「明智光秀」の肖像画は「本徳寺(岸和田)」にのみ唯一現存している。
この肖像画だけを見れば、この人物が日本史をひっくり返すほどの大クーデター(本能寺の変)を起こした人物とは到底思えない。
なぜなら、そこに描かれた人物は実に静かな佇(たたず)まいであり、その表情はあまりにも穏やかだからである。

明智光秀は決定的な謀反人ではあるのだが、彼の生涯を追ってゆくと、「本能寺の変」だけがポッカリと浮かんだように不自然な出来事に思える。
「本能寺の変」以前の彼は、謀反人とはまったく縁遠い「忠義の士」のように見えるからだ。
そのせいか、天皇、将軍、そして主君・織田信長、皆誰も彼もが明智光秀には自然と「大きな信」を置いていた。
明智光秀は鉄砲を握らせれば「百発百中」。諸学にも通じ、教養高く、まさに文武両道の有能な武人である。
前半生は不遇も多かったとはいえ、信長に仕えて以降は、織田家中では新参者でありながら、誰よりも早く一国一城の主(坂本城)となっている(秀吉よりも3年早かった)。
だからこそ、あの本能寺の変は「なぜ」「まさか」の連続なのであり、日本史上最大の謎の一つとされているのだろう。
歴史は「勝者」により上書きされてゆく傾向があるため、決定的な「敗者」となった明智光秀は必要以上に貶(おとし)められることとなった。
しかし、不思議と彼の人気は高かったりもする。それは、敗者や悪人にも寛大な日本人の気質なのだろうか。
欧米の歴史であれば、明智光秀は間違いなく「ビンラディン」か「カダフィ大佐」のごとき扱いを受けることであろう。
明智光秀が本能寺の変を起こす前に詠まれた歌がある。
「ときは今 あめが下しる 五月かな」
「とき」は明智家の本家「土岐」に通じ、「あめが下しる」は「天下を治める」ことに通じるという。
つまり、この歌は明智光秀が「天下人」にならんとする野望を歌ったものだというのである。
この歌を世に広めたのは、明智光秀を討った豊臣秀吉である。
「惟任退治記」にこの歌が記載され、明智光秀の野心を明らかとしたのである。
ところが、これに反論する人物が近年現れた。明智家の子孫である。
この歌は「あめが下しる」ではなく、「あめが下『なる』」が本当の姿なのだという。
たった一字の違いであるが、その意味は天と地ほどに変わってくる。「あめが下『なる』」では、野心どころか、ただ単に己の不遇を嘆くだけの歌でしかない。

この歌の解釈に関しては、諸説紛糾しているわけだが、よく調べている人ほど、「野心に満ちた明智光秀」というのはイメージしづらいようである。
明智光秀は「私利私欲」で動くような人物ではなかったようだ。
もし、彼ほどの大人物があのような大胆な行動に出るには、然るべき大義名分もあったのではなかろうかと思われるのである。
しかし、その大義はまったく判然としない。
「天皇」の意図があったのではないかという仮説もある。
そのような記録は一切ないのだが、それは明智光秀が謀反の汚名を朝廷に着せまいとして、あえて一切の証拠を残さなかったとも言われている。
確かに、それならば忠義の明智光秀の実像に相応(ふさわ)しいのかもしれない。
織田信長の天皇に対する不敬は多数ある。
その最たるものとも言えるのは、天皇に「元号」を変えること(改元)を迫ったことであろう。
強迫を受けた朝廷は、泣く泣く改元の神事を行うのである。そうして「元亀」は「天正」と改められた(1973)。この年(1973)は、室町幕府の将軍であった足利義昭を京都から追い落とした日でもあった(室町幕府滅亡)。
ちなみに、信長の死(本能寺の変)は、この10年後の天正10年(1982)である。
この他にも、信長は「正倉院」に立ち入り、宝物である香木「蘭奢待(らんじゃたい)」の一部を持ち去ったりもしている。
さらには、国師(天皇の師)と呼ばれる高僧を、信長は2度も焼き殺している。最初は比叡山の焼討ちにて、そして次が甲斐武田家滅亡時。快川紹喜の「心頭滅却すれば火もまた涼し」は、その際の言葉である。
日本の歴史においては、惜しまれた人物ほど「実は死んでいなかった」という説が後世に残されたりする。
その典型は、「源義経」である。彼は衣川で死ぬことなく、大陸へと渡り、チンギス・ハーンになったのだという壮大な伝説が残された。
「真田幸村」も大坂の陣で死んだのではなく、鹿児島に落ちのびたという説がある。
そして、明智光秀にも「生存説」がある。家康に重用された僧侶「天海」になったのだという説である。
これは大変に奇妙なことである。
天下に名をなすもの達だけに与えられる「生存説」が、なぜに「悪人(謀反人)」の明智光秀に残されているのか?
生存説が残るは、明智光秀のみならず、その長男の「明智光慶」もである。
明智光喜は、父・光秀の死後、満14歳で自害したと歴史にはある。
しかし、他方、僧侶「南国梵桂」となり、「本徳寺」を開基したとも伝わっている。
この「本徳寺」というのは、他ならぬ「明智光秀」の唯一の肖像画を大切に安置し続けているお寺である。
なぜ、謀反人の息子にまで「生存説」が?
「本能寺の変」の裏には、一体どれほどの真実が秘められているのであろうか?
話はふくらみ、明智光秀の居城であった坂本城に由来する人物が、土佐へと逃れ、幕末の坂本龍馬を生んだ坂本家につながるという話までがある。
伝説の是非はともかくとしても、こうした伝説が残されること自体、明智光秀が時代に惜しまれていたことの証左である。
ちなみに、明智光秀の最も信を置いた家臣の一人に「斎藤利三」という人物がいる。
ある時、織田信長は明智光秀に「斎藤利三を稲葉一鉄に返せ」と迫られた(斎藤利三は稲葉一鉄の元家臣であった)。
ところが、光秀「国を失っても、大切な家臣を手放すわけにまいりませぬ」と頑なに拒否。
激怒した信長、光秀の髪をつかむや床を引きずり回す。光秀は廊下の柱に何度も頭を叩きつけられ、しまいには信長、刀に手をかける。
斎藤利三は、ここまで自分を思ってくれる光秀に心から感動した。
そして、その忠節は、秀吉に惨殺される最期の最期まで貫かれることとなった。
徳川家光を育てたという「春日局」は、この斎藤利三の娘である。
なぜ、家康は天下の罪人とされた光秀の重臣の娘を、そこまで取り立てたのか。
かたや、3代将軍となる家光の生母は、信長の血を引く女性「江」である。
時代の闇に葬り去られるはずだった明智光秀は、その影をアチラコチラに残しているのである。
明智光秀と同一人物だという説もある僧侶「天海」が、没後に朝廷から送られた諡(おくりな)は「慈眼大師」である。
「大師」とつく諡は、平安時代以来700年ぶりだという。つまり、それほどに「天海」は朝廷に重んじられたのである。
本能寺の変における「朝廷陰謀説」を支持する人々は、信長の討った明智光秀の大恩に朝廷が報いるべく、その別の姿「天海」にこれほどの諡を授けたのだと信じている。
明智光秀の肖像画には、「放下般舟三昧去(仏門に入り、去って行った)」と書かれているという。つまり、明智光秀は「僧侶になり、寺を出て行った」というのである。
この肖像画は、ときおり限定公開されるというが、大変な人気のために、よほど幸運でない限りは、その場に招待されることはないらしい。
この静かさを湛(たた)える肖像画のように、光秀は静かなる男であったとも伝わる。
彼の敷いた善政には、領民の多くが大変に感謝しており、現在に至っても光秀の遺徳を偲(しの)ぶ地域も多いのだとか。
明智軍の直属の家臣団は、先の斎藤利三のごとき忠臣ぞろいで、その結束たるや不動の堅固さを誇っていたという。猛者ぞろいの織田家中にあってさえ、明智軍は最強の軍団の一つだったのである。
謎多き男、明智光秀。
その不思議な魅力は、時代を超えて人々を惹きつけている。
彼は過小評価されてなお、有能すぎる男であったようだ。
出典:BS歴史館 シリーズ
激論!戦国の真実(1) 織田信長・本能寺の変の謎〜常識を揺さぶるミステリー
三人が犯人でしょうね。
しかも
まるで
連携のない形で
家康がトリガーを引かせ
つまり
本能寺へと斉藤の軍を向かわせ
慌てた光秀は
こと既に遅し
と、観念し
しかし
信長公のご遺体はなく
その焦燥
想像を絶するにあまりあるものがある
秀吉は
大返しを果たし
「仇」を打つのに成功する
遺体は秀吉の仕業でしょう
葬儀を取り仕切った
家康には
アリバイのようなものがある
あの日に
家康と秀吉の
それぞれの恐怖と野心が
一気に渦巻き
天下が再転回しだした
そんな事って
たまには
あるんでしょうね