「1234567890」
これらの数字は「何色」に見えるであろうか?
世の中には、単なる数字の羅列が色とりどりに見える人々もいる。
文字や数字、そして音などに「色」を感じるのだそうだ。
そうした感覚を「共感覚」と呼ぶ。およそ200人に1人がそうした感覚の持ち主だとも言われている。

音が見えたり、色が聞こえたり、形に味を感じたり…。
主要な5つの感覚が自由自在に行き交うことで、新たな感覚を生む「共感覚」。
幾多の実例のある不思議な感覚である。
なぜ、「共感覚」を持つ人と持たない人がいるのかというのは、諸説乱立するところであるが、赤ちゃんと大人の感覚の違いにその理由を求めることもできる。
ある一説によれば、すべてが一つだった赤ちゃんの頃の感覚の一部を、大人になっても断ち切らずに持ち続けているからだという。

何の分別もない「赤ちゃん」の感覚は「混然一体」であり、すべての感覚がつながっており、いわゆる「未分化」な状態にある。
それが、成長とともに色々な事が「分かる」ようになり、感覚は次第に「分化」してゆく。
共感覚の持ち主というのは、良くも悪くも「分ける必要がなかった」とも考えられる。
分けるというのは、物事を分かりやすくするために行われるものである。
分けなくても分かるならば、その方が手っ取り早い。
しかも、文字や数字が「色」と結びついている方が都合の良いこともママある。
人の名前を色で覚えることもできれば、電話番号を色で記憶することもできる。
歴史の年号をワザワザ「いいくに(1192)」と無理やりこじつけなくても、自然に色の並びと結びつけて覚えることもできる。
「覚える」ということは、常に思い出せるような状態にすることであるから、その思い出す手がかりが多ければ、それだけ覚えることも楽になる。
共感覚の持ち主「ダニエル・タメット」氏は、共感覚を活用して驚異的な記憶力を発揮した。
2万桁の円周率を暗記し、外国語は一週間で習得、10カ国後がペラペラになったという。
彼は、文字や数字が色や形に見えるため、文字を文字としてしか見れない普通の人々よりも、文字や数字の印象が強く頭に残るのだという。
こうした共感覚の持ち主は、普通の人よりも「感情」を強く感じるともいう。
「奇数が許せない」「名前の並びが気持ち悪い」などなど。
「理性」という分別が感情を抑えると考えれば、感覚が混在している共感覚の持ち主がより感情的であることは自然なことであろう。
普通の人にとっては無味乾燥な物事でも、感情に敏感な共感覚を持つ人々にとっては、とんでもなく劇的だったりもする。
例えば、ムンクに「叫び」という絵画作品があるが、それは彼が散歩中に突然「自然界に有り得ない叫び」を聴いたことがキッカケになったのだという。
あの地獄を見たような「叫び」が、単なる散歩の最中の出来事とはとうてい思えない。
お察しの通り、共感覚を持つ人は、圧倒的に「芸術家」に多い。
一般人よりも、およそ「8倍」の割合で芸術家は共感覚を持つとも言われている。
ある古楽器の笛の奏者は、笛を吹くとその音が「ひも」となって見えるのだとか。
そして、そのヒモには「毛」が生えており、音が美しいほどに、その毛並みも美しいのだという。
彼にとっては、そのヒモが先生であり、そのヒモをより美しくすることが、良い音を奏でることにつながるのだそうだ。
「宮沢賢治」もその一人で、ベートーベンの曲「皇帝」を聴いて、「悪魔が槍を持って踊っている」と感じたそうだ。
絶対音感を持つ人には、共感覚を持つ人が特に多いとも言われている。

こうした共感覚は、人によって違う色が見えたり、人それぞれ違う感覚と結びついていることもあれば、共通した感覚を持っていることもある。
例えば、色に関する比喩は、多くの人が共通して感じる感覚である。
青ざめる、白ける、真っ赤になって怒る、黄色い声などなど。
形に関しても共通の感覚がある。
多くの人が心地良いと感じる形は、「左右対称」な形である。
それは幼児や子供に顕著であり、ドラえもんやアンパンマンが無条件に好まれる理由でもある。
しかし、成長とともに左右「非対称」な魅力も感じ始める。
それは、甘いものばかりではなく、時には「苦いモノ」を欲するような副次的な反応であり、「より大人な感覚」となる。
共感覚を持つ人は、圧倒的に「色」を見たり感じたりする人が多いそうだ。
ところが、「岩崎純一」氏は女性の「排卵」が分かるのだという。
彼の共感覚は興味深い。なぜなら、野生の動物はほぼ確実にメスの排卵を知っているからだ。
パンダは一年365日のうちで、排卵はたったの3日しかない。
そんな狭いストライクゾーンでも、オスもメスもその日に的確に交尾をする。
繁殖期と発情期が見事に一致するのである。
野生の感覚を失った人間にとって、それは驚異的なことである。
しかし、それは野生動物にとって当然の感覚であり、もしこの感覚を持たないのであれば、種の存続を危うくしかねない。
ある意味、人間は野生から遠く離れたところまでやって来てしまった。
それは一体何のためだったのだろう?
仏教では「色即是空、空即是色」、物事に境のないことを教えている。
その境のないことを悟るために、逆説的に境を作り出して、境のない境地を目指す。
禅などでは「矛盾」に積極的に取り組み、物事に矛盾を感じなくなるまで問答を繰り返す。
ところが、現在「頭がいい」とされるのは、そうした統合の境地ではなく、どこまで細かく分けて分析・分解できるのかということに終始してしまっている。
「知性」というと、「分かる」という部分だけを求め過ぎて、分析に次ぐ分析、分解に次ぐ分解。徹底的にバラバラにしてしまう傾向が強い。
多くの学問がそうであり、分かっている人ほど、細かく細かく物事を細分化して考える。
しかし、「分ける」ということは、言うなれば「破壊」。
バラバラにして「はい、おわり」では、迷惑千万である。
その次の段階として、「統合」や「創造」に結びつくものでなければ、「生きた知性」とはなり得ない。
こうした「知」に対する本末転倒なスタンスは、多くの知を死に至らしめてしまっている。
知に到る(致知)どころか、死に到る(致死)である。
崩したブロックは、再び積み上げるからこそ、生命を吹き込まれる。
すべての感覚が一つである生まれたての赤ちゃんは、ある意味人間の理想形である。
そして、共感覚を持ち続ける人もそうであろう。
すべての感覚が生き生きと、他の感覚にまで自由に羽を伸ばせるのである。
我々は失ったものを再認識・再評価する必要があるのかもしれない。
かといって、分けて考えるということが悪いわけでは決してない。
分かれたり、つながったりすることは、吐く息と吸う息のようなもので、片方があるから、もう片方があるようなものである。
境を作るから、境がなくなり、境がなくなるから、境を作る…。
暑いがあるから寒いがあって、重いがあるから軽いもある。
我々の住む相対性の世界は「二元性」の世界であり、一端があるからもう一端がある。
二元性は「2次元」にも通ずる。我々は3次元の世界に暮らしながら、その思考法といったら、一つ次元が足りない2次元(白か黒)なのである。
もし、2次元の思考(二者択一)から、3次元の思考に切り替えたら?
世界は様相を一変させる。
3次元から見る2次元の思考は、空間に浮かぶ一本の「棒」の如し。
普通に見れば、棒の両端が見える(暑いと寒いを感じる)。ところが、立ち位置を変えて、その棒の見方を変えれば、「一点」にも見える(立てた棒を真上から見ればそう見える)。
棒が一点に見えた時、棒の両端は消滅(滅却)する。
暑いも寒いもなくなり、暑いと寒いが一つになる(心頭滅却すれば火もまた涼し)。
2次元の思考が3次元になり、すべての矛盾が解消する瞬間である。
ところが、2次元的な平面ばかりえを考えていては、棒は紙の上の「線」でしかない。
線の両端が一致することは不可能であり、いくら頑張っても矛盾は永遠に解消しない。
それどころか、分析して思考を分ければ分けるほど、棒の両端は延々と離れ続け、矛盾は深まるばかりである。
物事を白と黒に明確に区分すればするほど、同様の結果を生まざるを得ない。
そうした白黒つける大人の感覚に対して、赤ちゃんの感覚は混然一体である。
暑いも寒いも分からない。どちらも「不快」と感じるだけであろう。
つまり、その感覚は両極に分かれているのではなく、一点に集約しているのである。
「それでも、快と不快があるではないか?」と思うかもしれない。
しかし、大人の多様な感覚に比べれば、実にシンプルな感覚ではあるまいか。
完全に境のない無感覚では、生存すらおぼつかなくなる。快・不快は「生」への方向を示す最低限の道しるべである。
共感覚を持つ人々は、統合された3次元的な感覚の持ち主であるとも言える。
ある人は、数字の羅列が「立体的(3次元)」に浮かび上がって見えるという。

近年、人類の技術は3D(3次元)へと歩を進めつつある。
新たな次元への模索は、精神的な欲求とも軌を一にする。
世界が次元を増すのならば、そろそろ我々の思考も次元を増しておく時かもしれない。
いつまでも、白と黒(善と悪)に分けることにこだわり続けていては、人類は堂々巡りの歴史を繰り返すに留まるであろう。
願わくは、繰り返しが螺旋(らせん)の如く、上昇して行くことだ。
平面的な繰り返し(2次元)を、螺旋(らせん)のように上昇させるためには、立体的な思考(3次元)が必須となるだろう。
2次元的な感覚は幻想とも思える。
マイナス40℃の世界に暮らす人々は、マイナス30℃の日に「今日は暑いな」と感じる。
気温40℃の灼熱に暮らす人々は、気温30℃で「寒い」と感じる。
つまり、普通の状態が、人それぞれに全く異なるのである。
固定化された基準はあるようでない。
地球は止まっているとも感じるし、太陽が動いているとも感じる。
しかし、地球・太陽ともに、宇宙空間をトンでもないスピードで爆走しているのである。
これらの見える相、感じる相は何を意味するのか?
見えて感じられることほど分かりやすいものはない。
しかし、それを分かったと思い込んでしまうと、本来固定化されていないはずの基準に囚われ、自らにオモリをくくりつけてしまうことにもなりかねない。
重たくなればなるほど、平面(2次元)の罠からは抜け出せなくなる。
知の本性は、もっともっと軽やかなものではなかろうか?
どこにも定まることなく、どこへでも翔んで行けるような…。
あたかも天女の羽衣のごとく、そこにあることも意識させないような軽やかさ…。
20世紀は「重厚長大」な時代であったが、近年はまったく逆の「軽薄短小」を志向する向きも強まっている(モバイル&ワイヤレス)。
時代はようやく本来の輝きを目指し始めたのかもしれない。
いよいよ螺旋(らせん)は上へと向かうのか?
平面的な2次元の世界で白黒つける価値観は、もうそろそろ役割を終えても良いのではなかろうか?
色々な色があり、より立体的な世界のほうが、きっと面白い。
共感覚を持つ人々は、すでにそうした世界に生きているのかもしれない。
「3時はいったい何色よ?
嬉しい嬉しいオヤツの時間。
きっと黄色じゃなかろうか。
今日のオヤツは何じゃろな?
みんな待ってたケーキだよ。
それじゃあ、みんなで分けましょう。
おいおい、待てよ、待ってくれ。
そんなに分けちゃ、俺の分、
すっかり少なくなっちまう。
それはそれで、しょうがない。
みんなに分けなきゃ、みんなが怒る。
おいおい、待てよ、待ってくれ。
いったい、いくつに分けるんだい?
百にも、千にも分けなくちゃ。
分けられるだけ、分けなくちゃ。
おいおい、待てよ、待ってくれ。
それじゃあ、もはやケーキじゃないよ。
そんなことは、知るもんか。
俺はとにかく分けるのさ。」
「感覚の矛盾」関連記事:昆虫に「心」はないのか? 矛盾の上にある人間の感覚。
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出典:爆問学問
世界はもっとカラフルだ!〜共感覚のフシギ
波ね
体の神経細胞が
その波をそれぞれの
神経細胞
たとえば
視覚とかさ
その視覚を司る細胞が
しかるべき脳細胞へ
だけじゃなく送るわけだ
で、
それぞれ五感のセンサーは
ある一定の範囲内の
波を感知して
脳へ信号を送るわけなのね
脳科学で
それを解明できているかは
ぼくは、知らない
ぼくは、冗談で
脳家を自認しているのでね
いろいろ考えて
正解すると
ほんの少ししか
喜んだりしない
あるいは
長続きしない
悲しい性格でもあるんだけど