中国には「虫」を闘わせる遊びがある。
その虫とは「コオロギ」。そして、その遊びを「闘蟋(とうしつ)」と呼ぶ。
日本では風流なコオロギも、お隣りの大国では立派な「闘士」なのである。
中国の市場では、缶詰のような形の陶器に入れられてコオロギが売られている。
「アゴが大きい奴ほど強い」のだとか。
買い手は、「茜草(せんそう)」という細い草でコオロギの触角を刺激し、その闘争心を値踏みする。
人気のコオロギになると、一匹で一万円を超えるという。
「闘蟋」の指南書である「蟋蟀(こおろぎ)文化大典」によると、「三分在種、七分在養」とある。
つまり、コオロギの強さは、その3割は「遺伝(種)」であるが、残り7割が「飼育方法(養)」で決まるというのである。
そのため、中国のコオロギ愛好家は飼育方法に工夫を凝らす。
エサには小エビやキクラゲなどに大豆を混ぜたりして、より強いアゴができそうな食材を吟味する。一日一回、コオロギを水に入れて清潔さを保つ。
闘争心を高めるために一匹ずつ隔離して育て、試合の前日にメスと一緒にする、などなど。
そうして、全中国の覇者となるコオロギを育成せんと、愛好家たちは凌ぎを削っているのである。
試合直前、自分のコオロギの触角を茜草でツンツンして、充分に闘志をかき立てる。
そして、仕切りの板が取り払われるや、お互いのコオロギは自慢のアゴで敵に齧りつく。
鳴き方も激しい。夜長に楽しむ音色とは全く違った「闘争鳴き」と呼ばれる気合いの入った雄叫びである。
強いコオロギは相手を場外へと投げ飛ばす。弱いコオロギはシッポを巻いて逃げ回る。
そんな熾烈な闘いを最後まで勝ち抜いたコオロギだけが、晴れて「虫王」の称号を授かることになる。
この「闘蟋」という遊びは、中国では唐の時代にまで遡ると言われており、およそ1,200年の長き伝統を誇る。
熱中するあまり、家屋敷を失った者や、国を滅ぼした者すらいたという。宋の宰相(賈似道)はコオロギの指南書を著している。
文化大革命(1966-1976)の際には、中国共産党により弾圧されたというが、コオロギのごとく草に忍び、しぶとく生き延びた。そして、現在もなお盛んである。
中国だけではなく、闘蟋はヨーロッパでも伝統的に楽しまれてきた。
ヨーロッパでもとりわけ闘蟋に熱心だったのが「イギリス」。その歴史はヨーロッパ随一である。
イギリスらしく、コオロギは午後の紅茶を楽しむ。紅茶の成分がコオロギの滋養強壮に効くことは科学的に証明されていることだとか。
イギリスのコオロギは触角に硫黄化合物を練りこまれ、2本の触角がこすり合わさることによって熱が発生し、それが強力な武器(ヒート触角)となる。
その熱攻撃の対策として、コオロギの羽には防火コーティングが施される。
また、2本の触角を一本に束ねたユニコーンなる技もあるのだとか。
お国違えば…、である。
戦闘様式は異なるといえども、中国・イギリスともに、コオロギの強さは「飼育」によって高められると考えられている。
この点に、ある科学者は疑問を感じた。
従来の学説では、昆虫のように単純な生物は、遺伝的な要素が大きく、生育環境にはあまり左右されないと考えられていたのである。
なぜなら、コオロギの脳は「微小脳」と名付けられるほどに小さく、学習能力が大きいとは考えられていなかったからだ。
ところが、中国の指南書にもあるように、コオロギの強さの7割もが生育環境にあると闘蟋の伝統は教えているのである。
それは本当だろうか? もし、そうならば昆虫への考え方を一新させなければならない。
金沢工業大学では、ある実験が行われた。
コオロギの飼育環境を3つに分けて、環境によるコオロギの変化を観察する実験である。
まず、「集団」で飼育するグループと、「単独(隔離)」で飼育するグループに分ける。
そして、「単独(隔離)」のコオロギは、光を通さない「真っ暗」な環境と、透明容器の「明るい」環境を用意した。
さて、結果は?
単独(隔離)、そして透明容器の明るい環境のコオロギが最も「狂暴化」した。
まさに狂暴、敵が死ぬまで追い詰める。相手を殺すまで闘うというのは、野生のコオロギではあり得ない。本当に狂ってしまったのだ。
オスどころか、メスまでをも攻撃してしまうようになった。
なぜ?
単独で飼育するというのは、闘蟋の基本である。伝統的に闘争心を高める手法として用いられてきた。
しかし、通常の飼育容器は遮光(素焼き)であり、透明ではない。
透明だとなぜ狂ってしまうのか?
狂ったコオロギの脳では、脳内ホルモンに異常が見られた。特に「セロトニン」が著しく減少した。
脳内セロトニンの不足は、人間の場合、精神活動に異常をきたす。不眠症、うつ病、更年期障害などなど。
透明な容器に入れられたコオロギは、ありえない現実に「混乱」してしまったものと考えられた。
「見えるのに触れない」。これは、コオロギがついぞ体験したことのない現実である。
コオロギの「微小脳」は単純である。モバイル機器のCPU(脳ミソ)が単純に作られ、サクサク動作するのと一緒である。
「見えるモノには触れるはず」である。遠くにあるモノではない。すぐそこにあるのに触れない。
脳内にプログラムされていた情報と、実際の現実が「あまりにもカケ離れていた」ために、コオロギの微小脳は「処理(理解)不能」に陥り、その結果、暴走してしまったものと考えられた。
人間にもあるではないか。理想と現実のギャップというものが。
そのギャップが小さければ耐えられるが、あまりにもかけ離れてしまえば、人間の素晴らしい脳ですら処理不能に陥り、一切の思考を放棄してしまう。
いわゆる、「真っ白」である。
一方、最も闘争心の小さかったコオロギは、集団飼育であった。
常に他のコオロギが存在する環境で育ったコオロギたちは、オス同士でも争うことはなかった。
さて、その穏やかな集団コオロギの中に、狂暴君を入れてみよう。
さすがに狂暴。手当り次第に暴れまくる。「オレに触るとケガするぜ」。
しかし、散々噛みつきまくって気が済んだのか、狂暴君はいつの間にやら、大人しくなっていた。
この実験結果をみれば、一目瞭然、明らかに外部の環境によってコオロギが大きく変化したことが判る。
中国の歴史が語るように、コオロギは飼育環境で激変したのである。攻撃を忘れたコオロギから、狂えるコオロギまで。
コオロギのようなシンプルな脳を持っている生物ですらそうである。いわんや人間をや。
先天的(遺伝的)な影響が思ったより少ないという事実は、ある意味「救いのある話」である。
後から何とかなるのであれば、希望も持てる。
また、脳ミソというものが、現実とのギャップに思ったよりも弱いということも判った。
コンピューターの進化とともに、バーチャル(非現実)の世界は広がりを増している。そして、インターネット上の世界はその発展とともに、新たな現実を生み出している。
それが現実にせよ、非現実にせよ、各人の脳ミソにはオリジナルな世界が広がっている。
そのオリジナルな世界が、何か耐え難いギャップに直面した時、人間は…。
新たな現実を受け入れるというのは、そうそう容易なことではない。
「そんなことは分かっているさ」とは言えども、果たして脳ミソまでが分かってくれるかどうか…。
分かった気になる「知得」と、骨身に染みて分かる「体得」では「月とスッポン」である。
狂えるコオロギの話は決して他人事ではない。
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出典:いのちドラマチック
「コオロギ 一寸の虫にも心あり」


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