夜空を見上げれば、そこには天空にまたたく星々が見えるだろう。
その星々には、明るい星もあれば、暗い星もある。
そして、印象的な星々を繋いでいったものが「星座」ということになる。
古代ギリシャの天文学者「ヒッパルコス(紀元前2世紀)」は、現在につながる46の星座を特定し、さらに星々の明るさを「1等星〜6等星」まで分類したのだという。
ヒッパルコスは、当時の観測で最も明るい星を「1等星」とし、肉眼でかろうじて見える最も暗い星を「6等星」とした。
この概念は現在にも引き継がれており、等級が「5つ」違えば、その明るさは「100倍」違うことになる。つまり、6等星に比べて、1等星は100倍明るいということになる。
地球から見る夜空には、肉眼で見える星々(1〜6等星)が3,000〜6万あるという(7等星まで見えることがある)。
夜空の星々を擬似的に再現した一般的な「プラネタリウム」は、こうした現実的な夜空を再現したものである。
これに対して、肉眼では見えるはずのない「13等星」までを再現したプラネタリウムが、「メガスター」である。
肉眼では暗くて見えない13等級までの星々を夜空に再現すると、なんとその星の数は2,200万個!メガスターに映し出される夜空には、現実の星空のおよそ1,000倍もの星々がひしめくこととなった。
普通の夜空では、ポツンポツンとしか星は見えないものだが、メガスターの夜空は星々で埋め尽くされ、むしろ星のないところを探すことのほうが難しい。
メガスターは肉眼では見えるはずもない架空の夜空を再現したものではあるのだが、現実世界にも信じられないほど無数の星を見られる地域が存在する。
その一つが、南米チリの「アタカマ高地」である。
標高5,000mで見る夜空は圧巻であり、その絶好の環境から、世界最大の天文台が建設中である。
この高地はかつての「インカ帝国」南端であった。
インカの人々は夜空に埋め尽くされた星々を眺めていたのであろう。しかし、スキ間もなく煌(きらめ)く星空では、星座を探すのが極めて困難である。星が多すぎるのだ。
そのため、インカの人々は「星のない暗闇」の形を様々な動物にたとえていたのだとか。
リャマ、キツネ、ウズラ、カエル…、生活に身近な動物であると同時に、神々とも深く関係する動物たちである。
肉眼で見える星をつないで「星座」としたヨーロッパの人々、それとは対称的に「星のない空間」を楽しんだインカの人々。
「有」を見るも良し、「無」を感じるも興である。
星のない暗闇は「無」なのであろうか?
実は「無」ではなく、「暗黒星雲」という黒い雲がある。インカ人たちが想像した天空の動物たちは、この雲の形なのである。
この雲の正体はといえば、「ガス」である。
夜空の星々はこのガスの海から誕生する。
星々が生まれる以前の「生命の海」が、暗黒星雲ということであり、暗黒星雲は「母なる胎盤」のごとき存在で、夜空に燦(きら)めく星々は、この豊かな土壌で産声を上げるのだ。
人間の寿命からみれば、星の寿命は永遠ともいえる長さであるが、それでも100億年もすれば死に至る(星の寿命はその大きさにより決まる)。ガスから生まれ、最期の爆発をして、またガスに戻るのである。
かつてはインカの土地であった「アタカマ高地」に建設中の天体望遠鏡は、「電波」をとらえる電波望遠鏡である。
目に見える光線は「可視光線」という非常に範囲の狭いものであるが、電波のとらえる範囲はその何万、何十万倍である。
その「よく見える眼」で宇宙をみると、銀河系の96%は星で、暗黒星雲などのガスはたったの4%に過ぎないのだという。
最高精度のプラネタリウム「メガスター」が映し出す夜空のごとく、実際の宇宙は星々でギューギューなのであり、そのスキ間のほうが圧倒的に少ないのだ。
ということは、生死を繰り返す星々の「死の期間」はたったの4%であり、残りの96%は「生の期間」ということになる。死んでから新しい星に生まれ変わるまでの期間は、思った以上に短いということだ。
我々が普通に見る夜空の星は、現実の何万、何十万分の一に過ぎない。
しかも、平面に並んでいるように見える星々には、信じられないほどの奥行きがあり、隣り合って見える星でも、その奥行きでは何万光年と離れていることも珍しくない。
そのため、地球から見れば砂時計のような形のオリオン座も、違う角度から見れば全く違う形になってしまう。
このように、星座というのは総じて「相対的」なものである。
それは、眼に見えるものだけを、見かけの明るさ・形で紡(つむ)いだ結果である。
それに対して、インカ人たちが見た「宇宙の雲」は、ある程度のカタマリであるため、星座よりは「絶対的」なカタチである。
「昼の星は眼に見えぬ
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ(金子みすゞ)」
昼の星は全く見えないが、夜の星でも眼に見えるとは限らない。
というよりも、ほとんど見えていないと言った方が正確である。見えているものですら、それは見かけの明るさなのである。
人間のサイズから見れば、宇宙はスキ間だらけのような気もするが、宇宙のサイズで考えれば、宇宙は星の砂場のごとく星で満たされている。
それは、人間の細胞や原子の間には信じられないほどの空間があるにも関わらず、我々の肉体にスキ間などないと感じているのと一緒のことである。
「無」と思い込んでいた空間には「有」があり、「有」と思い込んでいた空間にも「無」は存在する。
視点のスケール、考え方のスケールによって、「無」は「有」ともなり、「有」は「無」ともなる。
こうした思考法に立脚すれば、物事に「白黒」はつけようがないのであり、「白」の中にも「黒」はあり、「黒」の中にも「白」はある。
視点と考え方を固定すれば、白は白のままかもしれないが、多様な価値観に晒(さら)されれた途端に、白は黒にも容易に変わりうる。
宇宙においても、現実世界においても、世界は我々が思う以上に「動的」なのである。
地球が宇宙の同じ場所に留まることは一秒たりともありえず、時の流れも一秒たりとも溯(さかのぼ)ることはできない。
そんな激しい世界に生きながらも、人間は「静」を感じることができる。
それは、まことに僥倖であり、極めて貴重なことである。
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出典:旅のチカラ
「宇宙の果てを見る 大平貴之 チリ・アタカマ砂漠」