2011年10月08日

「曹操」は大悪人か?大英雄か? 時代が彼を評価する時、その時代は変わろうとしている。


今から1,800年前、古代中国に「曹操(155〜220)」という人物が登場する。

世に言う「三国志」の英雄の一人である。

具体的には中華北方に「魏」という国を建国し、三国随一の勢力を誇った。

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映画の題材などに格好とされる「赤壁の戦い(208)」は、珍しくも曹操が大敗する戦である(映画「レッド・クリフ」)。





三国志というストーリーを世界中に広めたのは、「三国志演義(羅貫中)」という小説によるところが多大である。

この小説の中では、曹操は「徹底した悪役」として描かれていることもあって、「曹操 = 極悪」という一般常識まで醸成することとなった。



なぜなら、三国志演義においては、劉備(蜀の建国者)が「善の象徴」とされているため、その「対立軸」として、曹操はことさら「悪」の部分が強調されているのである。

劉備はじめ、天才軍師の「諸葛亮」、武人の鑑「関羽」などが、後の世において「神」とされていくことに反比例するように、敵役の曹操はますます悪の度合いを深めていくのである。

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なぜ、小説・三国志演義で曹操が悪者にされたのか?

それは、この小説が三国時代の1,000年も後に書かれたことに理由がある。



曹操が魏の国を建てた中華北方は、異民族の侵入の激しい地域である。

「宋」の時代には、北方を異民族である女真族に占領され、「金」という国を作られてしまう。そして、宋は南へと逃れ「南宋」となる。



「南宋」にとっては、北方の「金」は憎っくき敵である。

その「金」が曹操に敬意を払っていると知るや、「南宋」では曹操を徹底して嫌うようになる。その反動として、南宋の領土ともなっている「蜀の劉備」に絶大な人気が集まるのである。

中国の正統な王朝は、三国の中でも「魏」とされていたのだが、反曹操の機運の上昇、そして朱子学という流派の台頭により、「蜀」を正統とする説が支持者を集める。



何より中原(中華の中央)を「金」に乗っ取られてしまった「南宋」の人々にとって、劉備の死後に中原の回復を悲願としていた「諸葛亮」に、自身の不遇が重なる。その結果、ますます「蜀」に感情移入していくのである。

こうして、魏の曹操は「侵略者の象徴」となり、蜀の劉備は「愛国者の心の支え」となるのである。

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小説・三国志演義はそうした国民感情の上に成り立っていることを考慮しなければならない。

この作品は「明」の時代に書かれたとはいえ、その前時代(南宋〜元)に書かれた「三国志平話」において、曹操悪者説はすでに一般通念となっているのである。



ところが、小説ではない「正史・三国志(陳寿)」を紐解けば、曹操は最大の評価を受けている。

「超世の傑」、時代を超えた英雄という意味である。

同時に、「非常の人」ともある。彼は良くも悪くも時代を超えた「型にはまらぬ人物」であったようだ。そのため、その評価は時代によって、極悪人にされることもあれば、その正反対の英雄として崇められることもあるのである。



曹操の生きた時代は、400年続いた「漢」という王朝がまさに滅びんとしていた時だった。

王朝が傾くには然るべき理由がある。400年も続くと、それなりの膿(うみ)も抱え込んでしまうのだ。



衰退の原因の一つに「賄賂(わいろ)」の横行があった。

高い官職をお金で買うのである。そのお金はどこから来るかといえば、民の税金である。賄賂が盛んになるほどに民の負担は重くなった。

その負担に耐え切れない民は土地を捨てるしかない。漢の最盛期には6,000万人に迫る人口がいたというが、最小期で2,000万人、3分の1に減っていたという。

戸籍の人口が減るということは、民が死ぬことだけを意味しない。国の管轄外の豪族のもとに流れていくことも多いのだ。



こうして、中央の力は低下し、地方の豪族は力をつけていくことになった。

漢という王朝は「寛治」と呼ばれる比較的ユルい統治制度の元にあった。そのため、賄賂の横行を止めることもできず、民の離散を防ぐこともままならなかったという。

こうして、地方の群雄は割拠し、あの三国志の英雄たちが飛翔する素地が整っていったのである。



小説・三国志演義では、曹操は「漢の逆賊」ということになるが、実際の行動を追っていくと、むしろ「漢の忠臣」という姿も見えてくる。

最初の大規模な反乱である「黄巾の乱(189)」においては、曹操はその乱を鎮圧するのに大きな功績を上げている。つまり漢帝国を必死で守っているのである。

それに次ぐ暴君・董卓に対しても、董卓打倒のために「散家財、合義兵(私財をなげうって、義の兵を募った)」とある。やはり、漢帝国の側に立っている。

ちなみに、曹操は董卓打倒に敗れ、九死に一生を得るところまで追い込まれている。しかし、敗れはしたものの、曹操の果敢な志は後の建国の礎となる優秀な人材を多く招くことともなった。



小さいながらも地盤を持つに至った曹操。

不遇な扱いを受けていた「漢の皇帝」を庇護下に置く。

この辺りの事情は、「漢帝国を私物化した」などの悪評も多い。確かに、皇帝を手中に収めたことによって、曹操の存在はひときわ抜きん出ることとなった。

政治的には、最も小さな力で最大の効果を得たことになる。



しかし、曹操は死ぬまで皇帝の地位を略奪することはなかった。

漢では最高の権力をもつ「魏王(216)」の地位にまで登り詰めるも、結局は皇帝にはなっていない。あくまで「漢の臣」として一生を終えている。

「文王たれば良い」というのが曹操の言葉である。「文王」というのは殷の重臣であり、皇帝に取って代わる権勢を持ちながらも、最後まで殷に臣従した人物である。



皮肉なことに、漢の忠臣を旗頭にしていた蜀の「劉備」は皇帝の位につくのである。

漢の逆賊とされる曹操が帝位につかず、漢の忠臣であるはずの劉備が帝位につくというのは、漢の立場から見れば善悪が完全に逆転してしまうことになる。

「劉備 = 正義」の観点では、この辺りの解釈は非常に苦しいものがある。そして生まれるのが、朱子学が推し進めた「蜀正統説」ということになる。



しかし、どちらが正統であろうが、三国の中で「魏」の国力がずば抜けていたことは、紛れもない事実である。

それは曹操の類マレな政治・経済の才能が遺憾なく発揮された結果である。



漢帝国衰亡の一因は民衆の流散であった。

曹操は「屯田」という制度により、その流散した民を自領に糾合する。

曹操は、行き場を失った民に牛や農具を無償で提供し、灌漑設備まで整えて耕作を推進した。紛争地帯であれば、兵をもって民の耕作を守ってやったりもしている。



民にとっては、漢の元で重い税に苦しむよりも、曹操の元で安全に耕作できるほうがよほどに安泰である。

曹操の支配下には多くの民が集まり、その収穫によって国力はいよいよ高まった。

曹操の始めた「屯田制」は、隋・唐の時代には「均田法」、日本に伝わり「班田収授法」となり、時代と空間を超えて後の世に伝わることとなる。



漢の悪癖の一つに「縁故主義」というのもあった。

家の出自が良いほどに高い官職につけるのである。これは曹操の「合理的」な性格には、全く受け入れがたい慣習である。

曹操の定めた「求賢令(210)」においては、「唯才是挙」、家柄や人柄に関係なく、才能がある人物を登用することを宣言している。

現代では当たり前のことだが、当時としては全くの異端。儒学者たちは猛反発する。対する曹操は、儒家の「孔融(孔子の子孫)」を処刑するという苛烈さであった(こうした措置は、曹操悪人説を助長することとなる)。



魏の国では、「屯田制」によって多くの税収が上がり、「求賢令」によって優秀な人材が集うこととなる。

一方、蜀の国では漢帝国を踏襲するあまり、漢の悪癖も残り、宦官の横行という漢帝国と同じ衰亡の道をたどることとなる。



感情を抜きにして歴史を俯瞰すれば、曹操の才は際立つばかりである。

曹操再評価の気運は、三国志演義の悪評を超えて世に広まることとなる。魯迅、毛沢東などは熱烈な曹操支持者である。

そもそも、1,800年前の人物がこれほど現代に知られている事実は驚嘆すべきである。



近年、曹操の墓とおぼしき遺跡が発見される(2009)。

漢帝国の伝統にのっとった陵墓は、じつに質素で金銀の類は全く見つからなかった。金銀の替わりにあったのは、「机や墨、琴」などの風流なものばかり。

曹操は詩人としても名高く、「槊(槍)を横たえて詩を賦す」とも言われたほどである。兵書「孫子」を現在残る13篇に編纂したのも曹操である。

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曹操の遺言にはこうあった。

「遺体は平服に包み、金銀珍宝を納めるな。土盛りも植樹も不要である。」

発掘された墓は、曹操の遺言そのままの簡素さであった。



この墓の様に曹操の思想はよく現れている。

彼の改革は根本的な患部にメスを入れ続け、徹底して筋肉質でシンプルな国体を創り上げたのだ。

改革につきものの批判や悪評には、およそ気にも止めなかったようである。



曹操が漢を滅ぼしたわけではなかろう。

漢が長年抱えていたガンの増殖・転移は防ぎようもなく、漢は漢のままでは滅びる運命にあったとも言える。

むしろ、曹操にとっては漢が残ろうが滅びようがあまり関心がなかったのかもしれない。その点では、曹操は逆賊でもなければ、忠臣でもないような気がする。



漢の衰亡で、最も苦しんでいたのは民衆である。耐え切れないほどの重税に耐え続けるか、土地を追われるかである。

曹操は、そうした民にとってまさに救世主であった。世界的に評価の高い「屯田制」が多くの民を救ったのである。



曹操が「魏王」の地位についた時、高官や儒者たちは喧々諤々、賛否両論渦巻いたというが、不思議と民衆が反発することはなかったという。

民にとっては、自分たちを守ってくれる実力者が権力を握ることは、むしろ都合の良いことであったのである。



時の権力者や有力者にとって、曹操ほど嫌な存在もなかっただろう。

改革というのは、その上でアグラをかいている人々にとっては、まことに都合の悪い出来事なのである。



曹操の眼には、本質しか見えていなかったのだろうか?

彼の苛烈とも言える決断と行動は、恐ろしくシンプルな信念に根差している。

曹操が権力を追い求めたと見ることには不自然さを感じる。曹操の生き様は「自身の信念の現実化」と捉えるほうが、より自然である。



彼は元々貧しい出ではない。彼の祖父・曹騰は数十億円で漢の最高位である「太尉」の位を買っているほどである(批判も多かろうが、漢末期はそういう時代であったのだ)。

曹操にとっては、名誉や金銀よりも重視するものがあったことは、その簡素な墓が何よりも雄弁に物語っている。



曹操が再評価されるのは、決まって「時代が窮した時」である。

現代社会は窮しているのであろうか?

いつになく、曹操は英雄の名を高めることとなっている。

時代は変わろうとしているのかもしれない。




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出典:BS歴史館 シリーズ 
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posted by 四代目 at 09:42| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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