2011年10月15日

三国志における最強の武人「関羽」は、軍神から商売の神となった。その歴史とともに。


「関羽」というのは、中国「三国志」の英傑の一人である。

正史において、その武勇は「萬人之敵(一騎で一万人の敵に値する)」と賞賛されている。

主君である劉備(蜀)に忠節を尽くしたということから、義理・人情の鑑(かがみ)ともいわれる人物である。

一武人であるため、正史における記述は限定的(953文字)であるものの、小説化された「三国志演義」においては、全120章のうち、実に97章に登場するという人気ぶりである。

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宋の時代に関羽は「軍神」の一人になっている。

北方民族の侵入に頭を抱えていた宋は、国威浮揚のために歴史上の英雄23人を軍神にしたのである(劉備、関羽、張飛、諸葛亮など)。

関羽は国家公認の「神」であると同時に、民間からも「信義の神」として熱烈に信仰された。

そして、その民間信仰はいずれ関羽を「商売の神」として敬(うやま)うようになるのである。



歴史上の記述からは、関羽の「商人」としての姿を探しだすのは難しい。

「軍神」ならばすんなりと理解できるものの、なぜ「商人の神さま」に?



諸説あるものの、有力な説の一つには関羽の出身地「山西省」が大きく関わっている。

「山西省」には、巨大な「塩の湖(解池)」が存在し、そこから産出される「塩」を商(あきな)っていた一団がおり、彼らにより関羽が厚く信仰されていたのである。

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日本と違い、中国は広大な内陸部を要する大陸であり、海から遠く隔たった地域において「塩」は何よりも貴重とされる品物であった。

山西省も海からは700km以上離れた内陸の省であるが、塩湖(解池)が大量の塩を産出してくれたため、山西省の塩は中国全土に必要とされた。



そして、その塩の販売を一手に引き受けていたのが「山西商人」だったのである。

「山西商人」の塩のネットワークは中国全土に張り巡らされ、その富はケタ外れのものとなった。最盛期には、中国の塩の7割は山西商人の手によるものであったという。

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その山西商人の信仰していた神が「関羽」である。

山西省における関羽信仰は、元々関羽の子孫による「先祖崇拝」であったのだが、同郷の山西商人がそこに加わることにより、その信仰は中国全土の商人たちに広まった。

なにせ、大成功している山西商人は、商人たちにとっては商売の神様のような存在。その山西商人が信仰している「関羽」に至っては、もう有り難くて有り難くてしょうがない神様である。



山西商人が関羽を信仰していた元々の理由は、商売における「信義」を大切にしていたからだという。前述の通り、関羽は三国志中随一の「義の人」であり、「義絶(義人の極み)」とも称されている。

その義の関羽信仰が商売繁盛とすり替わり、関羽はすっかり「商売上手の神さま」として定着していくのである。



中華において、歴代の王朝が変遷を続けようとも、山西商人の塩のネットワークは不滅であった。

宋が滅び、北方民族の「金」の国が建ち、そして大帝国「元」が成立する。「元」の国土は内陸部へ広大に拡張されたこともあり、この時代に山西商人のネットワークはシルクロードを超えて広がっていったという。

山西商人の大切にしていた「信義」が、その大いなる支えになったのだという。山西商人が約束を違えることは決してなく、キチンキチンとお金を支払うという高い信用があった。

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しかし、不滅と思われていた山西商人の塩のネットワークが、ついに寸断される時がくる。

「アヘン戦争(1840)」だ。

西欧列強の中国侵略とともに、中国に「外国産の塩」が大量に持ち込まれた。その結果、塩の価格破壊が起こり、もはや山西商人の特権は失われることとなるのである。



ところが、塩の専売を失ってなお、山西商人は力を増していた。

高い信用を基に、「金融」取引に地盤を広げていたのである。

最盛期には、「清国」の国家財政の半分を扱っていたとも言われている。山西商人は、ヨーロッパにおけるユダヤ人たちのように、金融のプロフェッショナルとしての地位を確立していたのである。



それでも、時代は容赦ない。

ついに、「清国」は滅亡する(1912)。

さすがの山西商人の金融網も壊滅した。



ところがドッコイ、商人魂は死にはしなかった。

今度は、山西商人は「華僑」として世界に散ったのである。

世界の行く先々で、彼らは信仰の場「関帝廟」をこしらえ、関羽信仰は世界中に広まった。その結果、現在168ヵ国に関帝廟が存在するという。

こうして、関羽は中国の神から、世界の神へとなったのである。

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日本の横浜中華街にある「関帝廟」もその一つである。

この関帝廟は4代目であり、前代のものは火事で焼失している(1986)。

焼失後の再建にあたり、資金調達に苦慮したとも言われる。なぜなら、中国人と台湾人がなかなか連携できなかったからだという。

建前上、中国は一つの国であるが、実際のところ、「中国」と「台湾」は別々の国であり、その確執の根は深いのだ。



なかなか合議がまとまらない中、最後の決め手となったのは「関羽の義」だったという。

「関羽の義」の前には、中国と台湾のいがみ合いは小事に過ぎず、大事のために両者は手を結ぶという決断を下したのだそうだ。



関羽の「義」は、三国志演義に登場する「桃園の誓い」に明確に表されている。

この誓いにおいて、劉備(蜀の皇帝)と関羽、そして張飛が「同年同月同日」に死のうと誓い合うのである。



「血」のつながりはないが、「義」によって結ばれた絆は、その後のあらゆるシーンで試される。

弱小勢力であった劉備軍は、幾度となくチリヂリになる。時には関羽が敵(曹操)の捕虜となってしまうことすらあった。

それでも、彼らは同じ旗の元に集い、最終的には「蜀」という国を建てるに至る。



蜀国最強の武人であった関羽は、三国の国境が交わる最重要拠点の「荊州」の守りを任される。

関羽は三国最強の「魏」に攻め上り、破竹の進撃を開始。魏の曹操が援軍に送った七軍を関羽軍が壊滅させるや、魏国内で反乱の蜂起が相次ぎ、さすがの曹操も都を後退させようとしたのだとか。

しかし、もう一つの敵国・呉に裏をかかれ、退路を失った関羽は非業の死を遂げる。



桃園の誓いをした三人の一人が殺されたことにより、残された劉備と張飛は激昂。

大軍を編成し、仇討ちに打って出る。しかし、悲劇は続く。出陣前に張飛が闇討ちにあってしまうのだ。そして、張飛の仇はまたしても敵国・呉に庇護される。

最後に残された劉備はもはや平静ではいられない。冷静な諸葛亮の反対を押し切ってまで、感情に走り、結局は憎っくき呉に大敗。そして、失意のままに死去。



桃園の誓いに殉じた三人は、のちに神として祀られることとなった。

この3人の中でも、関羽の神格化は凄まじい。



蜀の皇帝からの関羽の諡(おくりな)は、「壮穆侯(そうぼくこう)」というシンプルなものだった。

それが時代が下がるにつれ、歴代皇帝は競うように関羽に諡号を送っている。

「義勇武安王(宋・徽宗皇帝)」

「顕霊義勇武安英済王(元・文宗)」

「三界伏魔大帝神威遠鎮天尊関聖帝君(明・万暦帝)」

「忠義神武霊佑仁勇威顕護国保民精誠綏靖翊賛宣徳関聖大帝(清・順治帝)」

年代を経るごとに名前が長くなるという、国家の崇拝著しい関羽であった。



歴史の荒波に揉まれながらも、関羽の子孫は生きている。

現在、70代目だという。

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中華の歴代皇帝が、熱心に関羽にのめり込んでいくわけだが、関羽信仰の本領は「草の根の民間信仰」にある。

下に優しく上に厳しい関羽は、商人と限らず庶民の味方である。

信じられるものが少なくなりつつある現代においても、関羽ならば裏切らないという想いがあるのかもしれない。



関羽には「民間信仰」であるという強みにより、「宗教」のような堅苦しさと弊害がない。

皆それぞれが自由に関羽を敬っており、時に商売の神ともなれば、ソロバンの神ともなっている。

民衆の「心の拠(よ)り所」とされる関羽は、信仰の本質的な姿の素直な表れなのかもしれない。



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出典:BS歴史館 シリーズ 
“三国志”時代を超えた男の魅力(2)
 こんな男に守られたい!〜関羽・神になった“絆”の英雄
posted by 四代目 at 08:28| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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