2011年10月24日

長き争乱の果てにたどり着いた「中尊寺金色堂」。平和の象徴は900年間守られ続けている。


「五月雨(さみだれ)や 降り残してや 光堂(ひかりどう)」

江戸の俳人・松尾芭蕉の詠んだ歌である。

芭蕉の詠んだ「光堂(ひかりどう)」とは、奥州平泉(岩手)に現存する「中尊寺金色堂」のこととされる。



旧暦の5月は「梅雨」の折りであり、雨ばかりが降る季節。

その雨がちな中でも、光り輝く「金色堂」にだけは雨が降らずに、その姿を後世に遺さんとしているかのようであったのだろう。

現在は建物の中に覆い囲われている金色堂も、もともとは野外にその黄金の姿を晒(さら)していたのである。



当然、梅雨の雨が金色堂を避けて降るわけはない。しかし、建物を朽ちさせる雨は、歴史を忘却する人心にも通ずる。

幸いにも、中尊寺の金色堂は、浮薄な人心に忘れ去られることもなく、昭和には大改修を経て、現在にもその輝きを伝えている。

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金色堂は、その名の通り、全面に金箔を施された「皆金色(かいこんじき)」のお堂であり、それは当時の日本はおろか、世界にも類例のないものであった。

イタリアの「マルコ・ポーロ」は、著書「東方見聞録」で日本を「ジパング(黄金の国)」として世界に伝えている。

彼自身が日本の土を踏んだ記録はないのだが、宋(中国)との貿易における日本側の支払いは全て「金」だったこともあり、日本が金の一大産地であったことは確かなことで、それは大国「宋」にも認識されていたことであった。

そして、その日本の金のほとんどは、奥州(東北地方)からもたらされたものだったのである。



溢(あふ)れるように金を産出する奥州(東北地方)は、金色堂が創建される以前、「蝦夷(えみし)」と呼ばれ、中央(京都)の支配が及び切らない時代が長かった。

それでも、長い歴史の中で蝦夷と朝廷(京都)はまずまず良好な関係を築くようになり、東北地方の金は「貢物」として朝廷に納められるようにまではなった。



ところが、その東北の貢物(金)が滞りがちになる。

東北の有力者「安倍氏」が絶大な権勢を誇り、朝廷を軽んずるようになったのである。

怒った朝廷は数千の兵を差し向け、威儀を正さんとする(1051)。しかし、安倍氏の見事な返り討ちにあい、あっさり敗退(鬼切部の戦い)。



次に東北に派遣されたのが「源頼義」。

しかし、これまた大敗(黄海の戦い・1052)。

東北の豪族の武勇は比類なく、朝廷軍の敵(かな)うところではなかったのである。



そこで、一計を案じた源頼義。屈強な豪族同士を争わせる策を講じる。

中立を保っていた出羽の「清原氏」を、「安倍氏」との戦いに駆り出したのである。

結果は見事に功を奏し、源頼義は安倍氏の討伐に成功する(厨川の戦い)。

この一連の戦が「前九年(ぜんくねん)の役(えき)」と呼ばれるものである。

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この戦における源頼義は残虐であった。

切り落とした首は1万8,000とも言われ、その片耳を切り集めて干したものを戦果として京都に持ち帰ったという。

また、藤原経清(つねきよ)もこの時に処刑されている。彼は後に奥州帝国を築き上げる藤原清衡(きよひら)の父親である。

藤原経清(つねきよ)の処刑はおぞましいほどに残忍で、「鈍刀をもって、ようやくに斬る(陸奥話記)」と記録に残る。サビついて切れない刀をもって、ジワリジワリと首を切り進めたのだという。

息子である藤原清衡(きよひら)は当時7歳。父の無残な最期に何を感じたのであろう。清衡が奥州平定後に「仏の国」を求めたのは何故(なにゆえ)か?



東北の騒乱は、これで終わりではなかった。

安倍氏に取って代わった「清原氏」が内紛を起こしたのだ。

清衡(きよひら)は父を失った後、この清原氏の養子となっていた。そのせいで、すっかり内輪揉めに巻き込まれた清衡、突然屋敷を襲撃され、またたく間に妻子眷属を皆殺しにされてしまう。



清衡の落ち延びた先は、源義家(源頼義の息子)のもとであった。

源義家は清衡を助勢し、辛くも形勢を逆転させ、以後、清原氏は清衡(きよひら)に従うこととなった。

この一連の内紛が「後三年(ごさんねん)の役(えき)」である。



前九年の役で父を処刑され、後三年の役で妻子を失った清衡(当時32歳)。

彼の前半生は苦渋に満ちたものであった。しかし、コロコロと転がり込んできた奥州の富は、彼の後半生を眩(まばゆ)いばかりに光り輝かせる。

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藤原清衡(きよひら)の領国経営の手腕は並外れていた。奥州の富は、彼の能力と相まって、何倍にも何十倍にも膨らんでゆくのである。

そして、現在に残る中尊寺金色堂はじめ、100年続く奥州藤原氏の栄華の礎(いしずえ)を築くに至る。



清衡は自身を「俘囚(ふしゅう)の上頭」とへりくだっている(中尊寺建立供養願文)。

「俘囚」とは、京都政権との戦いをへて帰順した蝦夷全般のことである。差別的な響きもある言葉であるが、俘囚の民は狩猟・武芸に秀(ひい)で、都では優秀な軍事力と一目置かれる存在でもあり、のちに武士となる階級にも繋がるものである。

清衡の「俘囚の上頭」という言葉に見られるのは、朝廷に対する従順さである。朝廷を上回る富と権力を持ちながらも、朝廷を立てる姿勢を貫く清衡は、外交政治に巧みな人物と見て取れる。



清衡の巧みな外交手腕の及んだ範囲は、当時の朝廷の権勢を大きく上回る。

中尊寺金色堂に使われた数々の貴重な素材は、世界各地から集められたものなのである。

惜しみなく使われた「金」こそは地場のものであるとはいえ、螺鈿(夜光貝)などは南洋の国々から、紫檀(したん・高級木材)は東南アジア、象牙は遠くアフリカ象のものであったという。



東南アジアやアフリカの物産は、宋(中国)との交易によるものである。

清衡の交易ルートは京都を経由せず、博多を経て直接「宋」と繋がるものであったという。

また、北方へも明るく、北海道を経由して遠くシベリア(ロシア)との交流も盛んであった。

清衡が朝廷に献上していた「オオワシの羽(矢羽に使われる)」や「アザラシの皮」は、そうした交易の産物であった。

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今の世にも言えることではあるが、交易ほど儲かるものはない。

江戸幕府が交易を一手に収めんと鎖国をしていたのも、地方が必要以上に力を持つことを防ぐためでもある。

それは、開国後の明治期に、交易へと乗り出した人々が、幾多の財閥を誕生させたことを見ても伺い知れることである。



藤原清衡の世界を股にかけた交易ルートが解明されたのは、近年の遺跡の発掘の成果によるものである。

清衡の平泉にあるものが、遠く隔たった地域で次々と発見されたのだ。博多に同じ壺があったり、青森(石江遺跡)で同じ陶磁器が見つかったり、北海道(厚真町)で同じ銅椀が出土したり……、遠くロシア(ナデジンスコエ遺跡)でも同じ矢ジリが発見されている。

清衡の中尊寺建立供養願文には、「粛慎・挹婁(現ロシア)」が「なびき従った」という記述が見られる。



こうして、奥州の金は世界を経由して、何倍にもなって清衡の元へと返って来た。

「俘囚(ふしゅう)」という蔑称に甘んじながらも、着々と奥州は豊かになっていったのである。



豊かになった清衡は、深く仏教に傾倒していく。

それは人の死を見過ぎてきた前半生があったからかもしれない。

平泉を中心に、福島から青森まで続くおよそ500kmの「奥大道」とよばれる街道沿いには、「傘卒塔婆」という阿弥陀如来が納められた道しるべが、一町(100m)おきに5,000個も並べられていたという。

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奥州に入った人々は、阿弥陀如来に導かれるままに平泉へと至り、そこに光り輝く「金色堂」を目にすることとなるのである。

さらに、東北各地には広く寺院を建立し、その数は万を超えたという。



奥州を「仏国土(ぶっこくど)」とすることが、清衡の悲願となっていた。

阿弥陀如来の浄土として名高い極楽世界は、我々の住む娑婆の西隣にある「仏国土」である(中尊寺金色堂の御本尊も阿弥陀如来)。



清衡を継いだ二代目・基衡、三代目・秀衡と、奥州藤原氏の栄華は続いていくことになる。

そして、仏国土を平泉に現出させるべく、基衡は毛越寺を、秀衡は無量光院を建造する。

無量光院は、京都の平等院鳳凰堂を模したものでありながら、そのスケールは一回り大きく、さらには本尊・阿弥陀仏の背に夕日が沈むという壮大な演出もなされたものだった。

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清衡の悲願は、およそ100年、三代にわたる平和を奥州にもたらした。

前九年、後三年で流れた血は、およそ忘れてしまうほどの長い年月であった。



しかし、歴史は繰り返してしまう。

源平の争乱が、新たな血を求めて日本全土に繰り広げられることとなったのだ。

奥州も名将・源義経を通して、深く争乱に関与していくこととなる。



源義経は奥州藤原氏の元に庇護されていたのだが、平氏との戦が激化すると、義経は奥州を飛び出し、数々の名戦を制していった。

義経の優れた戦術の一つに騎馬戦術があったが、それは奥州の名馬を相手に、身体で馬を知っていたからだとも言われている。

抜群の武功を上げて平氏を攻め滅ぼした義経であったが、彼は逆に兄・源頼朝に追われる立場となってしまう。



義経は行く先々で追い立てられ、逃れ逃れて奥州の地へと落ちて来る。

この頃の奥州は、三代目の秀衡(ひでひら)の代となっており、朝廷からは鎮守府将軍の任命も受け、名実ともに奥州の覇者となっていた。

平氏により焼討ちされた東大寺の再建には、千両の金を求められながら、その五倍の五千両を寄進するほどであり、その財力も健在であった。

さらに、奥州の武士団はその数十七万騎といわれるほどに強大であった。



平氏滅亡後、鎌倉の源頼朝は奥州支配をも視野に入れ始める。

源頼朝は奥州に無理難題ばかりを突きつけるようになった。先に納めたはずの五千両に加え、さらに三万両の貢金を求めたりと、はなはだ不穏な空気は深まるばかりである。

鎌倉との対立が鮮明になりつつあった奥州に義経が入ったことにより、奥州は明らかに鎌倉に反する態度を取ったことになった。



奥州の不幸は、この大事に三代目の秀衡(ひでひら)を失ったことである。

秀衡は遺言に、「義経を主君とする旨」を二人の息子(泰衡・国衡)に告げて息を引き取る。

しかし、息子たちは遺言を守るどころか、お互いに殺し合い、義経をも自害に追い込んでしまう。



内紛で自滅した奥州に踏み込んだ源頼朝は、仏国土・平泉を火の海とし、百万の富は一瞬で灰塵へと帰した。

奥州藤原氏四代目の「泰衡(やすひら)」は、逃亡中に味方の裏切りにより首をはねられる。

源頼朝の前に届けられた泰衡の首級。頼朝は、この首に八寸(24cm)の鉄釘を打たせ、柱に掛けさせたと伝わる。



折しも、秋の大風の季節。冷たくなりつつあった秋風は、平泉の地に時代の終わりを告げていた。

そして、季節は幾度も巡る……。

「夏草や兵どもが夢の跡」

これは、後の世の松尾芭蕉が、源義経の自害した館跡にて詠んだ歌である。



中尊寺金色堂には、今も初代・清衡、二代・基衡、三代・秀衡の遺体が納められている。

そして、三代・秀衡の棺には、誰が入れたのか、四代・泰衡の首級も納められていた。

さらに、泰衡の首桶には100個の「蓮の種」が入れられており、その一つが平成10年、開花に成功し、現在も中尊寺境内の池に花を咲かせ続けているという。



奥州藤原氏の初代・清衡が求めた「仏国土」は、現在「世界遺産」となっている。

前九年・後三年という長い戦火の果てにたどり着いた「仏国土」は、その後も幾度かの戦火をかいくぐりながら現在に繋がっている。

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夏草、蓮の花、そして金色堂。

時代の波を乗り越え続けるものも、確かにあった。



黄金の金色堂は、恒久の平和を希求しているのであろう。

900年にも渡り、この象徴的なお堂を日本人が守り続けてきたことは、大いに価値のあることと思われる。

この金色堂が輝き続ける限り、次の戦火が起こることはないであろう。



出典:平泉 よみがえる黄金都市
 〜奥州のグローバルシティー 全貌に迫る〜




posted by 四代目 at 14:39| Comment(2) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
俳聖 松尾芭蕉の句

『五月雨の 降り残してや 光堂』

少しだけですけど

意味解釈が・・・

もちろん

私の解釈にすぎませんが

「五月雨が やんだあとの 光堂は 
 その輝きを いやましに
 増しているようで 
 ふだんより ありがたいことよ」

あと

日本の木造建築って

風雨に対して

あるいは

風雪に対して

弱いんじゃなくて

「強い」んじゃないかな

わびざびの世界っていうか

歳月、年月によって

味わい深いものになっていく

そう、年輪のように

そういった気候風土に合わせた

建築物が木造建築なんだと

思っています。

私は、「百年住宅」

つまり

三世代に亘って住宅ローンを

組んで

そして

中古住宅市場が根付くように

つまり

歳月とともに

その住宅の価値が上がっていく

そんな『高級住宅』に住みたいな

なんてことを思ったりします

まれに

サイトを訪ねさせていただいています。

勉強させていただいています。

ありごとうございます。
Posted by 長縄 正 at 2011年10月26日 11:29
凄いですね。
ここまでまとめあげることは普通の人
にはできませんよ。
Posted by Sajitariusu1108 at 2014年08月18日 12:20
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