2011年11月07日

なぜ、オオカミは犬となる道を選んだのか? 価値観のあり方を考える。


「犬」の元をたどっていくと…、オオカミになる。

というか、遺伝学的には今の犬もオオカミである。なぜなら、犬とオオカミの遺伝子は寸分と違(たが)うところがないのである。



そうは思えないほどに犬とオオカミの性質が異なるのは、一万5,000年前に、人間に近寄ってきたか、もしくは遠ざかって行ったかで運命が大きく分かれたからである。

人間に寄って来たオオカミは犬となり、人間を警戒したまま距離を取り続けたオオカミはオオカミであり続けた。

野生のオオカミは、他から与えられたエサを決して口にしないと言われるが、犬は喜んで人間に付き従ったのである。

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従来の説(主にダーウィンの進化論)によれば、進化は自然淘汰の末に、「少しづつ起こる」ということになる。

しかし、オオカミから犬に転じる過程を考察する際、これほどの不都合はない。

どちらかというと、「いきなり変わった」と考える方が辻褄(つじつま)が合いやすい。それくらい短期間でオオカミが犬に変わったとする事実の方が多いのだ。



「いきなり変わる」というと、突然変異を連想するかもしれないが、犬とオオカミの違いはその範疇にない。

なぜなら、両者ともに同一の遺伝子を持つため、突然変異が起こっていないのは明らかな事実なのである。



「我々はダーウィン(進化論)を信じ過ぎたのかもしれない」

そう考える動物学者(レイモンド・コピンジャー氏)もいる。

「獰猛であったオオカミの内、ある種のオオカミが急に人懐こい犬になったのだ。」



野生の動物がどれほど短期間で従順になるのか?

ロシアにおけるキツネの実験では、およそ30世代で半数のキツネが犬のように人好きになった。

警戒心のゆるいキツネを選んで交配を続けた結果である。



ロシアの研究では50世代ほどを経て、85%のキツネが犬化(ペット化)した。

この研究は始められて100年も経っていないのであるから、キツネの一世代というは1〜2年程度と実に短いものである。



このキツネの研究は、野生の動物がいかに早く人間に順応できるかを示す好例である。

この変化のスピード(従順化)は驚異的に早い。

とてもではないが、ダーウィン(進化論)が追いつけるスピードではない。



ここでふと想うことがある。

もしかしたら、オオカミなどの野生動物たちは元々獰猛ではなかったのではないか、ということである。



野生動物の生きる自然環境は、我々が想像する以上に過酷である。

自分の身や子供たちを守るためには、自らを強くし、戦いにも勝利しなければならない。

しかし、それは望んだことではなく、「やむないこと」ではなかったのだろうか?




戦いの中に身を置くオオカミは、必然的に警戒心を増し、大きく牙を発達させていった。

かたや、人間に拠り所を見つけたオオカミは、次第に牙が小さくなり、色も白っぽくなっていった。

毛色が白くなるというのは、順化の大きな特徴の一つである。黒色を出すメラニン色素は、警戒心の薄れとともに分泌されなくなってくるのだそうだ(アドレナリンの減少と関係する)。

言うなれば、毒気が抜けた状態である。



オオカミの本性が平和的なものと考えれば、環境の緩和とともに、あっという間に犬のように人懐っこくなることも不思議ではない。

思うに、他の野生動物もそうではなかろうか?

肉食獣といえども、腹が一杯になってしまえば、必要以上には獲物を狩らない(必要以上に貯め込もうとするのは、人間くらいのものである)。

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戦国時代の武士たちの多くも、戦いは好んでいなかったのではなかろうか?

世が麻の如くに乱れてしまったがために、自衛の意識を強めざるを得なく、時には積極的な攻勢にも出ざるを得なかったのではなかろうか。

もちろん、立身出世や権力欲が旺盛な人物もいたであろうが…。それは、野生の本性を忘れた人間の歪んだ欲望であろう。



一昔前までは、「弱肉強食(強いモノが生き残る)」というのが自然界の大原則とされていた。

しかし、昨今では「適者生存(変化に対応できたモノが生き残る)」という考え方が強く支持されるようになってきている。



「弱肉強食」の観点に立てば「争い」こそが必然となるが、「適者生存」の世界では「和平」という道筋も示される。

人と犬との関係が正にそうともいえる。



野生動物には「間合い」というものがあり、ある一定の距離以上に近づくと「逃げる」。

この間合いを「逃走距離」というのだそうだ。

オオカミの中にも、この逃走距離を長く取る用心深い個体もいれば、比較的短い楽観的な個体もいる。

ペットの犬ともなれば、その距離はゼロである。



逃走距離は、その動物の「限界」である。

いつでも逃げられる状態であることが安心につながり、逆にそうでなければ、怖くてたまらない。

それは人間にとっても同じである。

平和な世であれば、他の人が近づいてきても何とも思わないであろうが、物騒な世相であれば、見たこともない人が近づいてくることは恐怖である。



心に安心があれば「逃走距離」は短くなり、不安であればあるほど長くなる。

逃走距離が長くなるほどに、弱肉強食の様相は強くなるだろう。



ジレンマはここにある。

不安が大きいほどに争いが助長され、ますます不安が大きくなる。

卵が先か、鶏が先か?

争うから不安になるのか、不安だから争うのか?



この悪循環を抜け出すには、どこまで戻らなければならないのか?

思い切って近づいてみるのか? それとも、無理やり不安を打ち消すのか?

人類が核兵器を手放せないのも、このジレンマがあるからだ。

責任が重い人ほど、慎重に、そして臆病にならざるを得ない。



人間に懐(なつ)いた犬は、このジレンマを見事に解消したことになる。

なぜ、オオカミは人間に近づくことが出来たのか?

一説には、人間が捨てていたゴミの山に、まず近づいてきたというものがある。

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この説は大変に興味深い。

もし、オオカミが人間の育てているもの(大切にしているモノ)を奪えば、争いは必死だが、不要として捨てたモノをオオカミが食らうことには目クジラを立てることもない。

つまり、お互いの要不要(利害)が重ならなかったから、お互いの距離を縮めることができたのである。

人間とオオカミの価値観の相違が功を奏したのである。



ここで、人間社会に目を転じてみる。

価値観が重なるから争いが起こるのである。つまり、みんな欲しいモノが一緒だからである。

ということは、価値観が画一化すればするほど、争いは生じやすくなる。要するに奪い合いである。



では、逆に価値観が多様化すればどうか?

みんな欲しいモノが違えば? それほど奪い合う必要もなくなりそうなものだ。

価値観がお互いに違うということは、相互理解は得にくくなるかもしれない(共通の話題で盛り上がれなくなる)。

しかし、お互いの利害が重ならない分、距離を縮めることも容易になるだろう。

距離が縮めば、理解は後からやってくるかもしれない。



こうした観点に立てば、価値観が多様化することは、まことに望ましいことのようにも思える。

しかし、それを不都合とする人々もいる。国や人を支配しようとした場合、みんなの価値観がテンでバラバラでは、大変に苦労する。

宗教は一つであった方が楽だし、みんながお金を欲してくれるほうが誘導しやすい。



つまり、価値観の多様化は、決して「上」からは起こらないということになる。

むしろ、「上」からは価値観を限定する力が働きやすいのである。

反面、責任の薄い庶民ほど、価値観は多様化しやすい。縛られることがない分、それだけ自由な世界を保っていられるのだ。



上からは価値観を均一化する力が加えられ、反対に、下からは価値観を広げる力が湧き上がってくることになる。

上下の利害が衝突すれば、独裁(上が勝つ)、または革命(下が勝つ)ということにもなるだろう。いずれにせよ、穏やかではない。

しかし、そうした険悪な仲ですら、利害が重ならないフィールドは
見つかるのかもしれない。



もし、すべてのオオカミが「家畜化」を「屈辱」と感じていたのなら、決して現在の犬は誕生しなかっただろう。

幸運にも、そう思わないオオカミがいたからこそ、新たに生きる道が広がったのである。

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願わくは、人類の生きる道も大きく広がることである。

本来、人それぞれに価値観は違うはずである。

それが統一されていくのは、教育の結果であろう。



教育は可能性を広げるためにあるものか、それとも狭めるためにあるものか?

危機的なほどに人口を抱えることとなった世界において、価値観を狭めることは、自らの首を締める行為ともなりかねない。



思えば、犬になったオオカミは大変に賢明であった。

いやむしろ、オオカミの本来の姿こそが、平和な犬だったのかもしれない。

オオカミの持つ強さの秘密は、その核心に守られた穏やかな心なのではなかろうか。




「あるオオカミは、こう言った。

人間にだけは近づくな。



ある人間は、こう言った。

オオカミにだけは近づくな。



一つの森は、二つになった。

それでも、空は一つのままだ。



あるオオカミは、こう思う。

人間にだって、いい奴いるさ。



ある人間は、こう思う。

オオカミにだって、いい奴いるさ。



結局、森は三つになった。

それでも、空は一つのままだ。」




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犬ぞり、最後に頼れるのは機械ではない。

出典:地球ドラマチック
「イヌはこうして進化した〜オオカミから医療介助犬まで」(前編)



posted by 四代目 at 07:16| Comment(1) | 動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
そうですね。

いろいろ考えさせられる

ことですね。

突然変異というのは

たとえば

環境の激変とか

そういったときに

その現象が

確認されやすいものです

環境がある一定の

状態を保ってる場合

ある種の一部に

突然変異が起こると

その環境の均衡を崩してしまいます

したがって

その突然変異種は

淘汰の対象になってしまいます

つまり

適者ではないからですね

一方

環境がなんらかの事情で

激変した場合は

ある種の

ある程度の変異種

あるいは

そもそも持っていた

その種の特性が

その激変時に現れる

そのようにして

進化

つまり

変化を遂げるのです

眠っている部分って

われわれ人類は

多いのかもしれません

そして

遺伝子とは

別のことがらではありますが

先天的(一般に言うところの遺伝子)

これとは別に

後天的

と呼ばれる部分があります

つまり

『学習』です

この学習効果って

一般に知能が高いといわれる

動物ほど

そういうものです

人間の場合

他はわたしでないので

なんともいいようがないんですけど

わたしの場合では

古のことわざって

さすがに

長い時代

あるいは

数世代に亘って

語り継がれて

つまり

風雪に耐えてきただけあって

ある環境下においては

ある意味

真理なんだと

思います

『三つ子の魂 百までも』

わたくしは、やっぱり

わたくしなので

他はいざしらず

わたし的なんだなって

思うし

そうとしか

生きれないし






Posted by What a wonderful world at 2011年11月07日 11:42
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