2011年10月07日

ロシアが日本を襲った「露寇事件」。この事件が幕末の動乱、引いては北方領土問題の禍根となっていた。


モンゴル帝国が日本を襲ったのが「元寇」。

そして、ロシアが襲ってきたのが「露寇」。

日露戦争(1904)に先立つこと100年前、北海道の各地がロシアに襲撃される事件が相次ぐ。これらを称して「露寇事件(1800年代初頭)」という。



時は江戸に文化・文政年間の「化政文化」という町人文化が花開いていた頃。

ロシア特使「ニコライ・レザノフ」という人物が、日本との通商を求めて「長崎」を訪れる(1804)。

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レザノフはロシアの外交官であると同時に、米露会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)の経営者でもあった。

米露会社はロシア皇帝の勅許をえた国策会社(利益の3分の1は皇帝のもの)であり、アメリカのアラスカを植民地として交易を行なっていた(毛皮など)。

この米露会社の泣き所は「食糧」。北方における食糧確保は困難を極めていたため、レザノフは日本との通商により食糧調達を試みようとしたのである。



長崎に現れたレザノフとの交渉を担当したのは老中「土井利厚」。

対応に苦慮した土井は、儒家「林述斎」に意見を求めた。

すると述斎、「ロシアとの通商は『祖国の法』に反するため、拒絶すべきである」という強硬な態度を示す。ちなみに、この林述斎は、のちにアメリカの黒船・ペリーが来航した際に対応した「林復斎」の父である。



土井もさもありなんと、「ロシアが武力を行使しても、日本の武士はいささかも後(おく)れをとらない」と主張し、結局、レザノフの要求を拒絶することになる。

この間、レザノフは半年もの間、長崎で返答待ちをしていた。その結果が「No」と知らされるや、落胆よりも怒りが先行したという。

そして、この交渉の決裂が、北海道各地で頻発する「露寇事件」へと発展することになる。



余談ではあるが、日本で「鎖国」という言葉が用いられるようになったのは、このレザノフを拒絶した以降とのことであるという。

それ以前の日本には「鎖国」という感覚は薄かったようだ。

交易の相手国を「中国・オランダ」に限定し、その交易地も「長崎」のみとしていたが、それは幕府が交易の全てを管理下に置くためであった。



長崎以外にも、対馬口・薩摩口・蝦夷口という外国への窓口があり、それぞれ対馬藩・薩摩藩・松前藩が交易を担っていた。

これら各藩には当然「幕府による制限」が課されていたわけだが、「抜け荷」と呼ばれる密貿易は盛んに行われていたのだという。

さらには、幕府の許可を受けたこれら3藩のみならず、海に面する諸藩による「密貿易」は取り締まり切れるものではなかった。



「鎖国」という言葉が歴史に記されるのは、志筑忠雄の「鎖国論(1801)」という書物からである。

この書は、ドイツ人医師「ケンペル」が日本の国情を記した「日本誌」の一部を訳出したものであり、この本文中の語を志筑忠雄は「鎖国」という新造語で対応したのだ。

なお、幕府が「鎖国」という語を用いるのは1853年、アメリカのペリーが来航した年からである。この「鎖国」という言葉が一般に普及するのは明治時代以降とのことである。



一般的に「鎖国」は江戸時代の象徴とされているものの、実際には他国からの侵略を受けてはじめて明確に意識されるようになった概念だったのかもしれない。

先述の通り、交易に関しては割りとルーズな面があったのである。

しかし、国防がかかれば、そうも言っていられない。侵略者に日本の国威を示さなければならないのだ。



ところが、太平の江戸時代を謳歌していた日本は、どうにも国を守る覇気に欠けていた。

レザノフの命令で襲撃された「択捉(えとろふ)島」(北方領土)では、当地を守っていた函館奉行は一向に応戦しようとせず(腰を抜かしていたとも)、ロシアは散々に島内を荒らし回った記録が残る。

「ロシア人が上陸した時、警護の者どもは鉄砲をかついで皆山中へ逃げ、姿を消してしまったのである(私残記)」

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択捉島のみならず、樺太(当時は日本領)、礼文島、利尻島、そして周辺海域の日本商船などが次々とロシアの襲撃を受ける。



ここに来て、ようやく危機感を強めた江戸幕府は、東北諸藩(南部・津軽・仙台・会津)に出兵を命じ、非常時には秋田・富山両藩の出兵をも念頭に入れていた。

幕府の防備は固いとは言えなかったものの、以後は小競り合いが続くのみで、大きな争いには発展しなかった。



というのも、強硬だったレザノフが病死したことが大きかった。

レザノフは非常に好戦的な人物で、日本のみならず、北アメリカ大陸での戦闘の記録も多い。

アラスカでは原住民トリンギット族と戦争し(シトカの戦い・1804)、一万年もの間アラスカを支配していたトリンギット族を完全に駆逐した。

ちなみにトリンギット族はロシア人を「コロシ(殺し?)」と呼んでいたそうだ(日本語との関連は不明)。



当時スペイン領であったカルフォルニアにもレザノフは足を伸ばしている。

最初は、食糧調達を目的とした友好的な交易を結びたいと願ったようだが、スペインの法律では植民地での外国との交易を禁じていた。

そのためスペイン人官僚たちは、賄賂にも買収にも応じず交渉は不調に終わる。

残されたレザノフの書簡からは、カルフォルニアを併合し、大量の移民を送り込んだ上で、北米大陸を植民地化する意図が記されている。



レザノフの死は、日本にとっても、アメリカにとっても朗報であったのかもしれない。

レザノフの死後、ロシアの日本侵略は下火となり、アラスカでさえもアメリカに売却せざるを得ないほどに勢いを失う。

彼の寿命が長ければ、日本の歴史もアメリカの歴史も違うものになっていた可能性がある。享年42歳。若すぎる死であった。



幸い「露寇事件」は、歴史の山に埋もれることとなった。

それでも、当時の衝撃は幕府を動揺させ、国論は「開国」、「攘夷」に二分されたのだという。この点で、幕末の動乱は「露寇事件」の時に萌芽したと捉えることもできる。

地味ながらもズシリと下腹部に響く事件であったのだ。



ロシアと日本が初めて争ったのもこの「露寇事件」である。

以後、日露戦争(1904)、第二次世界大戦へと続き、現在の北方領土のゴタゴタに至るわけである。

レザノフが開いた戦端は、ある意味まだ閉じられてはいないのである。



レザノフが急襲した地が北方領土の「択捉(えとろふ)島」であったというのも奇縁なことだ。

200年以上に及ぶ「ロシアと日本の因縁」はいまだ終わりそうもない。

これは境を接する国家同士の宿命とも言えるものであろう。




「幕末」関連記事:
江戸の日本を開いた男たち。林復斎と岩瀬忠震。そのアッパレな外交態度。

江戸の心を明治の心に変えた「ジョン万次郎」。彼の結んだ「奇縁」が時代を大きく動かした。


出典:さかのぼり日本史
江戸“天下泰平”の礎 第1回「“鎖国”が守った繁栄」


posted by 四代目 at 06:46| Comment(8) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ロシア人が 皮 ミンク 皮の 商売しているの は 昔から 知っております。
長崎で 通商 交易交渉 . 6ヵ月 。 通商 不成立。
ロシア人 怒るのも、最も。 外交 失政ですね。
Posted by 武村祐二 at 2011年10月16日 07:00
前略 露日米 外交は,友好 適切に しないと 大変だ。
Posted by 武村祐二 at 2011年10月16日 07:15
ロシアだけは、殺しても飽きたらねーよ。
絶対に許せねえ!
Posted by とおりすがり at 2011年10月25日 13:47
>ニコライ=ペトローヴィッチ=レザノフ
Wikiでは「1807年にクラスノヤルスクで病死」とあるけど、どっちが正しいのかな?!
Posted by at 2012年01月17日 15:12
まあ、「露寇事件」は頂けないが、この時代欧洲列強は、植民地
分捕り合戦真っ最中。最たるものが、アヘン戦争で中国を屈服させ、
植民地状態に置いた大英帝国かと、まさしく恫喝・砲艦・武力外交
それに比べたら、ロシアや米国はまだマシだったかも。

因みに、1808年に、英国軍艦がオランダ国旗を掲げて長崎湾に
侵入し、オランダ商館員を人質に取り、薪水・食料を強奪していく
と言う事件があった。→【 フェートン号事件 】
長崎奉行、松平康英 及び鍋島藩家老は責任をとって切腹。

「 露寇事件 」や「 フェートン号事件 」があり、幕府は
「 異国船打ち払い 」を発令し1837年、交易を求めて江戸湾に
進入して来た、米国商船モリソン号を問答無用で砲撃し同船は引き返した。

しかし、モリソン号には日本人漂流民を送り届ける目的もあったため
高野長英、渡辺崋山ら開明派の洋学者グループは、この幕府の
態度をきびしく批判。これに対し幕府は、1839年、彼らを
逮捕するなどの弾圧を加えた → 【 蛮社の獄 】

「 露寇事件 」 を原点から振り返ってみる。

1792年、ロシアで保護されていた日本人漂流民、大黒屋光太夫
らをアダム・ラクスマンが根室に送り届けたが、その際ロシアの
公文書を江戸の将軍に差し出したいと申し出た。
江戸では幕府老中首座、松平定信が協議を行い、結局、ラスクマン
は、すぐの交易は拒否され取りあえず長崎に行ってみよ、と、長崎
への入港証が渡された。

1804年 ロシアのレザノフ がロシアで保護されていた日本人
遭難者津太夫(つだゆう) らを伴って長崎に渡来。交易を求めたが、
半年間! 待たされた挙げ句、交易は拒否され、入港証も没収され
二度と来るなと命じられた。日本側のあまりに非礼な対応に
激怒するも一旦ロシアに帰還。
幕府内の攘夷派は、意地悪く追い返せば二度と来なくなるだろうと、
高をくくっていた。

これでは、仮にロシアでなく米国だったとしてもタダでは済まされない
だろう。ましてや世界帝国、英国相手だったら激怒して意地でも
日本植民地化を急いだだろう。
実際、英国はその後アヘン戦争で中国(清)を屈服させた。

因みにレザノフは、ロシアで日本人漂流民相手に日本語を学び、
長崎の下っ端役人とは日本語で親しく会話していた。

結局、長崎を引き上げたレザノフは、もはや日本を開国させるには
武力によるしかないと部下に命じて日本の北方4カ所で、
小規模な報復懲罰攻撃を行った。

また露寇事件は、ロシア皇帝の命令で行われたものではなく、
現場が勝手にやった事としてその後の互いの捕虜交換
( ゴローニンと高田屋嘉兵衛 )で、1813年 国後・箱館での
ロシア船長リコルドによる謝罪で、日露和平が実現し、
1854年、日露和親条約が締結された。
1858年には、日露修好通商条約も締結された。
因みにゴローニンは日本拘留中、樺太探検で知られる
幕府の間宮林蔵らにロシア語を教授した。
Posted by at 2017年06月26日 13:37
★ 2017年06月26日の分、一部訂正
1854年、日露和親条約が締結された。X
1855年、日露和親条約が締結された。に訂正

1858年には、日露修好通商条約も締結された。X
1858年には、日露修好通商条約も調印された。に訂正

ロシアのラクスマンに対する対応は、全て江戸の老中首座
松平定信からの方針・指示のもとにおこなわれた。

ラクスマンは、日本人遭難者を送り届けてくれた大義名分もあり、
邪険にも出来なかった。ゆるゆると(のんべんだらりと)
問題の先延ばしで切り抜けることにした。
しかし、この優柔不断さが後に禍根を残すこととなった。

ラクスマンは日本を去り、松平定信も失脚。

その11年後、レザノフが日本人漂流民、津太夫を伴いラクスマンが
受けとった長崎入港証と共に長崎に来航した。

ところで、「露寇事件」が小規模ですぐに収束したのは、レザノフの
死ではなく、そもそもレザノフ自身がロシア皇帝の勅許を得ておらず
レザノフ自身によって皇帝への上奏、部下への命令を撤回したから。

Wikipedia によると
またロシア皇帝も不快感を示し、1808年全軍に撤退を命令した。

そもそも、日本征服がロシア皇帝の明確な意志だったのなら
レザノフが死のうが、司令官が替わるだけの話だろう。
その点でフビライ・ハーンの意志による元寇とは完全に違う。


その後のペリーの浦賀来貢までの、約半世紀というもの
日本列島の周りは虎視眈々と権益を伺う異国船、捕鯨船だらけ。

当然、多数のトラブルや事件も起きた。
「露寇事件」後も、フェートン号事件・モリソン号事件、その他多数。
ラゴダ号事件ではせっかく助けた乗員同士の殺人事件まで起きた。
にもかかわらず教科書等で、この間の表記が少ないのは何故か?

明治以降の歴史教育というものが勝てば官軍でとりわけ長州閥に
よって都合良く書かれ、都合良く隠蔽されて来たから、
それを未だに引きずっている。
「露寇事件」こそ天下太平の眠りを覚ます、歴史の転換点だったが。

天下太平の眠りを覚ます、ペリーの黒船来航、腰を抜かした幕府は
ペリーの威圧に屈し、開国へと総崩れ、そして崩壊、輝かしい文明
開化の明治が始まった、と言うストーリーにしておきたかった。

そうした歪みから、ウソだらけの『 咸臨丸神話 』 も生まれた。
http://tozenzi.cside.com/oguri.htm

「明治政府の近代化政策は小栗忠順の模倣にすぎない」 大隈重信

幕府中枢は米国艦隊来航情報を、事前に掴んでいたし、司令官が
ペリーである事も知っていた。

日本が植民地化を免れたのは、ペリーやハリスを相手の交渉で
死力を尽くした幕府側全権、林大学頭復斎や岩瀬忠震のおかげと
言っても良い位。結果、ペリーやハリスは日本・日本人を高く評価
してくれた。

1863年 【 イギリス公使館焼打事件 】 隊長:高杉晋作、
火付け役:伊藤博文

日本人に攘夷の不可能を思い知らすため「文明国」の武力を示す
必要を感じた、英国公使オールコックは長州藩への懲罰攻撃を
決意した。
Posted by at 2017年06月27日 08:35
海で遭難し、ロシアに渡り、イルクーツクで落ち着いた大黒屋光太夫
仲間達のある者は、現地の女性と結婚し、日本語教室の教師となり
帰国を諦めるなかで、スウェーデン系フィンランド出身の博物学者
エリク・ラクスマンとの出会いがその後の光太夫の人生を変えた。

通信手段も交通手段も、今日の様に発展していなかった時代
漂流者を日本まで送り届けるのは容易な事ではなかった。
ましてや当時の日本は鎖国体制下にあり、外国に出た日本人でさえ
帰国は許されていなかった。

アメリカ船に救助されたジョン万次郎の仲間も、ハワイで降ろされ
仲間達が帰国を諦めるなかで万次郎は船長に見込まれ米本土まで
連れて行かれ、懸命に努力し、自分で金を稼ぎ、自分で船を手配し
日本本土ではなく、当時一応独立国家だった琉球から上陸した。

1年半に渡る取り調べ、結局、故郷の母に会えたのは漂流から
11年も経っての事だった。

またロシア船が日本人遭難者の送還に際し、交易を求めるのは
姑息であるとか戦略であるとかの意見も一部にあるが、前述の様に
送還が手間暇カネが掛かる簡単な事ではない以上、非難される事
でもないだろう、実際、1837年、米国商船モリソン号も
日本人遭難者送還目的で同時に交易を求めて江戸湾に進入したが
幕府側の砲撃で追い返された。


さて、大黒屋光太夫は、エリク・ラクスマンの計らいで、首都の
サンクトペテルブルクに赴き、ロシア女帝、エカチェリーナ2世
( 因みに彼女はドイツ出身 ) に帰国を直訴する事になり
苦労の末、エカチェリーナ2世と謁見し、帰国を嘆願し、同情した
エカチェリーナ2世は帰国を許し、光太夫はエリク・ラクスマンの
息子、アダム・ラクスマンの船で根室への帰還を果たした。

なお、大黒屋光太夫の波瀾万丈物語はその後、緒形拳主演で
映画化もされ、テレビでも放映され、ゴルバチョフソ連大統領
訪日の際にも話題になった。


アダム・ラクスマンは、1792年10月20日に根室に到着したが
結局、交易を拒否され長崎への入港証が渡され、交渉場所の松前
を離れたのが、翌年の1793年6月30日、7月16日に箱館を出港、
とりあえず帰国した。

その後のレザノフの長崎での6ヶ月間待ちぼうけといい
これが英仏米だったらこんなに待てただろうか?


「露寇事件」は、ロシア側では、実行指揮者、フヴォストフの名を
取り、フヴォストフ事件と呼ばれるが、命じたレザノフは命令を撤回
しており、なぜか撤回命令が現場に伝わらず、フヴォストフは日本
劫掠を実行してしまった。ロシア皇帝も不快感を示し、1808年
全軍に撤退を命令し、フヴォストフは処罰された。

ロシア側にとっては、既に終わった話だったが
幕府は報復として、ロシア船ディアナ号艦長ゴローニンを国後島で
捕縛し捕虜として連行、そのまた報復でロシア側は日本船を拿捕し、
高田屋嘉兵衛らを拘束連行、ゴローニン艦長の奪還を目指した。

ロシアに連行された高田屋嘉兵衛は、世話役の少年を通じてロシア
語を習得し、ディアナ号副艦長、リコルドに理由をただし、自分が
ゴローニン艦長捕縛の報復として捕らえられた事を知る。

そこで嘉兵衛は、「露寇事件」がロシア政府とは関係なく
フヴォストフらが勝手にやった事と釈明すれば、ゴローニン艦長は
釈放されるであろうと持ちかけ、リコルドも受け入れ、リコルドは
高田屋嘉兵衛らを連れて国後及び箱館への来航。

幕府にとっても、メンツを保ちつつ、ロシアとのこれ以上の衝突を
避けられると、渡りに船でこれを受け入れ、捕虜交換
日露和平が実現した。


その後米国のペリーは艦隊を引き連れ禁制の江戸湾に強引に進入
「条約の締結が受け入れられない場合、戦争になるかも知れない
当方は近海に軍艦を50隻待たせてあり、カリフォルニアには
更に50隻を用意している、これら100隻は20日間で到着する」
と言い放ち祝砲と称して空砲を数十発ぶっ放し、日本側を恫喝した。

ペリー艦隊の陰に隠れ、あまり知られていないが、同じ頃ロシアの
プチャーチン艦隊も、日本に開国・交易を求めて来航している。
プチャーチンはロシア皇帝から、あくまでも平和的に交渉せよ、と
命じられていたため、最初長崎に来航し、たらい回しの末下田への
回航を指示され、更に下田での交渉が始まった。

ところが下田で、安政東海地震が発生し、ロシア船も被災するなか
プチャーチン一行は日本側をも救助し、幕府に好感を持たれ、
幕府は代船の建造を許可した。戸田村(へだむら、現沼津市)で
代船が日本の船大工の協力も得て完成し、ヘダ号と命名された。

中断されていた外交交渉も再開され、1855年2月7日
日露和親条約が締結された。
1858年には、日露修好通商条約も結ばれた。


しかしながら、1861年2月、ロシアのビリリョフ率いる軍艦
ポサドニック号が対馬に無断滞泊し付近の永久租借権を要求した。
英国の対馬占領の野心を牽制するためだったが、幕府は外国奉行
小栗忠順を派遣して撤退を求めたが動かず、英国公使オールコック
の協力申し出により英軍艦が派遣され威嚇、
ビリリョフに厳重抗議した。しかしオールコックもまた、
実は対馬占領を英国政府に上奏していた。

また、ビリリョフの行動は、ロシア政府が認めたものではなく
ロシア領事ゴシケヴィチは、外国奉行、村垣範正の退去要請もあり
軍艦ヲフルチニックを対馬に急派し、ビリリョフを説得、
1861年9月19日(文久元年8月15日)ポサドニック号は
対馬から退去した。


1881年( 明治14年 )プチャーチンには、日露友好に
貢献した功績によって、日本政府から勲一等旭日章が贈られた。
Posted by at 2017年07月07日 17:17
幕末外交史にちょっと興味を持って、調べていて辿り着きましたが…

>幕府の防備は固いとは言えなかったものの、以後は小競り合いが
>続くのみで、大きな争いには発展しなかった。

>以後は小競り合いが…

小競り合い?、どこでどの様な?、しかもレザノフの死で収まった?
「露寇事件」自体が本格戦でもなかったが
犠牲者はむしろ来るはずもないロシア船防備のため、東北諸藩から
出兵させられ越冬に耐えられず病死した者の方が遙かに多かった。

ページを立ち上げた筆者が、最後に「斜体」で、ささやかに示した
出典としている、NHKの番組であることすら明記されていない
( 画像もそこからの借用のようだし )
NHK ETV さかのぼり日本史、江戸“天下泰平”の礎 
第1回「“鎖国”が守った繁栄」、をチェックしてみても…

『 一方、ロシアの事情にも変化が生じていました
この頃、蝦夷地襲撃の首謀者達は、皇帝の許可なく独断で行動した
として、身柄を拘束されていたのです。
ロシア船が再び日本を攻撃することはありませんでした。』

と、ナレーションが流されていましたが…


別のNHKの番組、BS歴史館 シリーズ・外圧(2) 
衝撃!もうひとつの“黒船“、の中でも

江戸後期対外関係史の第一人者とされる
東京大学名誉教授、藤田覚氏も

『 レザノフが日本の施設を攻撃しろ、と言う命令を既に撤回して
るんですよね、だからロシアの軍艦が来るはずがなかった 』

と、述べられていましたが…


結局、レザノフの撤回命令が、現場のフヴォストフに伝わらないまま
フヴォストフ達がやってしまった、と言うのが真相の様ですな。


ついでに

>対応に苦慮した土井は儒家「林述斎」に意見を求めた。すると述斎、
>「ロシアとの通商は『祖国の法』に反するため、拒絶すべきである」
>という強硬な態度を示す。

これでは林述斎が強硬派で、土井利厚が追随したかの様ですが…

日本人送還の恩義もあり共に交易を認めない点では一致したものの

・儒学者 林述斎 それでも丁重に扱うべし
・老中 土井利厚 丁重に扱うから来るんだ 取りつく島を与えるな
          相手を立腹させれば二度と来なくなるだろう
 ( 大内内文書 林述斎書簡 )
         
と、番組では紹介されていましたが…

また、『祖国の法』と言うより、『祖宗の法』かと。


まあ、北米にせよ南米にせよ、白人入植者が先住民を追い立てて
領土を広げていった歴史だが、更には入植者同士で米西戦争あり、
米墨戦争あり、米合衆国内部でさえ南北戦争あり、オーストラリアの
タスマニアでは先住民絶滅計画に基づき先住民は絶滅させられた。

別にロシアやレザノフを擁護する訳でもないが、歴史は感情論より
まずは史実を正確に掌握するのが肝要かと。
未だに『咸臨丸神話』が、まかり通るとは…
http://tozenzi.cside.com/kanrinmaru-byou.htm
Posted by at 2017年07月14日 17:44
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