百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)進一歩
回向返照(えこうへんしょう)退歩
「百尺竿頭」とは、長さ百尺(30m)の竿の先(頭)。
あなたは地上に立てられた長い長い竿の先に立っている。もし、そこから一歩進めば…。
そのような上空の竿の先は、極めて不安定で危険な場所とも思われるが、禅の世界の解釈は少々様相が異なる。
その長き竿は、長き修行の道のりを示し、その竿の先こそが到達すべき最高地点(悟りの極致)なのだという。
その極致から、さらなる一歩を進めるということは、生命を投げ出してでも(不惜身命)、衆生救済へ向かえという意味になる。
その句に続く「回向返照」とは、太陽が沈む時に、西の空を明るく照らす光。
その意を転ずれば、神様や仏様のありがたい光の意味ともなる。
その光から、あえて歩を退けるとは、如何なる意味か?
困難には敢えて一歩を進め、皆が求める光には逆に背を向ける。
禅の世界は「矛盾」を楽しむ世界であり、一般的な頭で考えることはできない。

ここに、百尺竿頭から実際に一歩を進めた鳥の話がある。
百尺(30m)どころか、100mを超える断崖絶壁から、その鳥は身を投げた。
鳥だから飛べるのだろうと思うだろうが、じつはその鳥はまだ飛べない「ヒナ」である。
産毛に覆われたヒナたちは、次々と断崖の巣から飛び降りる。
岩に激突して死んだり、地面に打ち付けられて死んだり…。
運良く柔らかい草むらの上に落ちたヒナだけが助かった。しかし、すでに半数は死んでいる。
奇跡的に生き残ったヒナたちには、新たな危険が待っていた。
草むらのキツネにとっては、まさに棚からボタ餅、崖からヒナ。パクパクとヒナたちを食べていく。
そんな絶体絶命をも切り抜けられたヒナは、ほんの数羽。
それでも、この鳥はいつもいつもこの方法で生命を繋いできているのである。
なぜ?なぜ?と思わずにいられないが、この鳥はいつもこうして生きてきたという事実以外には、確たる答えはない。
頭で考えて分かることは限定的である。
智者と限らず、現代人は皆が知に溺れがちである。
我々はいったい何を知っているというのであろうか?

「禅」関連記事:
案外操作がたやすい科学データ。その薬は大丈夫?
「無師独悟」別府慎剛
関連記事:
窮地に陥ると現れる「サードマン」。それは神秘か、幻覚か?
最も弱い者を救うという「お地蔵様」。現代の救いはどこにある?
無味乾燥なものに「色」が見える不思議な「共感覚」。分析から統合へ。
出典:宿坊 ココロとカラダ満つる旅 東北路
「長谷川理恵」〜山形・善寳寺〜
知れば知るほど
分からないことが
多くなるって言っていたように
記憶します
禅でいうところの
「光」って何を意味するのかな?
現世的なものなのでしょうね
具体的に言えば
立身出世ができる立場にありながら
あえて
衆生にまみれて
生きるっていうことかな?
語同
でも
神、仏が全知全能なら
その不条理も
実は
神、仏