この地球上で「最も暑い場所」。
それは、アフリカの「アファール低地(エチオピア)」だという。
年間の平均気温は34.4℃(東京は16.3℃)。加えて「乾燥」も半端ではない。湿度は20%程度しかない(日本は冬でも50%ほど)。フライパンに落とした「卵」は、目玉焼きになるどころか、カピカピの乾燥タマゴになってしまう。

夏には気温50℃以上の日々が3ヶ月も続くのだとか。
神が人々に与えたもうた「最も過酷な大地」、それがアファールである。
なぜ、そこまで暑い(熱い?)のか?
アファール低地は海よりも低く(海抜マイナス100m)、くぼんだ巨大な皿のようになっている(面積は日本の半分)。
アフリカの熱風(火の風)がこの窪んだアファール低地に吹き込み、気温を極端に上昇させ、同時にカラカラに乾燥させるのだ。
しかも、地下には巨大な「マグマ」が眠っているため、この巨大な皿は上からだけでなく下からもフライパンのごとく熱せられるのである。
驚くことに、このアファール低地に古来より暮らす人々がいる。
わずかな地下水(井戸)を頼りに、ヤギとともに細々と生きるバドレ村の人々である。

家屋はヤシで作られたシンプルなもので、風を通す工夫のある涼しい家や、熱風を通さない密閉された家まで様々。

食事は熱く辛い。身体に熱いものが入ると、身体の冷やそうとする機能が活性化するのだそうだ。汗などはその代表例である。
世界一水の豊かな国に暮らす日本人は、一日に一人300リットルの水を消費するという。
それに対して、バドレ村の人々が一日に使う水の量は、一人たったの8リットル程度(バケツ一杯分)に過ぎないという(日本人の37分の1)。
井戸があると言っても、それは小さなコップで何杯もすくわなければならないほど貧弱なものであり、いつ枯れるとも知れない頼りないものである。

その貴重な水を使うには、昔からあるルールがあるのだという。
「弱い者から先に飲む」というルールだ。子供がいれば、子供が最優先である。

彼らの生業(なりわい)とするのは、「塩」の採掘である。
このアファール低地は、かつて海であったのだという。
アフリカ大陸からアラビア半島(サウジアラビア)が分離した跡がアファール低地であるため、しばらくの間、アファール低地は海の底にあった。
長い年月を経て、周りの土地が隆起すると、アファール低地だけが湖のように取り残される。

しかし、上述のような灼熱の条件ゆえに、その湖の水もすっかり蒸発。そうして、海水に含まれていた「塩」だけがアファール低地に残されたのである。
アファール低地に広がる塩の大地は、およそ1,000平方km(東京都の約半分)。そこには10億トンの塩が蓄積されているのだという。
切り出した塩はラクダの隊商により運ばれて行く。

一口に塩と言っても、採れる場所によりその成分には違いがあるのだという。
例えば、土地の隆起してできた塩の山から採れる塩は、薬効の成分が含まれる。
そのため、アファール人はその小山の塩を大切に大切に「薬の山」として珍重している。
わずかな水に、大量の塩。
アファール低地にあるのは、ほぼこれだけといって過言ではない。
しかし、村の長老は「これで十分。大切なものは全てそろっている。」と言う。
物質の山に囲まれて暮らす我々の感覚からすれば、アファール低地には「何もない」。
とてもではないが、ここで暮らそうとは考えもしないであろう。
しかし、長老の言う通り、人は「水と塩」があれば生きていけるはずである。実際に彼らはそうして生命をつないできているのである。
水にも食糧にも乏しいこの村の人々には、「分け合う」という気持ちがあらゆる行動に垣間見られる。
水は最も弱い者に、食糧は労働した者に。
物資が少ないからこそ、分かち合わなければ生きていけないのである。

物資に溢れた世界では、「分かち合い」どころか、壮絶な「奪い合い」が展開されがちである。
物は豊富だから分け与えるのか? いや、それは少々違うようである。
少ないからこそ「分かち合う心」が培われるのかもしれない。皮肉にも、豊富であるほど奪い合うという性質が人間にはあるらしい。
物質が増えれば増えるほど、人の心の余地は狭くなってしまうのだろうか?
物が少ないアファールの人々には、どこにでも人間らしい心を容易に見つけ出すことができる。
物と心とはトレードオフの関係(どちらかの二者択一)にあるのだろうか?
もし、そうならば、我々は物によって「心」が駆逐されないように注意しなければならないだろう。
アファールは確かに最も過酷な土地である。
しかし、その過酷さの中にも確かな「恩恵」が存在する。
わずかな水しかないにも関わらず、人々は心はとても大きく育っていたではないか。
この日、アファールには「雨」が降った。
年に2、3度しか降らないという雨だ。
アファールに降る雨は極めて珍しく、極端に「有限」なものであるが、その有難さといったら何モノにも変えがたい。「無限」の喜びを人々にもたらしてくれるのだ。
相対的な価値観の元に生きる我々にとって、物はあり過ぎると「ない」ように感じたり、物がないほうがかえって「ある」ことを実感できたりもする。
物があるから幸せと限らないことは、現代人の痛感するところでもある。
アファールには、何もないからこそ幸せが簡単に見つかるのかもしれない。
ただ、その幸せは豊かさの感覚が麻痺してしまっている現代人にとっては、あまりにも些細なものだろう。
しかし、そういった些細なものに幸せを見い出せなくなってしまうと、人々は何モノにも満たされなくなってしまう。
日本には「足るを知る」という言葉があるが、人は自分が思うよりもずっと「少し」で事足りてしまうのかもしれない。
無限に求めている間は、いつまでも有限(足りない状態)であり、有限に満足した時にこそ、人は無限の恵みを感じることができるのだろう。
よく見れば、「無限」という漢字に「有」の字はないではないか。
そろそろ、アファールの人々がヤギの乳からバターを作る季節になる。
子供たちは喜々としてヤギを追いかけ回している。
たくさんはできないであろうそのバターは、みんなが楽しみにしているものの一つである。
出典:地球イチバン <新>
「地球でイチバン暑い場所」〜エチオピア・アファール低地〜
ありがとうございました。(^ε^)
日本にいる以上は、本当に質の高いものだけを必要に応じて入手すれば良いんだろうな。食べ物も質素でよい。お腹がものすごく減ったときの塩おにぎりが半端なく美味しく感じるのが良い例で。参考書だって良いものを繰り返し復習しまくった方が、色んなものに手を出すよりもはるかに効果が高い。
こういう考えと行動を心がければ、必然的に部屋やデスクも整理整頓が行き届くんだろうな。無駄なものが無くなった代わりにお金が貯まりそう。
記載された内容に感動しております。
アファール低地にはいつか行ってみたいですね。