりわけ、若い世代などはそうで、礼拝もしなければ、断食もしない、イスラムとは何かも考えたことがない人々も大勢いる。

日本人とて、墓参りに行かずに、仏教のことをサッパリ知らない人が多いのと一緒である。



ところが、テロ事件以来、そうした若くライトなイスラム教徒たちも、アメリカ人に「イスラムって何なんだ?」と問い詰められることになった。

ライトなイスラム教徒にとって、そんな「本質的な問い」に答えられようはずはない。

しかし、それでも「その問い」には向き合わざるを得なかった。

「イスラムって何なんだ?」



ウェブサイトを運営する「ワジャハット・アリ」氏(30)は、「ユーモア」とともに生のイスラム教徒の姿を伝えようとした。

「ラマダン(断食)ブルース」という作品には、イスラムの少年が登場する。



少年は父親にこう誓う、「今年こそは断食をちゃんとやるよ」。

イスラム教では、ラマダンの月は断食の月であり、太陽が出ている間は食物を口にしてはならない。食べるのは日没以降だ。

しかし、不幸にも少年はポケットに残されていた「m&m(チョコレート)」を見つけてしまう。まだ、日は高いのに…。

少年はこの大きな誘惑に抵抗を試みるが、どうしても抗(あらが)い切れない…。ついに…、パク。

「ボクの断食は、アメリカのチョコに『ハイジャック』されたんだ。」

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また、一日5回の「礼拝」に苦しむ男の作品もある。

「My awkward moments in Muslim prayer(イスラム礼拝者として気まずい時)」

公共の場で礼拝をするのは、予想以上に大変だ。人目を忍び、任務(礼拝)を遂行しなければならないからだ。この地はアメリカなのだ。



午後の礼拝のために男が向かった場所は、「GAP(衣料品店)」の試着室だった。不審がられないように、商品を見るふりをしながら目的地(試着室)へと向かう。あせって女性物のジーンズを手にとってしまったのはご愛嬌。

無事に試着室へたどり着くと、ホッと一安心。北東(祈りの方角)を確かめて、ようやく頭を地につける。

ところが、試着室の下のスキマから店員がこちらを見ているではないか!

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「お客さま、大丈夫ですか?(Sir, is everything all right?)」

「(ヤバイよ、最悪だ!)、大丈夫(汗)、大丈夫です(汗)!(Everything is fine! Just fine!)」

ドアを開けると、その店員は混乱した表情だ。何らかの説明をせざるをえない。

しどろもどろになりながらも、男は必死で釈明を試みる。「えー、イスラム教徒は一日に5回お祈りをしなくてはならなくて…。そのためには、然るべき場所も必要でして…。」



この作品は大いにウケて、わずか2日間で世界中に広まったという。

アリ氏は、ユーモアを駆使してイスラムを説明しようと日夜努力している。



映像クリエイターの「リナ・カーン」さん(27)は、YouTubeなどを使ってイスラムの姿を描き出している。

彼女が言うには、

「テロ以来、私たちイスラム教徒は『2つの眼』を持つようになりました。

1つ目の眼は今までと同じですが、2つ目の眼では、『周りからどう見られているか』を常に気にしています。」

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じつは、彼女はテロ以前はそれほど敬虔なイスラム教徒ではなかったという。敬虔さの証であるスカーフもしたことがなかったのだとか。

しかし、テロ以降は否が応にもイスラム教徒であることを、強く意識させられるようになった。

そして、それが誤解に満ちたものであることにも、気づかされた。



やはり、彼女もユーモアとともにイスラム教徒の苦悩を表現している。

「Bassen is Trying(ベッセンはがんばっている)」と題された作品では、アメリカ人に気をつかうイスラム教徒のベッセンが登場する。




オフィスの自室で「礼拝」をしてる真っ最中にドアを開けられると、素早く「腕立て伏せ」へと切り替える。

運転中の信号待ちで、隣りの車にアメリカ人が乗っていれば、イスラム風の音楽をヒップホップに素早くチェンジ。

エレベーターに乗る時も、遠くから歩いてくるアメリカ人が来るのをドアを開けてちゃんと待つ。

しかし、そんな努力も虚しく、一緒にエレベーターに乗り込んだアメリカ人は、ベッセンが手にもつ「紙袋」を警戒する。「(ヤツは何を持っているんだ?!)」



オサマ・ビンラディン氏が殺害されたという一報に、アメリカ国民は歓喜一色となった。

「正義は勝つ!」

テロ事件以来、多くのアメリカ国民は「白黒観」を一層強め、邪魔になる「矛盾」を排除することに努めている。



かたや、若きイスラム教徒たちの中には、説明し切れない「矛盾」に真っ向から取り組む人々も多く現れた。

彼らは世界の「グレーゾーン」の何たるかを模索している。

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「レザー・アスラン」氏(カリフォルニア大学准教授)は、そうした問題を掘り下げ、ある本を著した。

「No god but god(邦題:変わるイスラム)」

彼の願いは一つ、世界の人々に何とかイスラムを解ってもらいたいという一事に尽きた。

彼は、そのためにコーラン(イスラムの聖典)に一から取り組んだ。その甲斐あってか、この本は世界中で出版され、軒並みベストセラー入りを果たした。




ここ50〜60年で、イスラム教は大きく変わったのだという。

過去1500年間、コーラン(イスラムの聖典)の解釈をできるのは「男性」に限られており、「女性」がその解釈に口を出すことは許されていなかったという。

しかし、イスラム教徒の多数が欧米に移民するにつれて、従来の「集団」を優先する価値観に加え、「個」を大切にする価値観がイスラム世界にもたらされた。

必然的に、それは女性の発言力をも高める結果となった(最も厳格なイスラム国家・サウジアラビアですら、女性の声に耳を傾け始めている)。



そして、何より「インターネット」が変化を加速させた。

かつて、イスラム法に何か疑問があれば、モスクに出向いて指導者の意見を仰ぐより他に解決策はなかった。そして、納得しようがしまいが、その指導者の意見を受け入れざるを得なかった。

それが今では、インターネットのQ&Aでも問題が解決するのである。しかも、様々な意見から、自分の納得をいくものを選ぶこともできるようになった。



その結果、イスラム教の解釈は多様化し、その教義は柔軟性を増した。

それでも、アメリカ国民の多くは、イスラム教を硬く凝り固まった一枚岩であるという認識を捨て切れない。むしろ、テロによってその誤解は強化されてしまった。



レザー氏によれば、アメリカ政府の外交政策は「イスラム世界は民主主義を望んでいない」という誤解に根差しているのだという。

しかし、イスラムの教義には民主的な要素が多分にあり、事実、世界最大のイスラム国家・インドネシアは民主国家である。それはトルコもマレーシアも然り。

さらには、現在の中東各国では民主化の大波が訪れている。



そうした現実がありながらも、「イスラムと民主主義は両立しない」と頑ななアメリカ人が多いのだと、レザー氏は語る。

なぜなら、そうしたアメリカ人の語る民主主義というのは「アメリカ的」という前提があるからである(ここでいう「アメリカ的」というのは、キリスト教の理想を基盤としたものである)。

要するに、彼らは暗に「イスラムとキリストは両立しない」と主張しているのである。

彼らの言には、イスラムへの理解もなければ、民主主義への理解もない。ただあるのは、「自分たちの考え」だけである。そして、その世界から一歩も外へ出ようとはしていない。



10年前のテロ事件は、イスラム、そしてアメリカにとっても大きな分岐点だった。

それ以来、アメリカ人の多くは自分の考えに固執し、他への理解の扉をすっかり閉め切ってしまった。

かたや、イスラム教徒たちは、好むと好まざるとに関わらず、何かしらかの変化を求められ、必然的にその扉を開放せざるを得なかった。

その結果、アメリカは先鋭化し、イスラムは汎用化した。



崩壊した2塔のビルは、イスラムとアメリカだったのか?

時代のうねりは、時として変化を厳しく求めてくる。

そして、大きな変化には適応せざるを得ない。



窮地に追い立てられたイスラム系アメリカ人たちは、崩壊した信頼を再構築するために、自分自身を大きく変えた者たちも多かった。

より柔軟な若い世代ほどに、その適応は早かった。材料を一から問い直し、新たな建設に早速取り掛かっている。



時代を生きるとは、どういうことか?

時代が変わるとは、どういうことか?



変化を突きつけられているのは、イスラム系アメリカ人だけとは限らない。

世界はそんな「問い」で一杯である。

幸いにも、その「問い」を無視することは、今のところ容易なことである。




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出典:ETV特集
シリーズ イスラム激動の10年 
第2回「アメリカ同時多発テロ 問い続けた“イスラム”」




posted by 四代目 at 08:47| Comment(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ずっとずっと無視し続けられてきたその問いと、しっかり向き合わなければならない時が来ているからこそ、二極化が極端に進んでいるのでしょうね…。

何事も、行き着くところまで行って飽和しない限り違う道を模索しようとはしない。
…その時が来ている!ということですね。

これまで無視できていたことが『幸い』とは皮肉でもあり、ぬるま湯に浸かる私たちの象徴とも感じました。
Posted by hanna at 2011年11月22日 01:04
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