「ニンジャとサムライ」
両者はお互いが表裏一体であるかの如く、歴史に現れ、歴史に消えた。
国家の政権を握ったサムライに対して、最後まで闇に生きたニンジャ。陽があったのも、陰があったなればこそ。
しかし、「忍び」とも呼ばれるように闇に忍んでいたはずのニンジャが、なぜ、かくも有名になったのか?
日本どころか、世界にもその存在は知れ渡っているではないか。
永く秘されていた忍者の秘術が、白日の下に晒されたのは1789年。
門外不出とされていた秘蔵の文書の数々が、徳川幕府の元へと献上されたのである(その経緯は後述)。
その文書の中には、「万川集海」もあった。
万川集海とは、伊賀・甲賀の古典忍術四十九流の集大成である。
長らく口伝とされていた秘術が文書化されたのは、伊賀忍者・藤林保武の手によって(1676)。
江戸の平和によって活躍の場を失った忍者たちは、その腕を鈍らせ、次第にその技を忘れようとしていた。
その現状を危惧した藤林保武は、あえて禁じ手であった忍術の記述に踏み切ったのである。
その結果完成した万川集海は、唯一無二の優れた忍学書となり、現在の研究においても、三大忍術秘伝書の一つとして珍重されている。
この書が世に出たことにより、秘中の秘とされていた忍者たちの驚くべき実態が明らかになったのである。
後世の人々は、その驚きを様々に脚色し、現在の我々も知る忍者像なるものが出来上がる。
黒装束に覆面姿、水の上を歩き、火煙ととも姿をくらます。いわゆる忍者ハットリ君や猿飛佐助の世界である。

その忍者たちの事の起こりはというと、サムライと同じく地方で力を持っていた豪族たちなのだという。
中央権力を指向した豪族たちは戦国大名となる一方で、あくまでも一地域で独立を保持せんとした豪族たちもいた。伊賀や甲賀、戸隠などがそうであり、ニンジャはそうした独立勢力の中から誕生することとなる。
ニンジャが明らかな形で歴史書に登場するのは、室町時代(1487)。
時の将軍・足利義尚(第9代)は、将軍の権威に刃向かう近江(滋賀)の六角氏の討伐へと大軍を進めた。
守備よく六角氏を追い払ったはいいが、逃れた六角氏は甲賀衆と結託。甲賀の忍者は将軍の寝所を闇に紛れて急襲する(鈎の陣)。
将軍は辛くも一命をとりとめるも、のちに陣中で没する(享年25)。その死因は脳溢血とも忍者の与えた致命傷だったとも…。
時は応仁の乱を経験し、各地では後に戦国大名となる小さな芽が一斉に芽吹き出しつつあった。
忍者の里は各地の戦国大名とは違い、領土拡大を望まず、ただ己の土地を守ることに専念した。
その自衛のための鍛錬は、驚異的な身体能力を育(はぐく)み、数々の技をも生み出す結果ともなった。
身体能力のみならず、その知識は森羅万象を網羅し、毒薬の作り方から火薬を自在に操る方法まで幅広く、かつ実践的であった。

すると、侵略の鼻息荒い戦国大名たちは、伊賀や甲賀の里の忍者たちに一目置くようになり、逆に忍者たちに協力を求めるよになった。
こうして、サムライと横並びであったニンジャは、その立ち位置を徐々に闇の方へと移して行くこととなるのである。
戦国時代における忍者は、闇を翔ける強力無比な傭兵部隊として、戦国の世を跋扈することとなる。
武田、上杉、北条などの戦国大名に助力はするものの、彼らの完全な家臣になることはなく、あくまでも伊賀や甲賀の一員であり続けた。
もし、忍者の里を裏切るようなことがあれば、命の保証はない。門外不出の秘伝は断固として守らなければならなかったのである。
しかし、豊臣秀吉が天下統一に至るや、忍者の里への風当たりは俄然厳しさを増すようになる。刀狩りや領地没収の憂き目にあったのである。
統一政権にとっては、一地方が力を持ち過ぎることほどに危険なことはない。その点、忍者の里はあまりにも恐ろしい存在であったのだ。
豊臣の次は徳川の時代となる。ほぼ完全な平和の到来である。
ここまで至ると、もはや闇の忍者たちに活躍の場はほとんどない。
島原の乱(1637)を最後に、忍者は世に不要な存在となった。
里を失い、仕事も失った忍者たち。
しぶしぶ江戸の門番などの「浅ましい軍役」に甘んじざるを得なくなった。
当然、腕は鈍り、誇りも失う。
先述の忍術書「万川集海」が編纂されたのには、こうした背景があった。
失われつつあった各地の忍術を、その書名の如く、細い川の流れすべてを集めるように徹底して収集し、大海のように集大成したのがこの書である。
もはや、口伝での伝承は不可能であり、書き記して後世に託する決断に至らざるを得なかったのだ。
そこに天明の大飢饉が日本を襲う(1780年代)。
日本の浅間山の噴火やアイスランドの火山群の噴火などにより、噴煙が地球上を覆い、世界的な異常気象(低温)となったためだった。
この世界的な危機に食糧は不足し、イギリスでは産業革命が起こり、フランスではフランス革命が誘発された。
日本では、老中・松平定信の寛政の改革により、全国的な緊縮財政策がとられた。
この逆風によって、忍者たちの命運も極まった。
甲賀の忍者・大原数馬は、秘伝の忍術書(万川集海など)を幕府に献上することにより、領地の確保を図るという苦渋の決断を下す(1789)。
しかし、無念かな。
願い叶わず、領地の代わりに下されたのは、銀たったの5枚であった。
ここに忍者たちの命運は尽きる。サムライたちよりも、一足早い幕引きであった。

「忍者は
音もなく、臭もなく
智名もなく、勇名もなし」
忍者としての役目を終えた者たちの中には、その実践的な技や知識を別の方面で活用する者たちも現れた。
先の大原数馬の子孫は、その腕を医術に活かし、医師として明治維新を迎えたとのこと。
現在にも血をつないでいる忍者の家系も数家、現存しているとのことである。
出典:ラストニンジャ 古文書発掘ミステリー
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勉強になります。
欲を言えば「ブログ内を検索」するボックスがあれば、源頼朝(例)を過去記事に遡って調べることができて有難いです。
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宜しくお願いします!