2011年11月09日

外国人には不思議な不思議な「日本の数字」の話。日本人は数字で遊びすぎ?


「日本の数字は、どこかおかしい」

日本語を覚える外国人は、日本の数字の「自由奔放さ」に辟易するようだ。



アラビア数字(1、2、3)は問題ない。

しかし、日本の数字はそれだけではない。漢字(一、ニ、三)やローマ数字(T、U、V)も使う。さらに、漢字には別バージョン(壱、弍、参)まで存在する。

読みも多様である。「4(よん、し)」、「7(なな、しち)」。数え方でも読みは変わる。ひとつ、ふたつ、みっつ…。ときには、ひー、ふー、みー。



100歩譲って、表記の多様さや読みの多様さを認めたとしても、外国人にとって許しがたいことは、それらの使い方に「規則性」があるようでないことだ。

何となくの気分で、数字の表記や読みは変幻自在。

厳密にはケースバイケースで使い方が定められているものもあるといえども、一般レベルでは大いに融通を効かせているのが現実である。

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こうした日本の数字を、ある外国人はこう評した。

「日本の数字は科学(サイエンス)的ではない」

彼の言うサイエンスとは、物事が一対一で対応し、正確な答えが一つだけ存在するという意味だろう。

確かに、日本の数字は正解が多すぎる。その点、まったく科学的ではなく、いうなれば「人間的」である。

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さらに悪いことには、日本の数字は「言葉」ともなる。

いわゆる「語呂合わせ」である。

歯医者さんの電話番号の下4ケタは「4618(しろいは)」かもしれないし、「794」は「鳴くよ、ウグイス」と、無機質なはずの数字が、やけに風流にもなる。

日本の数字と言葉の垣根は、じつに「曖昧」であり、気分によって簡単に行き来ができる。



神社のお賽銭は「5円(ご縁)」のことが多い。

これは語呂合わせの結果であるが、お賽銭を寄付金の一種ととらえる欧米人にとっては、5円はあまりにも少額である(彼らの中には、収入の10分の1を寄付する人々までいるのだから)。

日本人が出すのは、せいぜい「15円(十分にご縁がある)」である。

日本人はお賽銭を寄付とはあまり考えない。だからか、金額の大小よりも「縁起」をかつぐことの方が優先されるのである。

この場合、数字よりも言葉(語呂合わせ)の方が力を持っていることになる。

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ちなみに、こうした語呂合わせは、英語にもあるようだ。

たとえば、「CU L8R」は「See You Later」、「b4」は「before」などなど。

しかし、それらは限定的であり、日本の数字の親父ギャクぶりには、到底及びもしない。



確かに確かに、こうして実例を挙げられれば、日本の数字の特異性が自ずと浮かび上がってくる。

科学的というよりは「人間的」で、ときには「言葉」のようである。



ある外国人に言わせれば、「日本人は数字の本質を分かっていない」ともなってしまう。

彼らにとって最も基本的な「単数形と複数形」までが、日本人は適当にあしらっている。



しかし、その分かっていないはずの日本人は、異様に計算が速い。ソロバンなどをやっている人なら尚更で「凄速」である。

数字を得意とするインド人もビックリだ。



「645円」を請求されると、「1,015円」をパッと出す。

その結果、お釣りの小銭が少なくなる。

たとえ酔っ払っていても、ワリカンの計算は正確である。

ソロバンをやっている人は、数字が「映像(イメージ)」として見えている。その場にソロバンがなくとも、いつでも空中にソロバンが登場するのである。



ある外国人はこう考える。

「何もワザワザ自分で計算しなくてもいい。計算機を使えばいい話。暗算を習得するのは、時間のムダだよ。」

そうは言えども、計算機がなかったらどうするのか。逆に不便な気もする。ましてや、空中に計算機が現出するわけでもあるまい。

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ちなみに、外国人も暗算は覚える。

「九九」は英語で「times table」という。その覚え方は、やはり丸暗記。「4 times 4 equal 16」といった具合だ。

しかし、日本のように「4・4・16」などのように省略はせずに、ただ早口で「4 times 4 equal 16」と言うだけのようだ。

その点、日本語では「ししじゅうろく」があたかも一つの独立した言葉と化している。数字が簡単に言葉化してしまう日本語ならではの覚え方である。



その点、歴史の年号の語呂合わせも、数字は完全な言葉と化している。

日本人は源頼朝の作った国が「いい国(1192)」であったと思い込んでいるし、大化の改新では、「蒸し米(645)」を炊いて祝ったと信じ切っている。



また、数字は言葉を超えて、単なる図形に成り下がってしまうこともある。

「1 + 1 =」と問われて「田」、「1 - 1 =」と聞かれて「日」と答える日本の小学生は、世界的にも奇異な発想をする日本民族ならではであろう。

みごとなる「一休さん」ぶりである。



外国人のクエスチョンは続く。

「なぜ、日本人はこうもランキング好きなのか?」

朝の星座ランキングから始まり、お店には売れ筋ランキング、インターネットもランキングの嵐である。

あるアンケートでは、8割以上の日本人が何らかのランキングを気にしているという結果が出ている。



ある外国人は、こう解釈する。

「日本人は正直だから、素直にランキングを信じられるんだよ」

フランス人がランキングを見ると、「何か裏がある」と思い、市場操作の影を感じるのだそうだ。

アメリカでは、「すべてがベストワン」なのだとか。



そもそも、欧米人は「みんなと同じモノを買いたくない」という心理も働くようだ。

ランキングを盲信してしまえば、「選択の自由」が脅かされるという不安もあるらしい。

誰がランク付けしているのか、そして、何のためにしているのかが、「大いに疑わしい」と言うのである。



そう言われれば、多くの日本人はランキングの「裏」はあまり気にしていないかもしれない。

むしろ、ランキング付けをしてくれて、選びやすくなったと感謝するくらいである。

そして、選んだモノに対しても意外と無頓着で、「ダマされた」とはあまり思わないかもしれない。



それは日本のモノが一様に高品質で、ニセモノがほとんどないということも一因だろう。

日本人がランキングに素直に従うのは、お互い(売り手と買い手)の信頼があってこそのタマモノなのかもしれない。



なるほど、日本人の数字に対する向き合い方は、独特の感がある。

全体的な感じとしては、日本人は「より自由な数字の世界」を持っているようにも思える。遊び心でいっぱいである。

その自由さが、欧米人をして非科学的であると言わしめるのであろう。



しかし、日本の数字には一部「不自由」な側面もある。

たとえば、ご祝儀。

いくら包むのが正しいのか? 頭を悩ますこともある。

基本的には「奇数(壱万円、参万円、伍万円)」が良いとされる。

なぜなら、奇数は陰陽思想における「陽」の数。晴れの舞台にはふさわしい数である。



かたや、偶数は「割り切れる」ことから、「別れ」を連想させるために、縁起が悪いとされている。

しかし、壱万円では少ないが、参万円では多過ぎるという時もある。

こんな時には裏技がある。偶数である弍万円を包むのであるが、お札の枚数を奇数にするのである(壱万円札1枚と五千円札2枚ならば、合計で3枚)。

さらに厳密にお祝儀を包むには、水引き(お祝儀袋の紅白リボン)の本数も、包む金額に応じて増やさなければならない。

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こうした日本古来の伝統は、なかなかに不自由で意味不明のことも少なくない。

日本の食器は、たいてい5枚セットである。これも「5」という奇数が陽数であり、縁起が良いためである。

しかし、十分に欧米化した日本人にとっては、4枚か6枚セットの方が使い勝手が良いと感じてしまうのではなかろうか。



また、なぜ三月三日、五月五日、七月七日が特別な日であるのに、二月二日、四月四日、六月六日は普通の日なのか?

奇数だろうが、偶数だろうが、数字が重なることはどちらでも嬉しい出来事のような気もしなくはない。

そういえば、「777(奇数)」というナンバーの連なりは欧米でもラッキーであり、「666(偶数)」の連なりは欧米では悪魔の数字とされている。これは何かの偶然であろうか?

しかし、古来の日本では「7」よりも「9」の方がよりラッキーナンバーである。なぜなら、奇数(一ケタ)で最大の数が「9」であるため、「9」は陽の極みとされるからである。

その極みがダブルで重なる「9月9日」は重陽の節句として最高の吉祥とされている。これは中国の「漢」以来の伝統なのだとか。



ちなみに、陰陽の本家であったはずの中国では、現在、逆に「偶数」の方がオメデタイのだという。

「幸せは必ずペアで訪れる」というのが、その理由とのこと。そのため、結婚式のご祝儀は偶数なのだとか。



ところが、遠く離れたスロバキアでは、日本と同じく奇数がめでたく、偶数がお墓に供える花の数なのだそうだ。

偶数が吉だろうと凶だろうと、世界各国で偶数と奇数の違いにはそれぞれの思い入れがある点は、じつに意味深である。



日本の数字の歴史を振り返ると、様々な不自由も浮かび上がってくる。

ところが、現在の日本は数字からより「解放」されている。現在でも気にするのは「ご祝儀」くらいのものである。

幸か不幸か、日本の数字は歴史とともに自由化が進んできたようである。



日本の数字は「数字の枠」に囚われることなく、言葉の枠にも堂々と出入りできる(語呂合わせ)。

表記の仕方も、アラビア風(1、2、3)であろうが、ローマ風(T、U、V)であろうが、古風(壱、弍、参)であろうが一向に構わない。

「1」の読み方は、「いち」でも「ワン」でも「ウノ」でも好きに読めばよい。

良くも悪くも、日本人は数字を特別視していない。



思うに、数字が暴走するのは、数字を「特別視しすぎる」からではないのだろうか?

科学的なデータが偏重されがちな現代。悪くいえば、我々現代人は数字に左右されすぎる傾向がある。



しかし、そんな「数字様」といえども、単なる表現の一種にすぎない。

それは文字や言葉が表現の一種であることと「同格」である。

言葉を主体に考えれば、それは「哲学」となるだろうし、数字を主体に考えれば、それは「数学」となるだろう。

哲学も数学も、より大きな枠組みでは「思想」の一形態である。



日本の数字が示すように、数字は言葉の一種でもある。

日本人は日本語を使い、アメリカ人は英語を使う。

それと同様に、数学者は数字を使うのである。



数字の素晴らしい点は、言語と異なり「世界共通」であることだ。

そのため、国境という煩わしい枠は存在せず、簡単にコミュニケーションが可能となる。



こう考えれば、数字の長所を最大限に生かすには、数字を「つまらない枠」に閉じ込めてしまわないことが大切だとも考えられる。

数字は自由であればあるほど、その能力は広がりをますと考えられる。

ということは、数字のボーダーレス化が進んでいる日本では、数字はより生き生きと活躍しているのではなかろうか。



西洋の思想の特徴として、物事を分析・分解して考えるという傾向がある。

物事がゴチャゴチャになるのをあまり好まず、分けて考えることで理解を深めるのだ。

だからこそ、数字は数字以外のものになられては困るのである。

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それに対して、東洋の思想はより統合的であり、全体的である。

たとえば、西洋医学はガンさえ取り除けば、問題は解決すると考えるが、東洋医学は生活習慣を改めなければ、根本的な完治は望めないと考える。

フランス人は、コース料理のように一つ一つの料理を別々に食べたがるが、日本人は一つの鍋に何から何まで突っ込んでしまう。

また、フランス人は日本人の得意とする「三角食い(ご飯→みそ汁→おかず)」を好まない。一つ一つの皿を、一つ一つ片付けていきたがるのだ(ご飯を食べ終わってから味噌汁)。

ある外国人は、うな重の上のウナギをまず食べ終えて、それからおもむろに下のご飯に取り掛かっていた。



個人主義の発達した西洋にとって、東洋は無秩序で混乱しているとも誤解される。

西洋人は「すべてのモノを分けることができる」と考えるが、東洋人は物事はすべてつながっており、「完全には分けることができない」と考える。

この思考の違いは、数字に対する考え方の違いにも起因するものであろう。



ある意味、日本人は数字に強いのではなかろうか?

これは計算が速いという限定的な意味ではなく、数字に対する考え方が「多様である」という意味である。

考え方が多様であるほど、物事を正確に理解することが可能となる。



たとえば、一ヶ所だけから物を眺めても、その裏がどうなっているのかは一生分からない。

立ち位置(考え方)を変えて、裏に回るからこそ全体像が明らかになるのである。



数字を数字とばかり見ていては、数字に囚われてしまう。

ときには、数字を言葉と見てみれば、また違う風景も広がり始める。



日本人の数字に見ている風景は、より立体的でより愛嬌があるのではあるまいか。

それが単なる親父(08G)ギャグだとしても…。

日本の数字は、どこかおかしくて大いに結構である。

数字は時として重たくなりすぎるのだから。




「数字」関連記事:
なぜ今、数学ブームなのか? 不信うずまく現代の救世主。

数字で見栄をはりたがるアメリカ人、堅実なヨーロッパ人 The Economist


出典:COOL JAPAN
〜発掘!かっこいいニッポン 数字





posted by 四代目 at 09:01| Comment(7) | サイエンス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「9=苦」で縁起悪くないですかね?
Posted by at 2011年11月09日 23:09
数字は道具でしかないです。
統計の嘘って本おすすめです。

マスメィディアはファーストフードですらなく、それは汚れた大人のLSD、阿片でしかないです。
Posted by  汚れた大人は自己の為の数字しか欲さない at 2011年11月17日 12:19
カバラのゲマトリア(数秘術)とか
欧米のアナグラムとかの歴史を思うと
数字で遊んだり、神秘性を見出す文化は
日本だけでもないと思いますよ。
図象学や占星術も数字の組み合わせに
神秘性を見出すものですし。

ギリシャのピタゴラス学派に至っては
無理数が存在しないという神聖視ゆえに
殺人まで犯したわけですし。

>「666(偶数)」の連なりは欧米では悪魔の数字
>とされている。これは何かの偶然であろうか?
666の由来は聖書にあります。
Posted by どこも at 2012年11月15日 17:16
久々に面白い評論を読ませていただきました!
ソースだとか由来だとかは置いとくとして……

欧米でも、例えばフランス語では70をseptante(70)と言わずにsoixante-dix(60・10)と言ったりなどしますね。各国数字の扱いは独特なようです
それでも数字は数字なんでしょうね

これだから日本大好きです
Posted by seigaku at 2014年03月16日 01:04
気になったので読ませて頂きました。

参考になりました。日本の歴史を振り返ると、何かしら世間が付き纏い、村八分による鬼にされることを恐れ曖昧さを尊ぶ。世間に歯向かうと殺される。世間が何時も念頭に浮かぶ。一意性が生まれると死にかねない。

日本の元号も結局、天皇が変われば世が変わるために、元号を変えて前の世と全く違う、新しい世に変わると考える。この国は一意性の論理ではなく、世という因果の雨矢に成立つ。前の世の因果が残らぬように元号を変える。

日本は天皇という瞞しの特異点周りに起こる幻想に酔い痴れる俗世に過ぎないのですかね。私は因果に対して自信を持つことが絶対に出来ません。
Posted by 名無し at 2014年09月01日 22:25
通りすがりで失礼します。

とても興味深く拝見しました。
しかし、645円は665円の誤りではないでしょうか。
645円で1,015円ってなぜ?って考えてしまいました。
Posted by at 2014年10月30日 11:30
>「645円」を請求されると、「1,015円」をパッと出す。
>その結果、お釣りの小銭が少なくなる。
普通650円出しませんか?
あるいは1,145円か、どちかかではないでしょうか?
Posted by 私も解りません at 2016年06月12日 22:08
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