「金山草」の下には金鉱が眠る。
かつての山師たちの間では、有名な経験則であった。

金山草は別名・ヘビノネゴザ(蛇の寝ゴザ)とも言われ、土中の重金属を吸い上げ、無毒化して体内に貯め込めるという性質をもつシダ植物である。
銅や鉛、亜鉛を根っこに、カドミウムを葉っぱに蓄積する。
日本にはおよそ800種のシダ植物が生育していると言われるが、その中でも金山草だけが有害な重金属に対する耐性を持つのだという。
その足下に金があるかどうかは明言できないものの、金山草の育つ土に何かしらかの金属が含まれていることは確かなことのようである。
シダ植物に限らなければ、有害な重金属を無毒化できる植物は他にもある。
マリーゴールドやハクサンハタザオは「カドミウム」を吸い上げ、ミヤマナズナは「ニッケル」を、西洋カラシナは「鉛」を取り込むことができる。

これらの重金属は人体にとって有害である。
そのため、その毒を浄化できる植物は、土壌汚染の改良に重要な役割を担うこととなった。
ご存知の通り、我々の現代文明はその便利さの引き換えとして、様々な毒を自然環境に撒き散らしてしまっているのだ。
アメリカのクロゼット(バージニア州)では、「モエジマシダ」というシダ植物が、「ヒ素」を浄化するということで積極的に栽植されている。
クロゼットという田舎町は、農薬の大量使用により、ヒ素の汚染が深刻な地域なのである。
アメリカには浄化を必要とする汚染地域は、この他にも20万カ所以上あるのだという。

植物による環境浄化を「ファイト・レメディエイション」と呼ぶ。
ファイト(phyto)は「植物」を、レメディエイション(remediation)は「治療」を意味する。
いうなれば、地球の自然治癒力である。植物たちはありがたくも、我々が汚してしまった環境を改善してくれるのである。
ファイト(phyto・植物)という日本語の発音が「Fight(戦う)」と同音であることは興味深い。
放射性物質はどうか?
セシウムやストロンチウムは、ヒマワリや西洋カラシナ、アマランサスなどでの吸着が確認されている。
しかし、その後の回収・処理となると現状では課題が多い。
植物が毒に耐性をもつのは、必然の結果である。
なにせ、植物は動けない。生を受けた場所に毒があろうがなかろうが、とにかく生きるしかない。
奮闘虚しく枯れてしまう植物も多かろうが、中には毒を克服してしまう植物も現れる。
人間には、肝臓や腎臓などの毒を排出する器官があるが、植物にはそうした排泄機構はない。
では、どうやって無毒化するのか?
毒を何らかの化学物質で包み込み、それを細胞内の液胞に溜めておくことで、毒の悪影響を最小限に抑え込む。
また、より積極的に攻撃に転ずる植物もある。
病害虫に対して化学物質を放出する植物たちだ。
マリーゴールドの発する「アルファ・テルチエニル」という化学物質は、土中の線虫を撃退する。
セイタカアワダチソウ(背高か泡だち草)の「ボリアセチレン」は、他の植物の繁茂を抑え込む。
ヒガンバナ(彼岸花)の「リコリン」はネズミを殺す。

これらは「アレロパシー」として知られる植物の作用である。
その場から一歩も動けない植物が、外敵から身を守るために編み出した苦渋の策である。
一見、「見ざる言わざる聞かざる」のような植物たちであるが、その実、多様な「化学物質」によって、他を威嚇したり殺したりもしていることになる。
アロマテラピーというのは、こうした植物の化学物質が人間に良く作用する効果を利用したものである。
ある生物には毒であっても、その化学物質は他の生物にとって薬となることもある。
考えてみれば、動物よりも植物の歴史のほうが圧倒的に長いわけで、その彼らが生存のための多彩な技を身につけていることは納得のいくことである。
植物たちは「動けない」のではなく、「動かなくてもいい」という境地に達しているのかもしれない。
金山草が重金属の土壌に生育するように、それぞれの植物はそれぞれ固有の役割を担って、その場所に生存していると考えられる。
人間が化学的な研究をして、汚染された土壌に特定の浄化植物を植えようとすることは大変結構なことではある。
しかし、実のところ、浄化の役割をもった植物は、自然と汚染地域に繁茂して、自らの役割を果たすのかもしれない。
そう思えば、雑草への見方も変わらざるを得ない。
適当に生えているように思える雑草も、じつはそれぞれが重大な役割を遂行しているのかもしれない。
植物たちはガイガーカウンターなど使わずとも、放射性物質で汚染されていることを感じることもできるだろう。
そして、然るべき植物が、然るべき場所にて、任務を果たす。
我々は人為の拙(つたな)さを痛感せざるを得ない。
人間が植物に関して知っていることは如何ほどか?
翻って考えれば、人間とて生を受けた場所に大いなる意味があるとも考えられる。
豊かな日本に生まれる人もいれば、食糧も水もないアフリカの角に生まれる人もいる。
前向きに考えるのであれば、その場で生き抜く知恵があるからこそ、そこに生まれ落ちるのだろう。歴史上の偉人たちは、想像を超えるような過酷な環境を生き抜いていることも珍しくはない。
20世紀を振り返れば、汚染の時代でもあった。
現在、日本では廃棄物の最終処分場が残り少ないという。
必然的に、新世紀は浄化の時代とならざるを得ない。もうゴミ箱はあふれそうなのである。
浄化にとって、植物たちは大いなる味方である。
植物たちは自分で汚したわけでもないのに、セッセと日夜、地球の清掃に勤(いそ)しんでくれている。
人間が植物の仕事を肩代わりすることは不可能。
我々に出来ることはと言えば、植物の邪魔をしないことくらいであろう。
必要以上に土壌をコンクリートやアスファルトで覆うことは、植物の活躍の場を奪い、結局は人間自身が苦しむことにもなりかねない。
我々は、もう少し植物に「敬意」を払うべきなのかもしれない。
雑草も生えるがままが自然の姿である。
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出典:いのちドラマチック
「マリーゴールド 献身の花」
植物の力。地球の力。
浅はかな人間たちの考ぇには及びもしなぃ…
そんな人間たちにさぇ、生まれた地での役目があるカモしれなぃ。
いゃ、必ずある。
せっかくの動ける体。
せっかくの考ぇられる頭。
せっかくの感じられる心。
他の為、全体の為に活かしていけたら…それは必ず自分の為になる。
いつも新しぃ記事がUPされるのを楽しみにしています。
さまざまな種は
その種を絶やさんと
それぞれの『場所』で
その「職責」を全うしている
そう思います
自然のことに
人間社会の言葉で
表現するのは
不穏当かもしれません
でも
人間も
本来的に
そうしたものなんじゃないか?
そう思うんです
まず
自分
そして
家族
そして
その者と「種」を
同じくする者の
ために
自らの職責を
果たす
その種を
主(あるじ)と
考え違いしてしまって
いるのが
人間だけかな?
植物だけでなく
動物も
自然に従うことが
もっとも賢明であることを
知っているかのようです
本当は
逆で
そのものの置かれた環境の
変化に対応
結果です
貪る種がいたら
それは
その種の自殺行為にすぎない
楽なのか?
楽しいのか?
僕は、そうした種族じゃないから
理解不能ですけど
最近
私が学んだことに
「われわれが生きている
環境は
過去から引継ぎ
未来へと
お返ししなければ
ならないものです」
という
考え方です
人間は
その性ゆえに
いくつかの自然の
秘密を解いてきました
しかし
そろそろ
人智の方向性の
変更を求められている
そんな気がします
そしてまた
そうした職責の
科学者こそが
生き残る術としての
自然の叡智に
膝を屈して
欲しいものです
人間は誰しも
間借りをしているにすぎません
しかし一方
人間は自然界のなかに
生きるということは
ハウス栽培の人間では
その種の
これもまた
自殺行為にすぎません
人間は
洗練された
野生動物であるべきだと
そう考えます
そしてまた
法や科学を重んじながら
宗教という
「政治」からの
覚醒も必要なことのように
ぼくは、考えます