モンゴル帝国が日本を襲ったのが「元寇」。
そして、ロシアが襲ってきたのが「露寇」。
日露戦争(1904)に先立つこと100年前、北海道の各地がロシアに襲撃される事件が相次ぐ。これらを称して「露寇事件(1800年代初頭)」という。
時は江戸に文化・文政年間の「化政文化」という町人文化が花開いていた頃。
ロシア特使「ニコライ・レザノフ」という人物が、日本との通商を求めて「長崎」を訪れる(1804)。

レザノフはロシアの外交官であると同時に、米露会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)の経営者でもあった。
米露会社はロシア皇帝の勅許をえた国策会社(利益の3分の1は皇帝のもの)であり、アメリカのアラスカを植民地として交易を行なっていた(毛皮など)。
この米露会社の泣き所は「食糧」。北方における食糧確保は困難を極めていたため、レザノフは日本との通商により食糧調達を試みようとしたのである。
長崎に現れたレザノフとの交渉を担当したのは老中「土井利厚」。
対応に苦慮した土井は、儒家「林述斎」に意見を求めた。
すると述斎、「ロシアとの通商は『祖国の法』に反するため、拒絶すべきである」という強硬な態度を示す。ちなみに、この林述斎は、のちにアメリカの黒船・ペリーが来航した際に対応した「林復斎」の父である。
土井もさもありなんと、「ロシアが武力を行使しても、日本の武士はいささかも後(おく)れをとらない」と主張し、結局、レザノフの要求を拒絶することになる。
この間、レザノフは半年もの間、長崎で返答待ちをしていた。その結果が「No」と知らされるや、落胆よりも怒りが先行したという。
そして、この交渉の決裂が、北海道各地で頻発する「露寇事件」へと発展することになる。
余談ではあるが、日本で「鎖国」という言葉が用いられるようになったのは、このレザノフを拒絶した以降とのことであるという。
それ以前の日本には「鎖国」という感覚は薄かったようだ。
交易の相手国を「中国・オランダ」に限定し、その交易地も「長崎」のみとしていたが、それは幕府が交易の全てを管理下に置くためであった。
長崎以外にも、対馬口・薩摩口・蝦夷口という外国への窓口があり、それぞれ対馬藩・薩摩藩・松前藩が交易を担っていた。
これら各藩には当然「幕府による制限」が課されていたわけだが、「抜け荷」と呼ばれる密貿易は盛んに行われていたのだという。
さらには、幕府の許可を受けたこれら3藩のみならず、海に面する諸藩による「密貿易」は取り締まり切れるものではなかった。
「鎖国」という言葉が歴史に記されるのは、志筑忠雄の「鎖国論(1801)」という書物からである。
この書は、ドイツ人医師「ケンペル」が日本の国情を記した「日本誌」の一部を訳出したものであり、この本文中の語を志筑忠雄は「鎖国」という新造語で対応したのだ。
なお、幕府が「鎖国」という語を用いるのは1853年、アメリカのペリーが来航した年からである。この「鎖国」という言葉が一般に普及するのは明治時代以降とのことである。
一般的に「鎖国」は江戸時代の象徴とされているものの、実際には他国からの侵略を受けてはじめて明確に意識されるようになった概念だったのかもしれない。
先述の通り、交易に関しては割りとルーズな面があったのである。
しかし、国防がかかれば、そうも言っていられない。侵略者に日本の国威を示さなければならないのだ。
ところが、太平の江戸時代を謳歌していた日本は、どうにも国を守る覇気に欠けていた。
レザノフの命令で襲撃された「択捉(えとろふ)島」(北方領土)では、当地を守っていた函館奉行は一向に応戦しようとせず(腰を抜かしていたとも)、ロシアは散々に島内を荒らし回った記録が残る。
「ロシア人が上陸した時、警護の者どもは鉄砲をかついで皆山中へ逃げ、姿を消してしまったのである(私残記)」

択捉島のみならず、樺太(当時は日本領)、礼文島、利尻島、そして周辺海域の日本商船などが次々とロシアの襲撃を受ける。
ここに来て、ようやく危機感を強めた江戸幕府は、東北諸藩(南部・津軽・仙台・会津)に出兵を命じ、非常時には秋田・富山両藩の出兵をも念頭に入れていた。
幕府の防備は固いとは言えなかったものの、以後は小競り合いが続くのみで、大きな争いには発展しなかった。
というのも、強硬だったレザノフが病死したことが大きかった。
レザノフは非常に好戦的な人物で、日本のみならず、北アメリカ大陸での戦闘の記録も多い。
アラスカでは原住民トリンギット族と戦争し(シトカの戦い・1804)、一万年もの間アラスカを支配していたトリンギット族を完全に駆逐した。
ちなみにトリンギット族はロシア人を「コロシ(殺し?)」と呼んでいたそうだ(日本語との関連は不明)。
当時スペイン領であったカルフォルニアにもレザノフは足を伸ばしている。
最初は、食糧調達を目的とした友好的な交易を結びたいと願ったようだが、スペインの法律では植民地での外国との交易を禁じていた。
そのためスペイン人官僚たちは、賄賂にも買収にも応じず交渉は不調に終わる。
残されたレザノフの書簡からは、カルフォルニアを併合し、大量の移民を送り込んだ上で、北米大陸を植民地化する意図が記されている。
レザノフの死は、日本にとっても、アメリカにとっても朗報であったのかもしれない。
レザノフの死後、ロシアの日本侵略は下火となり、アラスカでさえもアメリカに売却せざるを得ないほどに勢いを失う。
彼の寿命が長ければ、日本の歴史もアメリカの歴史も違うものになっていた可能性がある。享年42歳。若すぎる死であった。
幸い「露寇事件」は、歴史の山に埋もれることとなった。
それでも、当時の衝撃は幕府を動揺させ、国論は「開国」、「攘夷」に二分されたのだという。この点で、幕末の動乱は「露寇事件」の時に萌芽したと捉えることもできる。
地味ながらもズシリと下腹部に響く事件であったのだ。
ロシアと日本が初めて争ったのもこの「露寇事件」である。
以後、日露戦争(1904)、第二次世界大戦へと続き、現在の北方領土のゴタゴタに至るわけである。
レザノフが開いた戦端は、ある意味まだ閉じられてはいないのである。
レザノフが急襲した地が北方領土の「択捉(えとろふ)島」であったというのも奇縁なことだ。
200年以上に及ぶ「ロシアと日本の因縁」はいまだ終わりそうもない。
これは境を接する国家同士の宿命とも言えるものであろう。
「幕末」関連記事:
江戸の日本を開いた男たち。林復斎と岩瀬忠震。そのアッパレな外交態度。
江戸の心を明治の心に変えた「ジョン万次郎」。彼の結んだ「奇縁」が時代を大きく動かした。
出典:さかのぼり日本史
江戸“天下泰平”の礎 第1回「“鎖国”が守った繁栄」
長崎で 通商 交易交渉 . 6ヵ月 。 通商 不成立。
ロシア人 怒るのも、最も。 外交 失政ですね。
絶対に許せねえ!
Wikiでは「1807年にクラスノヤルスクで病死」とあるけど、どっちが正しいのかな?!
分捕り合戦真っ最中。最たるものが、アヘン戦争で中国を屈服させ、
植民地状態に置いた大英帝国かと、まさしく恫喝・砲艦・武力外交
それに比べたら、ロシアや米国はまだマシだったかも。
因みに、1808年に、英国軍艦がオランダ国旗を掲げて長崎湾に
侵入し、オランダ商館員を人質に取り、薪水・食料を強奪していく
と言う事件があった。→【 フェートン号事件 】
長崎奉行、松平康英 及び鍋島藩家老は責任をとって切腹。
「 露寇事件 」や「 フェートン号事件 」があり、幕府は
「 異国船打ち払い 」を発令し1837年、交易を求めて江戸湾に
進入して来た、米国商船モリソン号を問答無用で砲撃し同船は引き返した。
しかし、モリソン号には日本人漂流民を送り届ける目的もあったため
高野長英、渡辺崋山ら開明派の洋学者グループは、この幕府の
態度をきびしく批判。これに対し幕府は、1839年、彼らを
逮捕するなどの弾圧を加えた → 【 蛮社の獄 】
「 露寇事件 」 を原点から振り返ってみる。
1792年、ロシアで保護されていた日本人漂流民、大黒屋光太夫
らをアダム・ラクスマンが根室に送り届けたが、その際ロシアの
公文書を江戸の将軍に差し出したいと申し出た。
江戸では幕府老中首座、松平定信が協議を行い、結局、ラスクマン
は、すぐの交易は拒否され取りあえず長崎に行ってみよ、と、長崎
への入港証が渡された。
1804年 ロシアのレザノフ がロシアで保護されていた日本人
遭難者津太夫(つだゆう) らを伴って長崎に渡来。交易を求めたが、
半年間! 待たされた挙げ句、交易は拒否され、入港証も没収され
二度と来るなと命じられた。日本側のあまりに非礼な対応に
激怒するも一旦ロシアに帰還。
幕府内の攘夷派は、意地悪く追い返せば二度と来なくなるだろうと、
高をくくっていた。
これでは、仮にロシアでなく米国だったとしてもタダでは済まされない
だろう。ましてや世界帝国、英国相手だったら激怒して意地でも
日本植民地化を急いだだろう。
実際、英国はその後アヘン戦争で中国(清)を屈服させた。
因みにレザノフは、ロシアで日本人漂流民相手に日本語を学び、
長崎の下っ端役人とは日本語で親しく会話していた。
結局、長崎を引き上げたレザノフは、もはや日本を開国させるには
武力によるしかないと部下に命じて日本の北方4カ所で、
小規模な報復懲罰攻撃を行った。
また露寇事件は、ロシア皇帝の命令で行われたものではなく、
現場が勝手にやった事としてその後の互いの捕虜交換
( ゴローニンと高田屋嘉兵衛 )で、1813年 国後・箱館での
ロシア船長リコルドによる謝罪で、日露和平が実現し、
1854年、日露和親条約が締結された。
1858年には、日露修好通商条約も締結された。
因みにゴローニンは日本拘留中、樺太探検で知られる
幕府の間宮林蔵らにロシア語を教授した。
1854年、日露和親条約が締結された。X
1855年、日露和親条約が締結された。に訂正
1858年には、日露修好通商条約も締結された。X
1858年には、日露修好通商条約も調印された。に訂正
ロシアのラクスマンに対する対応は、全て江戸の老中首座
松平定信からの方針・指示のもとにおこなわれた。
ラクスマンは、日本人遭難者を送り届けてくれた大義名分もあり、
邪険にも出来なかった。ゆるゆると(のんべんだらりと)
問題の先延ばしで切り抜けることにした。
しかし、この優柔不断さが後に禍根を残すこととなった。
ラクスマンは日本を去り、松平定信も失脚。
その11年後、レザノフが日本人漂流民、津太夫を伴いラクスマンが
受けとった長崎入港証と共に長崎に来航した。
ところで、「露寇事件」が小規模ですぐに収束したのは、レザノフの
死ではなく、そもそもレザノフ自身がロシア皇帝の勅許を得ておらず
レザノフ自身によって皇帝への上奏、部下への命令を撤回したから。
Wikipedia によると
またロシア皇帝も不快感を示し、1808年全軍に撤退を命令した。
そもそも、日本征服がロシア皇帝の明確な意志だったのなら
レザノフが死のうが、司令官が替わるだけの話だろう。
その点でフビライ・ハーンの意志による元寇とは完全に違う。
その後のペリーの浦賀来貢までの、約半世紀というもの
日本列島の周りは虎視眈々と権益を伺う異国船、捕鯨船だらけ。
当然、多数のトラブルや事件も起きた。
「露寇事件」後も、フェートン号事件・モリソン号事件、その他多数。
ラゴダ号事件ではせっかく助けた乗員同士の殺人事件まで起きた。
にもかかわらず教科書等で、この間の表記が少ないのは何故か?
明治以降の歴史教育というものが勝てば官軍でとりわけ長州閥に
よって都合良く書かれ、都合良く隠蔽されて来たから、
それを未だに引きずっている。
「露寇事件」こそ天下太平の眠りを覚ます、歴史の転換点だったが。
天下太平の眠りを覚ます、ペリーの黒船来航、腰を抜かした幕府は
ペリーの威圧に屈し、開国へと総崩れ、そして崩壊、輝かしい文明
開化の明治が始まった、と言うストーリーにしておきたかった。
そうした歪みから、ウソだらけの『 咸臨丸神話 』 も生まれた。
http://tozenzi.cside.com/oguri.htm
「明治政府の近代化政策は小栗忠順の模倣にすぎない」 大隈重信
幕府中枢は米国艦隊来航情報を、事前に掴んでいたし、司令官が
ペリーである事も知っていた。
日本が植民地化を免れたのは、ペリーやハリスを相手の交渉で
死力を尽くした幕府側全権、林大学頭復斎や岩瀬忠震のおかげと
言っても良い位。結果、ペリーやハリスは日本・日本人を高く評価
してくれた。
1863年 【 イギリス公使館焼打事件 】 隊長:高杉晋作、
火付け役:伊藤博文
日本人に攘夷の不可能を思い知らすため「文明国」の武力を示す
必要を感じた、英国公使オールコックは長州藩への懲罰攻撃を
決意した。
仲間達のある者は、現地の女性と結婚し、日本語教室の教師となり
帰国を諦めるなかで、スウェーデン系フィンランド出身の博物学者
エリク・ラクスマンとの出会いがその後の光太夫の人生を変えた。
通信手段も交通手段も、今日の様に発展していなかった時代
漂流者を日本まで送り届けるのは容易な事ではなかった。
ましてや当時の日本は鎖国体制下にあり、外国に出た日本人でさえ
帰国は許されていなかった。
アメリカ船に救助されたジョン万次郎の仲間も、ハワイで降ろされ
仲間達が帰国を諦めるなかで万次郎は船長に見込まれ米本土まで
連れて行かれ、懸命に努力し、自分で金を稼ぎ、自分で船を手配し
日本本土ではなく、当時一応独立国家だった琉球から上陸した。
1年半に渡る取り調べ、結局、故郷の母に会えたのは漂流から
11年も経っての事だった。
またロシア船が日本人遭難者の送還に際し、交易を求めるのは
姑息であるとか戦略であるとかの意見も一部にあるが、前述の様に
送還が手間暇カネが掛かる簡単な事ではない以上、非難される事
でもないだろう、実際、1837年、米国商船モリソン号も
日本人遭難者送還目的で同時に交易を求めて江戸湾に進入したが
幕府側の砲撃で追い返された。
さて、大黒屋光太夫は、エリク・ラクスマンの計らいで、首都の
サンクトペテルブルクに赴き、ロシア女帝、エカチェリーナ2世
( 因みに彼女はドイツ出身 ) に帰国を直訴する事になり
苦労の末、エカチェリーナ2世と謁見し、帰国を嘆願し、同情した
エカチェリーナ2世は帰国を許し、光太夫はエリク・ラクスマンの
息子、アダム・ラクスマンの船で根室への帰還を果たした。
なお、大黒屋光太夫の波瀾万丈物語はその後、緒形拳主演で
映画化もされ、テレビでも放映され、ゴルバチョフソ連大統領
訪日の際にも話題になった。
アダム・ラクスマンは、1792年10月20日に根室に到着したが
結局、交易を拒否され長崎への入港証が渡され、交渉場所の松前
を離れたのが、翌年の1793年6月30日、7月16日に箱館を出港、
とりあえず帰国した。
その後のレザノフの長崎での6ヶ月間待ちぼうけといい
これが英仏米だったらこんなに待てただろうか?
「露寇事件」は、ロシア側では、実行指揮者、フヴォストフの名を
取り、フヴォストフ事件と呼ばれるが、命じたレザノフは命令を撤回
しており、なぜか撤回命令が現場に伝わらず、フヴォストフは日本
劫掠を実行してしまった。ロシア皇帝も不快感を示し、1808年
全軍に撤退を命令し、フヴォストフは処罰された。
ロシア側にとっては、既に終わった話だったが
幕府は報復として、ロシア船ディアナ号艦長ゴローニンを国後島で
捕縛し捕虜として連行、そのまた報復でロシア側は日本船を拿捕し、
高田屋嘉兵衛らを拘束連行、ゴローニン艦長の奪還を目指した。
ロシアに連行された高田屋嘉兵衛は、世話役の少年を通じてロシア
語を習得し、ディアナ号副艦長、リコルドに理由をただし、自分が
ゴローニン艦長捕縛の報復として捕らえられた事を知る。
そこで嘉兵衛は、「露寇事件」がロシア政府とは関係なく
フヴォストフらが勝手にやった事と釈明すれば、ゴローニン艦長は
釈放されるであろうと持ちかけ、リコルドも受け入れ、リコルドは
高田屋嘉兵衛らを連れて国後及び箱館への来航。
幕府にとっても、メンツを保ちつつ、ロシアとのこれ以上の衝突を
避けられると、渡りに船でこれを受け入れ、捕虜交換
日露和平が実現した。
その後米国のペリーは艦隊を引き連れ禁制の江戸湾に強引に進入
「条約の締結が受け入れられない場合、戦争になるかも知れない
当方は近海に軍艦を50隻待たせてあり、カリフォルニアには
更に50隻を用意している、これら100隻は20日間で到着する」
と言い放ち祝砲と称して空砲を数十発ぶっ放し、日本側を恫喝した。
ペリー艦隊の陰に隠れ、あまり知られていないが、同じ頃ロシアの
プチャーチン艦隊も、日本に開国・交易を求めて来航している。
プチャーチンはロシア皇帝から、あくまでも平和的に交渉せよ、と
命じられていたため、最初長崎に来航し、たらい回しの末下田への
回航を指示され、更に下田での交渉が始まった。
ところが下田で、安政東海地震が発生し、ロシア船も被災するなか
プチャーチン一行は日本側をも救助し、幕府に好感を持たれ、
幕府は代船の建造を許可した。戸田村(へだむら、現沼津市)で
代船が日本の船大工の協力も得て完成し、ヘダ号と命名された。
中断されていた外交交渉も再開され、1855年2月7日
日露和親条約が締結された。
1858年には、日露修好通商条約も結ばれた。
しかしながら、1861年2月、ロシアのビリリョフ率いる軍艦
ポサドニック号が対馬に無断滞泊し付近の永久租借権を要求した。
英国の対馬占領の野心を牽制するためだったが、幕府は外国奉行
小栗忠順を派遣して撤退を求めたが動かず、英国公使オールコック
の協力申し出により英軍艦が派遣され威嚇、
ビリリョフに厳重抗議した。しかしオールコックもまた、
実は対馬占領を英国政府に上奏していた。
また、ビリリョフの行動は、ロシア政府が認めたものではなく
ロシア領事ゴシケヴィチは、外国奉行、村垣範正の退去要請もあり
軍艦ヲフルチニックを対馬に急派し、ビリリョフを説得、
1861年9月19日(文久元年8月15日)ポサドニック号は
対馬から退去した。
1881年( 明治14年 )プチャーチンには、日露友好に
貢献した功績によって、日本政府から勲一等旭日章が贈られた。
>幕府の防備は固いとは言えなかったものの、以後は小競り合いが
>続くのみで、大きな争いには発展しなかった。
>以後は小競り合いが…
小競り合い?、どこでどの様な?、しかもレザノフの死で収まった?
「露寇事件」自体が本格戦でもなかったが
犠牲者はむしろ来るはずもないロシア船防備のため、東北諸藩から
出兵させられ越冬に耐えられず病死した者の方が遙かに多かった。
ページを立ち上げた筆者が、最後に「斜体」で、ささやかに示した
出典としている、NHKの番組であることすら明記されていない
( 画像もそこからの借用のようだし )
NHK ETV さかのぼり日本史、江戸“天下泰平”の礎
第1回「“鎖国”が守った繁栄」、をチェックしてみても…
『 一方、ロシアの事情にも変化が生じていました
この頃、蝦夷地襲撃の首謀者達は、皇帝の許可なく独断で行動した
として、身柄を拘束されていたのです。
ロシア船が再び日本を攻撃することはありませんでした。』
と、ナレーションが流されていましたが…
別のNHKの番組、BS歴史館 シリーズ・外圧(2)
衝撃!もうひとつの“黒船“、の中でも
江戸後期対外関係史の第一人者とされる
東京大学名誉教授、藤田覚氏も
『 レザノフが日本の施設を攻撃しろ、と言う命令を既に撤回して
るんですよね、だからロシアの軍艦が来るはずがなかった 』
と、述べられていましたが…
結局、レザノフの撤回命令が、現場のフヴォストフに伝わらないまま
フヴォストフ達がやってしまった、と言うのが真相の様ですな。
ついでに
>対応に苦慮した土井は儒家「林述斎」に意見を求めた。すると述斎、
>「ロシアとの通商は『祖国の法』に反するため、拒絶すべきである」
>という強硬な態度を示す。
これでは林述斎が強硬派で、土井利厚が追随したかの様ですが…
日本人送還の恩義もあり共に交易を認めない点では一致したものの
・儒学者 林述斎 それでも丁重に扱うべし
・老中 土井利厚 丁重に扱うから来るんだ 取りつく島を与えるな
相手を立腹させれば二度と来なくなるだろう
( 大内内文書 林述斎書簡 )
と、番組では紹介されていましたが…
また、『祖国の法』と言うより、『祖宗の法』かと。
まあ、北米にせよ南米にせよ、白人入植者が先住民を追い立てて
領土を広げていった歴史だが、更には入植者同士で米西戦争あり、
米墨戦争あり、米合衆国内部でさえ南北戦争あり、オーストラリアの
タスマニアでは先住民絶滅計画に基づき先住民は絶滅させられた。
別にロシアやレザノフを擁護する訳でもないが、歴史は感情論より
まずは史実を正確に掌握するのが肝要かと。
未だに『咸臨丸神話』が、まかり通るとは…
http://tozenzi.cside.com/kanrinmaru-byou.htm
NHKの番組から引っ張ってきた内容のコピペ+筆者の思いこみ
そこからの肝心要な部分の「省略」、で成り立っているようですな。
そもそも「露寇事件」自体がロシア皇帝の意に反した独断行動であり
レザノフ自身がロシア皇帝への上奏、部下のフヴォストフへの命令
を撤回しており、ロシア船が再び日本を攻撃することはなかった。
>ロシアと日本が初めて争ったのもこの「露寇事件」である。
>以後、日露戦争(1904)、第二次世界大戦へと続き、
>現在の北方領土のゴタゴタに至るわけである。レザノフが開いた
>戦端は、ある意味まだ閉じられてはいないのである。
「露寇事件」が、100年程後の日露戦争や第二次世界大戦、
更には、北方領土問題と、どう繋がるのか??
「露寇事件」及び、それに続く「ゴローニン事件」の解決を見て
”雨降って地固まる”で、日露関係は、上から目線の英米に比して
長らく良好なものになった。
とりわけその約半世紀後の米国ペリー艦隊の陰に隠れた、ロシアの
プチャーチン艦隊の紳士的な対応に日本側は大変に好感を持った。
であるからこそ、1881年( 明治14年 )プチャーチンには、
日露友好の貢献により、日本政府から勲一等旭日章が贈られた。
ー ウィキぺディアによると ー
全権としてプチャーチンと交渉に当たった外国奉行・川路聖謨は
紳士的に日本の国情を尊重して交渉を進めようというプチャーチン
の姿勢に大変好感を持った。川路はプチャーチンのことを
「軍人としてすばらしい経歴を持ち、自分など到底足元に及ばない
真の豪傑である」と敬意をもって評している。
なおプチャーチンも報告書の中で、川路について「鋭敏な思考を持ち
紳士的態度は教養あるヨーロッパ人と変わらない一流の人物」
と評している。
プチャーチン死後の1887年(明治20年)娘のオリガが戸田村を訪ね
プチャーチンの遺言により当時の村人の好意に感謝して
100ルーブル(今日換算1500万円位)の寄付をしている。
その後の歴史の激動の中にも交流は続き、2008年にも日露修好
150年を祝っている。
プチャーチンに関しては、こんなサイトもあった
http://bushoojapan.com/tomorrow/2013/10/15/7651
「露寇事件」「ゴローニン事件」後の日露対立と言えば、
半世紀程後の、軍艦ポサドニック号の「対馬無断滞泊事件」が思い
起こされるが、これとてロシア皇帝の勅許を得たものでもなく
( ゴルチャコフ外相が傍観・黙認していたのはけしからぬ話だが )
また幕臣の小栗上野介(小栗忠順)が現場に派遣されたものの、
役立たずに終わったとの言説もあるが、「役立たず」は短絡的に
過ぎるだろう。国家間の交渉と言うものは、下のレベルでダメなら、
より上のレベルでの交渉になるからだ。
発端は、英艦の対馬不法侵入
http://tozenzi.cside.com/oguriPDF67.pdf
>ロシアに襲撃される事件が相次ぐ。
>これらを称して「露寇事件(1800年代初頭)」という。
フヴォストフが指揮した「露寇事件」で日本が襲撃されたのは
NHK BS歴史館 シリーズ・外圧(2)
衝撃!もうひとつの“黒船“、によれば
文化3年( 1806年 )より、以下の場所での
襲撃のようですな、北海道本島への襲撃はあったのかな?
文化3年9月 樺太 死者 0
略奪品 米600俵
文化4年4月5月 択捉島 ナイホ、シャナ 死者 3人
略奪品 米30俵 他に武具など
文化4年5月6月 利尻島 死者 不明
略奪品 米500俵 他に大砲など
ロシア側では実行指揮者、フヴォストフ及びダヴィドフの名を取り
「フヴォストフ、ダヴィドフ事件」、と呼ばれる。
ロシア帝国海軍、ニコライ・フヴォストフ大尉、及びガブリィル・
ダヴィドフ少尉、彼らは祖国の西側、ヨーロッパ戦線に於いて
武勲をあげ、勲章まで授与された、若き海軍士官達であった。
軍は彼らに《 出向 》という形で、国策会社、露米会社を率いる
ロシア貴族で、ロシア宮廷侍従でもあった、ニコライ・レザノフ
のもとへ配属し、レザノフの配下となることを命じた。
軍人にとって、上官の命令は絶対であった
たとえそれが出向先の上司である、レザノフの命令であっても。
彼らにとって「露寇事件」は、直属の上司である、レザノフが
下した命令を、軍人として忠実に遂行したまでだった。
( 後にレザノフは皇帝への上奏、彼らへの命令を撤回した )
しかし、これはロシア皇帝の勅許を得ない独断行動であり、
不快感を示したロシア皇帝は、全軍に撤退を命じた。
ロシア極東、オホーツクに帰還した彼らを待ち受けていたのは
そこを管轄する、ブハーリン大佐による過酷な仕打ちだった。
ブハーリン大佐は、首都サンクトペテルブルクからの遠隔地を
良いことに、私利私欲にまみれた「悪代官」の様な存在だった。
ブハーリンはフヴォストフ達から持ち物を没収し、彼らをまともな
軍法会議も裁判も経ないまま、オホーツクの牢獄にぶち込んだ。
劣悪な環境下で、フヴォストフもダヴィドフも健康を害し
生命を落としかけさえした。
それ以上に彼らにとって屈辱的だったのは、彼らがブハーリン大佐
主導による〔委員会〕によってのみ裁かれ入獄させられた事だった。
フヴォストフもダヴィドフも、堂々と表に出、堂々と軍法会議なり
裁判の場に立ち、堂々と公の場で証言がしたかった。
しかし、それは最悪、銃殺刑をも覚悟せねばならなかった。
それでも彼らは構わなかった喜んで受け入れる覚悟は出来ていた。
それが軍人として命令を遂行した、彼らの最後のプライドだった。
既に彼らに命令を下したレザノフは病死しており
彼らは想いを綴った手紙をチチャゴフ海軍大臣宛に送ろうとしたが
この手紙もブハーリン大佐によって握り潰されてしまった。
思いあまった彼らは脱獄を決意し、脱獄に成功した
しかし、やがて彼らは逮捕され、軍法会議にかけられ
軍紀違反、脱獄の罪を問われた。
1809年10月4日、二人の若き海軍士官が生涯を閉じた。
ニコライ・フヴォストフ、34歳
ガブリィル・ダヴィドフ、27歳
しかし彼らにとっては、オホーツクの牢獄で朽ち果てるよりは
軍人として本望だったのだろう。
ブハーリン大佐は、職権乱用を問われ、流刑となった。
『文化露寇事件』 それに続いた 『ゴローニン事件』
事件が解決され、ロシアに帰還したディアナ号艦長ゴローニン
及び、副艦長リコルドは歓喜のなか迎えられ、とりわけリコルドは
その働きを賞賛され、彼らは共に二階級特進した。
一方、二国間を股にかけ、事件解決に尽力した高田屋嘉兵衛は
帰国するなり長らく幽閉状態に置かれ徹底的な取り調べを受けた。
当時、鎖国状態の日本は、海外渡航も、日本人の海外からの帰国も
許されていなかった。
それでも、元々幕府お抱えの大商人であり、松前藩他、役人達にも
顔が利き、名字帯刀まで許された、大海商だけあり、ようやく調べが
終わると、事件解決の尽力への褒美として、幕府から嘉兵衛には
小判が5枚渡された。( 約20万円 )
国家間の難問を解決した、北の海に名を轟かせた大海商の嘉兵衛
への褒美としてはあまりにもささやかだった。
更には、ライバル商人があらぬ噂を流した為か
高田屋は、ロシアとの密貿易の嫌疑を掛けられ、没落していった。
つわ者共の、悲喜交々その後物語・・・
今日、かつて高田屋嘉兵衛が拠点とした、北海道・函館の一角には
北の海を見据える、高田屋嘉兵衛の像が建つ。
傍には近年、「日露友好の碑」も建てられた。
嘉兵衛の出身地である淡路島には、高田屋嘉兵衛公園も出来
高田屋顕彰館・歴史文化資料館も建てられた。
ディアナ号の出航地である、かつての首都サンクトペテルブルク市
クロンシュタット区と、嘉兵衛の故郷である兵庫県洲本市五色町は
2001年、姉妹都市関係を結んだ。
故国帰還後の処遇や当時のロシアの内情については、当方も
東京大学史料編纂所の資料他、色々調べみても錯綜しており
ロシア語には精通しておらず、よく分かりませんな。
日付も、和暦、西暦( ロシア歴、グレゴリオ暦 )と
3種類あり、『 閏(うるう)』 もあり、全くややこしい。
いずれにせよ、フヴォストフとダヴィドフがオホーツクで
牢獄に入れられ、処罰を受けたのは確かな様ですが、
レザノフが長崎で受けた侮辱から当初復讐心を高めその手先に
されたものの、元々軍の命令で《出向》させられた訳だし
『ロシア軍』として戦ったプライドがあったものの、故国は
それを許さず、『独断で軍事行動した軍規違反者』、とされ
処罰を受ける事には忸怩たる思いがあったようです。
因みに、ウィキペディアの方の『文化露寇』の項目でも
『ロシア軍』ではなく『露米会社武装集団』となっています。
その後のゴローニン、リコルド組は歓喜で迎えられ二階級特進
終身年金まで保証され、ちょっとした運命の悪戯で大違い。
両国間を股に掛け、事件を解決に導き、日露和平を実現させた
高田屋嘉兵衛の胆力たるや大したものですな。
リコルドも大絶賛感服していたようです。
事件が解決し、嘉兵衛が見送るなか離れていくロシア船の甲板
では船員達が居並び、ウラー(万歳)タイショー(大将)、と
叫んで、高田屋嘉兵衛の胆力と尽力を称えた。
ところで、麻薬(アヘン)売人の海賊紳士国家英国はといえば
雍正帝以来アヘン禁止が祖法とされた中国(清)にヤクの売り
込みを阻害されるやアヘン戦争で清を屈服させ、植民地状態に
置いた。
オーストラリア入植者を主導した英国副総督
ジョージ・アーサーはタスマニアに於いて先住民絶滅計画
( 作戦名:ブラックライン )のもと、先住民を狩猟のごとく
殺戮し、絶滅させた。
『 タスマニア最後の「女王」トルカニニ 』
https://honto.jp/netstore/pd-book_01923614.html
絶滅計画を遂行した英国人入植者達がその後処罰されたと言う
話は聞かない、寧ろ報奨金が出たようで一攫千金報奨金目当て
で英国から出稼ぎで「先住民狩り」に来る者もいた。
まさに、ジェノサイド、民族浄化。
奴隷売買、奴隷使役をやっていた米国の方がまだマシか?
しかし、米国では第二次大戦後も、1964年まで
人種差別法が続いた。( ジム・クロウ法 )
太平洋の制海権を目指した米国は、ハワイ王国を飲み込み
危機感を覚えたハワイ国王は、決死の覚悟で日本に赴き
明治天皇に窮状を直訴し、アジア・ハワイ連合を提唱したが
結局日本は、ハワイ国王カラカウアの決死の訴えを黙殺した。
因みにカラカウアは、史上初の日本を訪れた外国国家元首。
また、カラカウアは米人宣教師によって禁止されていた
神々に捧げる踊り、フラダンスを復活させた。
最幕末期から、明治初期にかけて、
実質的に日本を支配したのは二人の英国人だった。
初代駐日総領事(のち公使)ラザフォード・オールコック及び
その後釜、ハリー・パークスである。
ラザフォード・オールコック著: 『大君の都』 より
詩人と、思想家と、政治家と、才能に恵まれた芸術家からなる
民族の一員である我々と比べて《日本人は劣等民族》である。
薩長の攘夷に憤慨し、日本人に攘夷の不可能を思い知らすため
「文明国」の武力を示す必要を感じたオールコックは、
1864年、英・米・仏・蘭、連合艦隊を主導し、
下関攻撃を実行し、幕府の貿易制限を撤廃させた。
因みにオールコックは富士山に初登頂した外国人とされる。
1865年 英国公使パークスは、欧米列強の対日外交団を
主導し、英・仏・蘭、連合艦隊を兵庫沖に派遣
(米国は代理公使のみ派遣)
孝明天皇を威嚇し、日米修好通商条約に、英・仏・露・蘭、が
加わった、通称、安政五カ国条約の勅許を出させた。
また、日米修好通商条約調印段階では、関税に関しては概ね
20%程度と、それ程不公平でもなかったが、一気に5%まで
引き下げられてしまい『不平等条約』となった→【改税約 】
( 英・米・仏・蘭、)
仮に日本が二度に渡り使節を派遣し、信義を尽くしたロシアと
門戸を開き、国際交流の中で国力を付けておいたならばその後
『砲艦・恫喝外交』で来航した米国や英国とも対等に渡り合い
『不平等条約』を押しつけられる事もなかったかも知れない。
ここで鎖国を緩め、柔軟な対応をする選択肢もあった。
実際当時、幕府の内外でもロシアとの関係構築を求める意見も
出ていたようで、杉田玄白などもそのひとりであった。
更には『露寇事件』後でさえ、もしロシアが謝罪してくれば
ロシアとの交易を開始しても良い、とする幕閣さえいた。
まあ、日露双方共に、いろんな人間・見解があった模様。
渡辺京二・著 『黒船前夜』
しかし一度目の老中首座・松平定信はどうにもこうにもやる気
無し、本人の弁を借りれば「ゆるゆると」優柔不断に終始し
日本人漂流民送還の恩義もあり邪険にも出来ず、江戸に向かわ
せる訳にもいかず、ええいままよと時間稼ぎの方便で、
箱館からは遠い長崎の入港許可証を与え取りあえずお引き取り
願った。レザノフの時よりこちらの方が長く待たされた。
次のレザノフの時の老中・土井利厚は、更にダメ対応の極致で
「 相手を立腹させれば二度と来なくなるだろう 」 と言い放ち
威勢だけがよい、井の中の蛙大海を知らず、視野狭窄、の
見本の様な対応で正規の遣日使節とわざわざ関係を拗らせた。
「日本の武士がおくれをとることはない」など豪語していたが
結果は二隻のロシア船に手も足も出ず一方的敗北に終わった。
時代を超えて、高田屋嘉兵衛の存在が光る。
間違っても土井利厚の様な視野狭窄者にはお引き取り願いたい
歴史にタラレバはないが過去の歴史に学ぶ事は出来るだろう。
日本が植民地化を免れた陰には、米国のペリーやハリスとの
交渉で死力を尽くした、幕府側全権、林大学頭復斎や岩瀬忠震
他、川路聖謨など歴史から消された優秀な幕臣達の努力が
あった。
勝てば『官軍史観』で、歴史から消された、日本近代化の礎を
築いた、小栗上野介(小栗忠順)、『咸臨丸神話』の虚構。
http://tozenzi.cside.com/oguri.htm
「明治政府の近代化政策は小栗忠順の模倣にすぎない」
大隈重信
東郷元帥の謝辞:日本海海戦の勝利は小栗さんのおかげ
http://tozenzi.cside.com/tougou.html
・ウィキペディアの「小栗忠順」にご用心
http://tozenzi.cside.com/wikipedia.html
・ウィキペディアの「高田屋嘉兵衛」の項目にある、下の方
「クロンシュタット市」とは、はて何処?
「サンクトペテルブルク市クロンシュタット区」では?
>ペトロパブロフスクカムチャツキーにおける高田屋嘉兵衛と
>ピョートル・リコルド像
カムチャッカの港湾都市に、嘉兵衛とリコルド像があるのか?
しかし、その下の文章とどう繋がるのか? はて?
それにしても、ロシアとの密貿易の嫌疑を掛けられ、没落した
とされる高田屋の子孫が未だに苦労しているとは・・・
https://dot.asahi.com/wa/2014082900063.html?page=1
別にロシアを何でも擁護するつもりなどさらさら無いが物事は
冷静公平公正に見ていかねば後に禍根を残す事になるだろう。
フランスもロシアも民衆革命で革命政権を樹立したが、混乱し
新たな独裁者を生み出してしまった。
『露寇事件』の戦闘で戦死した者、3名( 択捉島 )
津軽から北海道・斜里に派兵させられ死亡した者、72名、
〔 津軽藩士殉難事件 〕、宗谷でも30名が死亡したと言う。
慣れない土地での越冬に耐えられず全て《 病死 》であった。
『露寇事件』の首謀者達は皇帝の許可なく独断で軍事行動した
として、身柄を拘束されていた。
因みに、日露戦争での日本側戦没者は、8万人を超えた
これはロシア側をずっと上回ったとされる。
戦勝した最大要因は革命前夜だったロシア国内の混乱だろう。
また、日本には英国がバックにつき、旗艦であった戦艦三笠も
国産ではなく、英国ビッカーズ社から購入した軍艦だった。
更に、米国のユダヤ人金融業ジェイコブ・シフが日本に戦費を
融通したが(あくまでも借金)、シフは帝政ロシア国内では
ユダヤ人が抑圧されているとして帝政ロシアへの憎悪を募らせ
一方で後に、レーニンやトロッキーをも資金援助していた。
また米国の仲裁で戦後処理(ポーツマス条約)がなされたが
日本は多大な犠牲を払ったものの、賠償金は放棄させられた。
この為、日本国内では民衆が不満を爆発させ、暴動を起こす
事態にまで至った( 日比谷焼き討ち事件 )
結局、帝政ロシアは打倒され、レーニン率いるロシア革命が
成就した。
帝政ロシア国内を含む、ユダヤ人をパレスチナへ移住させ
ユダヤ人国家を創る構想(シオニズム運動)をも後押していた
ジェイコブ・シフにとっては、願ったり叶ったりの展開で、
更には「日露戦争で最も儲かった人物」となった。
一方、捕虜として熊本県の物産館に収容されていた、
ロシア軍士官達は、帰国決定の日に全員自決した。
結局、英国やユダヤ勢力などが「漁夫の利」を得
日本には甚大な犠牲と莫大な借金が残り、その返済には
82年がかりで、1986年(昭和61年)までかかった。
X 『不平等条約』となった→【改税約 】
〇 『不平等条約』となった → 【 改税約書 】 に訂正
>アダム・ラクスマンと、日本の江戸幕府老中職の
>松平定信との間に国交樹立の約束が交わされていた
は? 交易を突き抜けて、更に、国交樹立???
そんな 『約束』 をした公文書記録がどこにあるのか?
そもそも、日本はオランダや中国とも国交は結んでおらず
国交があったのは、朝鮮と琉球のみだった。
改めて、NHK ETV さかのぼり日本史 外交としての
“鎖国”(1) 北の黒船・日露交渉
( 東京大学史料編纂所・教授 山本博文氏、解説 )
をチェックしてみると、やはりウィキペディアの記述
の方がトンデモ記述のようです。
因みに、ウィキペディアの 『大黒屋光太夫』の項目でも
>松平定信は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだ
も、ロシア情報の収集には努めたが、交易は望まなかった。
また、松平定信はラクスマンが持参したイルクーツク総督
イワン・ピールの信書の受け取りも拒否している。
現存する松平定信の覚書に於いても
《 交易は好ましくないが、駄目だと言えば隙が生じる
改めて交渉しながら長崎で交易をするか蝦夷地にするか
ゆるゆる決めればよい 》と言った趣旨で書かれており
要するに松平定信は、交易を望んではいないわけで
どうしてもと言うなら、致し方ないが慌てる事はない
程度の、消極的交易容認論だった。
ましてや「国交樹立」など約束する訳がないだろう。
従って松平定信は、現地、松前の幕府目付・石川忠房を
介して、まずラクスマンに伝えたのは
《 交流のない国の船が日本に来た場合、捕らえるか
追い払うのが昔からの国法である、しかしながら
ロシアが日本の国法を知らなかった事、漂流民を
送ってきた事を考慮し、今回は穏便に済ませる 》
とし、外交の窓口は長崎であり長崎以外の地では交渉
しない、と、退去を勧告した。
これにラクスマンは落胆し、宿舎に引き上げたが・・
その後、石川忠房がラクスマンの宿舎を訪ね
豪勢な食事や酒を振る舞い、耳元で、
「長崎に行けばきっとうまく行くでしょう」
と呟き、ラクスマンを元気づけた。
しかし、これも全て江戸の松平定信からの指示だった。
定信は、交渉が拗れた場合に備えて長崎に行けば通商が
出来るかの様に《 ほのめかせ 》と石川に指示していた。
寛政5年6月27日 ラクスマンとの日露交渉最終日
石川忠房は、長崎への入港を認める文書を読み上げ
ラクスマンに渡した。
ラクスマンは礼を述べ、ロシア本国の指示を仰ぐ為に
帰国すると述べた。
寛政5年7月16日、松前から箱舘に戻ったラクスマンは
箱舘を出航、帰国の途についた。
幕府はロシアとの衝突を避けつつ、ひとまず鎖国体制を
維持することが出来た。
松平定信が石川忠房を通してラクスマンに渡した
長崎入港許可証(信牌)は、中国(清)に渡していた信牌
とは異なり、単なる入港許可証で、交渉は認めるが
交易、ましてや国交を『約束』したものではなかった。
( 幕府側の写しが残っている )
しかし、ラクスマン、ロシア側、更には
レザノフは、これに過大な期待をしてしまった。
結局、『露寇事件』を招き寄せてしまった「原点」は
松平定信の、優柔不断にして、その場しのぎの
問題先送り、場当たり的な対応にあった。
場当たり外交では後に禍根を残す事例だろう。
ニュージーランドにせよ、その他太平洋の島々にせよ
そこは無人の土地だったのか?
ロシアを含む、英国をはじめとするヨーロッパ列強が先住民を
追い立て、時に殺戮・絶滅させ、植民者同士の戦争も起きた。
『フレンチ・インディアン戦争』、など、北米を舞台にした
英仏の激突に、先住民が巻き込まれてしまった事例だろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89
http://www.y-history.net/appendix/wh1002-064.html
ところで、『将軍』とは、もともとは征夷大将軍の事であり
『夷』とは、蝦夷(えみし)、つまり、朝廷の中央集権に
服従しない、北方のアイヌ人等の事を言った。
従って征夷大将軍とは、朝廷が組織した蝦夷(えみし)征討の
ための軍事組織で、坂上田村麻呂などが知られる。
対する、朝廷軍と戦った蝦夷のリーダーと言えば
かつてNHKドラマにもなった、『アテルイ』だろう。
火怨・北の英雄 アテルイ伝
http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/aterui/
http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/aterui/html_aterui_midokoro.html
結局、アテルイは捕らえられ処刑されてしまうが
これで和人と北方先住民との紛争は終わらず、時折勃発した。
1456年−1458年 コシャマインの戦
1669年 シャクシャインの戦
1789年、アダム・ラクスマン来航の少し前にも
国後・目梨の戦(くなしりめなしのたたかい)が起きた。
北方先住民を交易相手から漁労労務者として酷使するように
なった和人商人、飛騨屋に対する反乱だった。
松前藩は鎮圧隊を差し向け、蜂起参加者130名を捕らえ
( 国後41名・目梨89名 )37名を処刑した。
ペリーが浦賀に来航する前、教科書等ではあまり記述されない
陰で、一体、何があったのか?
ロシア・アイヌ・日本の三国志
渡辺京二・著 『黒船前夜』 が興味深い。
https://honto.jp/netstore/pd-book_03229567.html
因みに、アダム・ラクスマンの根室来航以前にも
非公式な使節なら、ロシアからも、米国からも交易を求めて
日本に船が来ている。
1777年に、シャバリン隊長率いるナタリア号が根室半島
に来航。( 既に国後・択捉で先住民とは交易していた )
だが音沙汰なく、1779年、国後島のアイヌの首長ツキノエ
の水先案内で、北海道の厚岸 (アッケシ) に来航。
結局、松前藩から鎖国を理由に交易を拒否されたが
ともかく、これが日本とロシアとの初交渉となった。
1791年、アダム・ラクスマン来航の前年
ジョン・ケンドリック率いるグレース号が、現・和歌山県の
紀伊大島に来航し交易を求めたが不成立に終わった。
おそらくは来日した最初の米国人と思われる。
ペリー艦隊浦賀来航の62年前。
どこでどう違ったのか?
>ちなみにトリンギット族はロシア人を「コロシ(殺し?)」
>と呼んでいたそうだ(日本語との関連は不明)。
Wikipedia によると
ロシア人【が】トリンギット族【を】、コロシと呼んでいた。
どちらが正しいのかな?
Wikipedia より
-----------------------------------------------------
1802年6月20日、カースダ・ヘーン(インディアン川)と
近くのクラブ・アップル島のトリンギット族戦士の一団が
「悪魔の化粧」をし、木彫りの動物仮面を被ってロシアの
基地を攻撃した。
先住民族は槍や当時として最新式の火器で武装していた。
火器については、イギリス、フランス、スペインおよび
アメリカの船がインサイド・パッセージをしばしば訪れ
売り渡していた。
シュコールイェール酋長に率いられた攻撃部隊は20名の
ロシア人と130名近いアレウト族の男性を皆殺しした。
兵舎や倉庫を略奪して火を付け、建造中の船を破壊し、
残った女子供を奴隷にした。
----------------------------------------------------
とりわけ北米では先住民も、植民者も、様々な勢力が
各々の思惑で複雑に絡み合い、時に同盟し、時に対立し
時に、いいように利用されていた。
---------------------------------------------------
数名のロシア人とアレウト族が狩りのために基地を離れており
また森に逃げ込んだ者もいて、湾内に停泊していた2隻の
外国船に辿り着いて攻撃のことを知らせた。
近くに停泊していたイギリス船「ユニコーン」のジェイムズ・
バーバー船長は、シュコールイェール酋長以下数名の戦士を
船上に誘い、ブリッグ船内に拘留して、結果的に残っていた
1名のロシア人と18名のアレウト族と交換した
(襲撃で奪った4,000枚のラッコ生皮も取った)。
「ユニコーン」はコディアックに向かい6月24日に生き残った
者を届けるとともにバラノフに襲撃について知らせた。
バーバーは開拓者を引き渡すことと引き替えに1万ルーブルを
絞り取った(それでも元々の要求の20%に過ぎなかった)
-------------------------------------------------------
善人ぶった、一番狡猾な勢力が英国か?
>このレザノフを拒絶した以降とのことであるという。
>それ以前の日本には「鎖国」という感覚は薄かったようだ。
制度を体系的に明文化したものが無かっただけで
感覚が 「薄かった」、事も無かっただろう、ならば
ラクスマンの時も、事実上の日本の政治の最高権力者である
老中首座・松平定信が、明文化はされていなかったとは言え
「国法」 を盾にロシアからの親書も、贈答品も受け取らず
退去を勧告しており、それ以前のロシア・米国の来航船に
対しても、交易を拒否している。
長崎の役人が江戸のトップより権限が上な訳がないだろう。
レザノフの時も、既に、『祖宗の法』、と認識しており
>述斎、「ロシアとの通商は『祖国の法』に反するため、
>拒絶すべきである」という強硬な態度を示す。
と、どう整合するのか?
>交易の相手国を「中国・オランダ」に限定し、その交易地も
>「長崎」のみとしていたが、それは幕府が交易の全てを
>管理下に置くためであった。
出島幽閉だし、それは既に準鎖国状態、と言えるのでは?
因みにオランダからは、1844年に軍艦が来航しオランダ
国王の親書を携え国交を求めたが、既に交易がありながら
幕府は国交についてはこれを拒否した。
徳川幕府の始祖、徳川家康は国際派で、英国とも同盟し
英国より入手した大砲で大坂城を攻略した。 『大阪夏の陣』
( 家康が贈った甲冑が、ロンドンの博物館に現存する )
また、英国人の家来に建造させた船に日本人を乗せ
メキシコまで太平洋を往復横断させている。
朝鮮には、豊臣秀吉の朝鮮出兵を謝罪し、朝鮮との国交を
回復させた、( この関係は幕末まで続いた )
後に、オランダ人は長崎の出島に幽閉されたが
朝鮮の使節は節目ごとに江戸城に赴き、将軍と謁見した。
それが、天草・島原の乱以降、ポルトガル・スペイン勢を
日本から追放し、日本人の海外渡航、海外からの帰国を禁じ
大型船の建造を禁じ、英国とも英王室がポルトガル王室から
王女を王妃として迎え入れた事を理由に国交を断絶した。
( 幕府はオランダ等から情報を仕入れていた )
天草・島原の乱では、オランダは幕府の一揆勢征討に協力し
オランダ船がポルトガル国旗を掲げ、海上からの艦砲射撃で
一揆勢が立て籠もる原城を攻撃した。騙し討ちだが。
そうした経緯もあり、またオランダは交易と布教をセットに
しなかった事もあり国交は結ばず、欧州勢ではオランダのみが
出島での交易のみ認められる事になった。
以来、オランダ・中国とは、長崎の限定区域での交易のみ
国交は朝鮮と琉球のみとし、それら以外とは交流しない
日本人の海外への出入りも禁止とする事が、『祖宗の法』
として認識されるようになったと言えよう
レザノフ以前から。
>「鎖国」という言葉が歴史に記されるのは、志筑忠雄の
>「鎖国論(1801)」という書物からである。
>この書は、ドイツ人医師「ケンペル」が日本の国情を
>記した「日本誌」の一部を訳出したものであり、この
>本文中の語を志筑忠雄は「鎖国」という新造語で対応した
だから、志筑忠雄は日本の国情を「鎖国」という新造語で
示した訳で、それまでは鎖国状態でなかった、話ではない。
ましてや、「鎖国」という感覚は薄かった、話ではない。
鎖国以前は、日本人商人も精力的に東南アジアなどへも
足を伸ばしていたが、鎖国で帰国も許されず、結局彼らは
彼の地に骨を埋めるしかなかった。
今もベトナムやタイなどには「日本人街跡」が残る。
どこぞの先生が、ああ言ったこう言った、などと言う事に
あまり振りまわされ過ぎない方が良いだろう。
因みに戦国時代までは日本船も盛んに中国(明)へも進出し
日本の大名勢力同士( 細川 vs 大内 )が、権益を争い、
中国大陸内で、1523年、日本人同士の戦いまで勃発した。
『大阪夏の陣』 は 『大坂冬の陣』 に訂正
家康は、1614年の大坂冬の陣で、英国より購入した砲身が
長く射程距離が伸びた、カルバリン砲やセーカー砲を用い
大坂城を敵の射程圏外から攻撃、砲弾が淀君らが立て籠もった
天守閣に命中し侍女が死亡した。
なお、これらの大砲は英国がスペイン無敵艦隊を撃退する
きっかけともなった長射程砲であった。
因みに『露寇事件』で利尻島でロシア側と対峙した際には
当時としても骨董品のような青銅製のフランキ砲もあった。
天草・島原の乱以来、大乱もなく、長い鎖国体制のなかで、
二百年程も前に家康が用いた大砲の方が余程マシだった。
『露寇事件』でロシア側に捕獲されたこの大砲は現在
サンクトペテルブルクの博物館に保管されていることが
東京大学史料編纂所の調査で発見された。
鎖国による二百年の停滞で、ニコライ・フヴォストフ及び
ガブリィル・ダヴィドフが率いた、たった二隻のロシア船に
手も足も出なかった。
それぞれの船の簡単なイラスト付きで、相対的な大きさも
わかりやすい。( ※ イラストページが3ページあり )
江戸後期主要異国船渡来記録
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_ikokusen_ship1.html
ペリーの米国艦隊浦賀来航以前にも、様々な外国船が来ていた
事が分かるだろう。天下太平で静かに過ごしていたところに
突然、ペリーの艦隊が来た訳ではない。因みに幕府はペリー
艦隊来航情報を来る前から入手していた。
なお、ゴローニン、リコルド組が乗って来たディアナ号と
後にプチャーチンが乗って来たディアナ号とは船名は同じでも
別の船、因みにディアナとは、英語でダイアナ、月の女神。
また 『露寇事件』 以外にも外国船による乱暴狼藉もあった。
1808年のフェートン号事件、1829年には北海道厚岸
に上陸した英国船乗員との間で銃撃戦も起きた。
その他、1848年のラゴダ号事件など。
『露寇事件』 で
ニコライ・フヴォストフが率いたユノナ号は、レザノフが
北米で米国人から購入した小型船。
ガブリィル・ダヴィドフが率いたアヴォス号は急遽ロシアで
建造された更に小さな船だった。
『露寇事件』の際、それぞれの船の乗員は、40人と25人
合わせても、露米会社武装集団、65名、
この程度の『軍事力』の前に、日本側は一方的敗退をした。
だが皇帝の許可もなく独断で軍事行動したフヴォストフ達は
ロシアに帰還するなり身柄を拘束され、牢獄に入れられ、
再び日本の施設を襲撃に来ることはなかった。
一方、『武威』で権威を保ってきた幕府は面目丸つぶれ
再び襲撃に来るはずもなかったロシア船防備のため
東北諸藩から藩兵を招集し、北方の蝦夷地へ配備したものの
彼らは戦う前から越冬に耐えられず、多くが病死した。
〔 津軽藩士殉難事件 〕など。
>このレザノフを拒絶した以降とのことであるという。
>それ以前の日本には「鎖国」という感覚は薄かったようだ。
冗談じゃない、「鎖国」、の文言こそ当時は無かったが、
それ以前から 「鎖国」を 国是とし、老中首座・松平定信は
アダム・ラクスマンからの交易要求を拒絶し退去を勧告した。
何より一次史料( 本人による公文書、もしくはその写し等 )
を確認するのが一番ハッキリするだろう。
国立公文書館、東京大学史料編纂所、などなど
松平定信が、アダム・ラクスマンへの最終回答で示した
文書が、外国に対して鎖国が国法である事を正式に確認した
最初の文書と言われている。
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_ikokusen_jiken.html#r1
原文内容一読すれば、相当厳しいものである事が判るだろう。
「 重てハこのところにも来るまじき也 」
つまり、二度と来るな、とまで申し渡している。
ただ、次のレザノフの時の老中、土井利厚とは違い
清廉潔白で知られる彼らしく、厳しい中にも一応の筋は通し
日本人送還の恩義もあり、滞在中は丁重に扱うよう命じた。
上記リンク先より
日本の対外方針、国法
御国法
------------------------------------------------------
兼て通信なき異国の船、日本の地江来る時ハ、或ハ召捕又ハ
海上にて打払ふこといにしへよりの国法にして、今も其掟に
たがふことなし
(途中略)
こまかに云さとすことの旨趣をくわしく了知ありて早々
帰帆すべき也
----------------------------------------------------
( 是迄国交の無い外国船が日本の地へ来れば捕捉するか、
海上で砲撃する事が昔からの国法であり、夫は今もこの
規則の通りである
(途中略)
事細かく説明した趣旨を念入りに確認し、了解したら
早々帰帆する事 )
出典:視聴草十集之三
江戸後期、幕臣の宮崎成身(みやざきせいしん)が、
視聴草(みききぐさ)として、記録文献等を編纂したものが
全178冊あり、その内、国立公文書館展示資料は 176冊
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hatamotogokenin2/contents/31.html
レザノフの時どころか、既にこの時点で、更に古くから
「鎖国」 が 『祖宗の法』、と認識されていた事が判る。
但し、松平定信は関係が拗れることを懸念し「方便」で
箱館からは遠い、長崎への入港のみの許可証を渡し、
取りあえずは、ともかく鎖国体制を維持することが出来た。
だが、この優柔不断さが後に禍根を残す事となった。
江戸の老中首座・松平定信は、わざわざ幕府目付・石川忠房
及び、村上義礼を現地、松前に派遣している。
長崎港入港許可証を与えたと言っても
長崎の役人が江戸のトップより権限が上な訳が無いだろう。
しかも、この許可証は単なる入港許可証で、
《 どうしてもと言うなら長崎において検討するであろう 》
としており、検討はするが交易、ましてや国交を 『約束』
したものではなかった。
せいぜい、本人の弁によれば
《 交易は好ましくないが、駄目だと言えば隙が生じる
改めて交渉しながら長崎で交易をするか、蝦夷地にするか
ゆるゆる決めればよい 》
程度の、消極的交易容認ではあったようではあるが。
その間、一体何があり、どの様なやりとりがあったのか?
渡辺京二・著 『黒船前夜』 にも記述されているが
長崎の人々はレザノフ一行を歓待し、暖かく接していた。
結局、交易・国交交渉が決裂し、長崎を離れる日には、
町人、更に役人までもが別れを惜しみ、とりわけ通詞達は
レザノフに機会を見て再来出来るようアドバイスさえした。
レザノフは宿舎の部家に日本語で『日本の御厚恩有りがたし』
と、長崎の人々への感謝の気持ちを書き付けた。
レザノフは江戸からの、けんもほろろの通達と長崎の人々が
自分たちに示してくれた温情との、あまりの落差に戸惑い
『一日中不思議な光景ばかりだ!』 と日記に綴った。
レザノフは長崎滞在中も日記を綴り、この日記は近年公開され
日本でも、大島 幹雄 訳 「日本滞在日記」 として
岩波文庫から出版されているが、
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2011/03/post-dd70.html
( 2000年、文庫本ベスト3に選ばれた )
レザーノフの『滞日日記』を追う
http://deracine.fool.jp/biography/zenroku/chase.htm
日本側でも通詞(通訳)達が記録を残しており、
長崎のシーボルト記念館に 『魯西亜滞船中日記 中山控』
として保存されていた。
前述の大島幹雄氏はこのレザノフの日記と通詞達の記録とを
突き合わせてみることで、当時の状況を深く探る事を試みた。
日露双方に残った、第一級の一次史料同士の融合の試みから
当時の状況が立体的に浮かび上がり非常に興味深い。
Wikipedia にもリンクが張られているが、大島幹雄氏が
ネットにアップしてくれたものは内容もかなり詳しい。
文化二年長崎日露会談の裏舞台を見る
−通詞たちから見た日露交渉
レザーノフ来航事件のもうひとりの主人公は、
長崎通詞たちであったといってもいい。
第一回 最初の日露会談 ※ 以下右下の(次へ)へ
http://deracine.fool.jp/biography/zenroku/z_nakayama/nakayama-diary01.htm
公式記録に残る、米国から交易を求めて初来航したのは
1791年3月、( アダム・ラスクマン来航の前年 )
ジョン・ケンドリックが率いて、紀伊大島に来航した
レディ・ワシントン号とグレース号であり、結局、祖法を盾に
交易を拒否されたが・・・
佐山和夫・著 「わが名はケンドリック 来日米人第一号の謎」
串本町では駅前に船の像も建ち、日米修交記念館も出来た
http://www.kankou-kushimoto.jp/miryoku/syukoukan.html
近年、米国側でグレース号乗組員の航海日誌も発見された
http://www.sankei.com/west/news/160428/wst1604280071-n1.html
しかし、実は、レザノフ以前から、多数の米国船が
長崎で堂々と交易しており、幕府も黙認していた。
一時期、オランダは、本国がフランスに制圧占領され
国家が地球上から消滅した。
出島のオランダ商館は生き残りをかけ、祖国の復活を信じ
この間、アメリカ傭船( オランダによるチャーター船で長崎
入港時のみオランダ国旗を掲げ、オランダ船として入港する )
で息継ぎしていた。
こちらも、Wikipedia にも転載されているが
江戸東京博物館の史料によると
1. 1797年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長の
イライザ号
2. 1798年、同上
3. 1799年、ジェームズ・デブロー船長のフランクリン号
4. 1800年、ウィリアム・V・ハッチングス船長の
マサチューセッツ号
5. 1800年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長の
エンペラー・オブ・ジャパン号
6. 1801年、ミッシェル・ガードナー・ダービー船長の
マーガレット号
7 1802年、ジョージ・スティルス船長の
サミュエル・スミス号
8. 1803年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。
9. 1803年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長の
ナガサキ号。
10. 1806年、ヘンリー・リーラー船長のアメリカ号
11. 1807年、ジョセフ・オカイン船長のエクリブス号
12. 1807年、ジョン・デビッドソン船長の
マウント・バーノン号
13. 1809年、ジェームズ・マクニール船長の
アメリカレベッカ号
米国はこれらの経験と、二度のロシア使節の交渉失敗の
研究から得た知見を礎とし、いよいよ初の公式遣日使節として
1846年7月20日、東インド艦隊司令官、米海軍准将、
ジェームス・ビッドル率いる艦隊を、箱館や長崎ではなく、
禁制の江戸湾の浦賀へ来航させ、開国を求める事になる。
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_Biddle_front.html
これに続く、第二次遣日使節、米国ペリー艦隊来航の7年前
結局ビッドルは上陸すら許されず、退去させられたが
これで米国は、日本を開国させるには、軍事力による
問答無用、砲艦・恫喝外交しかないと認識したのだろう。
二度にわたり信義を尽くしたロシアと門戸を開いていたならば
また違った歴史が刻まれていたかも知れない。
因みに、徳川家康の時代には英国とも交流があったが
その後、交流が絶たれた中で、1673年、交易再開を求めて
英国から、その名もリターン号が来航したが、幕府はこれを
拒絶し退去させた。
その前には、1640年にポルトガル船が交易再開を求めて
使節が来航したが、幕府は長崎で乗員74名中61名を処刑し
船は焼き払われ、生き残り13名は見せしめを見せられた証人
として別船で帰された。
→ 【 寛永17年 ポルトガル使節団長崎受難事件 】
>と呼んでいたそうだ(日本語との関連は不明)。
既出にあるとおり、実態はまったく逆で
ロシア人【が】トリンギット族【を】、コロシと呼んでいた。
のだが・・・、既にロシアには日本語学校もあり、日本人が
日本語を教えており、ロシア人が日本語の意味まで理解して
トリンギット族をコロシと呼んでいた可能性は十分にある。
記録に残るロシア側に保護された日本人漂流民で、古くは
大黒屋光太夫がアダム・ラクスマンに伴われ根室に帰還する
百年程前、1696年、大坂から江戸に向かう廻船が漂流し
ロシア側に保護された『伝兵衛』がいる。
伝兵衛はモスクワに移送され、皇帝ピョートル1世に謁見し
ピョートル1世の命で、サンクトペテルブルクに設立された
日本語学校の日本語教師として赴任した。
因みに有名な日本人漂流民、大黒屋光太夫一行がロシア側の
意向で移送されたのはイルクーツクまでである。
従って、光太夫に強い帰国の意志が無く、『 運命の人 』
博物学者、エリク・ラクスマンとの出会いがなかったら
彼らはイルクーツクに骨を埋めていただろう。
鎖国体制下の日本に於いては、日本人の海外渡航も
海外からの帰国も大罪であった。
光太夫とエリク・ラクスマンは大変な苦労の末、ロシア女帝
エカチェリーナ2世との謁見が実現し、帰国が許可され
イルクーツクに戻り、漂流仲間と再開し帰国する事になったが
その一人、新蔵は既に現地の女性と結婚し、庄蔵は凍傷で
片足を無くし、現地イルクーツクに設立された日本語学校の
日本語教師となり、共にキリスト教の洗礼を受けており
結局二人はイルクーツクに残留することになった。
エリク・ラクスマン、その息子、アダム・ラクスマン
帰国の意志を示した、光太夫、磯吉、小市で帰国を目指し
ロシア極東の港湾都市、オホーツクまで到達したが
エリク・ラクスマンの健康状態は日本までの往復の船旅に
耐えられそうもなく結局、随行を断念せざるを得なくなった。
大黒屋光太夫とエリク・ラクスマン別れの日、光太夫は
全身全霊で異邦人の自分を支えてくれた、大恩人である
エリク・ラクスマンの足下に跪きこれまでの尽力に深謝した。
この辺は既に、井上靖が『おろしや国酔夢譚』として小説化し
その後、映画化もされた有名な話であるが。
因みに、それらよりずっと昔から、日本はヨーロッパに
使節団を派遣している。それも正規の。
1582年、九州のいわゆる、キリシタン大名達が組織した
遣欧使節団は、西回りでヨーロッパに赴き、
1585年3月、ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、
1590年7月21日、長崎に帰港した。
なお、徳川家康は、英国人の家来に外洋船を創らせ、
日本人を乗り込ませ、1610年、メキシコまで太平洋を
往復横断させ、翌年、1611年、帰国した。
その2年後、1613年、伊達政宗は、遣欧使節を組織し
メキシコ経由で渡欧させ、ローマではパウルス5世に謁見し
1620年に帰国した。
『鎖国政策』、による影響は、むしろ日本人の海外渡航
海外からの帰国を禁じ、それを可能とする大型船の建造を
禁じた事の方が大きかったかも知れない。
それまでは東南アジアなどにも、多くの拠点も築いていた
『海洋民族』であったはずの日本人が、『海洋民族』を捨て
スケールの小さい、視野の狭い中に安住してしまい
『井の中の蛙』、状態になってしまった。
以下、『日本滞在日記』…日露交渉の夜明け前、より引用
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2011/03/post-dd70.html
日本の人々は、特に外国の事情に通じるものや、あるいは
通商に積極的なものは、幕府の鎖国を厳守する方針に批判的
なのである。表立っては示せないものの、レザーノフの日記を
読むと、他の役人がいない間に、こっそり本音を打ち明けたり
している。
たびたび取り上げられ、日本人漂流民としては、アメリカ船に
救助された、ジョン万次郎に次ぐ 「有名人」 になったが
物語のキモは、光太夫とラクスマン(父)、の絆だろう。
スウェーデン系フィンランド出身の博物学者、ラクスマンは
学者として既に名を成し、ロシア女帝とも会える立場にあり
もはや女帝への直訴しかないと考え、光太夫を連れてようやく
サンクトペテルブルクに辿り着いたものの、健康を害して倒れ
長らく光太夫の介護を受ける事になってしまった。
光太夫の懸命の介護で何とか動けるようになったラクスマンは
更に、夏の離宮ツァールスコエ・セローへ移っていた女帝を
追いかけ、謁見が実現し、ドイツ出身の女帝は深く同情したが
帰国についての勅令が出るまでには更に長い月日を要した。
結局、帰国が許可されたのは、強く帰国の意志を示していた
光太夫含む三人のみで、他の二人はイルクーツクに残留し、
そこに設立された日本語学校の日本語教師となった。
その内の一人、新蔵は、その後イルクーツクに送られて来た
若宮丸漂流民 ( 後にレザノフが長崎に一部を連れ帰った )
とも出会い、彼らの世話をする事になったが、そこでは
同じ若宮丸漂流民同士の感情の絡み合い、対立も生まれた
Wiki の方でも、思った以上に新蔵や善六についても記述され
ロシア国内での日本人漂流民達の動向が興味深い
神昌丸 新蔵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%94%B5
若宮丸 善六
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%85%AD
日本人同士の深刻な対立は、レザノフが日本に連れ帰る時も、
クロンシュタットから、大西洋・太平洋を横断し、カムチャッカ
に到達するまで続いた。
レザノフは通訳として頭も良く、漢字の読み書きも良く出来た
ロシア残留組の一人善六を同行させていたが帰国組との対立で
艦内の空気をこれ以上悪くできないとして、艦長・クルーゼン
シュテルンの判断もあり、善六はカムチャッカで降ろされた。
その後、帰国組は、日本人として初の世界一周になったが
艦名の、ナジェージダ( 希望 )、が何とも・・・
日本帰還を果たした若宮丸漂流民たちは、レザノフ帰帆後も
7ヶ月も長崎に留め置かれ、江戸に移送され、江戸の仙台藩
上屋敷で更に2ヶ月間幽閉状態で尋問を受けた。
レザノフ滞在中ですら、太十郎の自殺未遂事件が起きた。
初めて世界一周した日本人 若宮丸漂流民
http://deracine.fool.jp/wakamiya/articles/introduction01.htm
>「鎖国論(1801)」という書物からである。
>この書は、ドイツ人医師「ケンペル」が日本の国情を
>記した「日本誌」の一部を訳出したものであり、この
>本文中の語を志筑忠雄は「鎖国」という新造語で対応した
そもそも、ケンペルが、出島のオランダ商館付き医師として
日本に滞在したのは、アダム・ラクスマン来航より百年程前の
1690年から1692年までの事だが。
なお、この間にケンペルは二度もオランダ商館長の江戸参府
に同行した、つまり長崎から江戸まで二往復、日本を旅し
通詞・今村源右衛門を助手として資料を収集した。
この時の日本観察・研究が後に、「日本誌」として欧州で
各国語に翻訳・出版され、欧州に於ける日本研究書となった。
後にその内のオランダ語版を志筑忠雄が入手し、
その中で、日本の対外政策に触れた部分の題名が
付論第6章、
「今日のように日本国を閉鎖してその国民が国内においても
国外においても外国と通商を営むことを許さないことが
同国にとって利益ありや否やについての研究」
と言う、あまりにも長いものであったため、「鎖国」という
新造語で対応し、「鎖国論」として1801年に出版した。
つまり、ケンペルは志筑忠雄の、「鎖国論」の百年以上も前の
時点で、既に日本の国情を、『鎖国状態』、と捉えている。
但し、ケンペルは日本の、『鎖国体制』を肯定的に捉えており
これに志筑忠雄は、「我が意を得たり!」、と納得し、
『鎖国論』、を著したのだろう。
だが鎖国体制下、日本人の海外渡航、海外からの帰国を禁じた
幕府にとっては、外国船が日本人漂流民を連れて来る事自体が
表面上は謝意を表しながらも、迷惑な事でしかなかった。
精々、帰還漂流民を徹底的に尋問し、情報収集はしたが
そうした中で、太十郎の自殺未遂事件も起きた。
アダム・ラクスマンの時の、松平定信にしても、
「重てハこのところにも来るまじき也」、
レザノフの時の、土井利厚にしても、
「再び来る事を費す事なかれ」、とし
要するに二人とも、「二度と来るな」、と申し渡している。
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_ikokusen_jiken.html#r1
松平定信は、以後、日本人漂流民送還に際しても
長崎以外では受け付けないとし、その場合も日本の海岸線が
見えるところを航行してはならない、とした。
ケンペル滞日後もあまりに長く鎖国体制に安住し、井の中の蛙
状態となり、日本の常識は世界の非常識となっていった。
レザノフの時の、土井利厚の対応など最たるものだろう。
アダム・ラクスマンの時の、松平定信にしても、一方では
それ以前から、林子平が兵学書、『海国兵談』を著し
ロシアの南下に警鐘を鳴らし、海防策などに言及していたが
身分制度、その秩序維持にも厳格だった松平定信は
本の中身より、そもそも幕閣でもない者が、幕政に口出しする
事自体が不敬だとし、発禁処分、版木没収、林子平自身をも
処罰した。『蛮社の獄』、の前座の様な事件だった。
結局、ペリーの、問答無用、砲艦恫喝外交を迎える事になる。
徳川家康も伊達政宗も、それぞれ日本国内で西洋式大型帆船を
建造し、それらの船は太平洋横断航路に投入された。
『 サン・ブエナ・ベントゥーラ号 』 船主 : 徳川家康
http://willadams.anjintei.jp/wa-03-will_adams-itou.html
家康は英国人の家臣、ウイリアム・アダムス( 三浦按針 )
に命じて、伊豆半島の伊東で建造させ、その後この船には
1610年、京都の貿易商人、田中勝介他日本人も乗船し
浦賀からメキシコのアカプルコまで太平洋を往復横断した。
記録に残る中では初めての日本人の太平洋横断となった。
また伊達政宗は、スペイン人提督セバスティアン・ビスカイノ
に協力させ、仙台藩領内で西洋式大型帆船を建造した。
『 サン・ファン・バウティスタ号 』 船主 : 伊達政宗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%BF%E5%8F%B7
伊達政宗は、支倉常長ら【 慶長遣欧使節 】をメキシコ経由で
渡欧させる際、この船を太平洋往復横断に使用した。
1860年「非正規」遣米使節 『 咸臨丸 』 の太平洋横断は
田中勝介の太平洋横断から、250年も経っての事だった。
しかも咸臨丸はオランダで建造された船,操船は米国人だった
http://tozenzi.cside.com/kanrinmaru-byou.htm
かつては、国産大型帆船で世界に羽ばたいていた日本人が
ケンペル以後も長く続いた鎖国体制のもと
海洋民族ではなくなっていたのである。
因みに、こちらが正規の遣米使節
http://tozenzi.cside.com/oguri.htm
レザノフや、アダム・ラスクマン来航以前から、
交易を求めて、ロシアや米国から来航船があったが、
交渉が成立する事はなかった。
大佛次郎賞受賞、渡辺京二・著 『黒船前夜』 より
一部要旨抜粋
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
近年の史学会のはやりの言説として、寛永年間( 1624-1644 )
の「鎖国令」とはポルトガル船の渡来を禁じたものにすぎず
その他の外国船は、たまたまその後やって来なかっただけだ
というのだ。
だがこれは甚だバランスを欠いた極論ではないのか。
ベニョフスキーやシュパンベルクが日本沿岸に接触した時の
状況からしても、「鎖国」の意識は、松平定信政権のはるか
以前から存在しており、松平定信はそれを明文化したに
すぎないと見るのが妥当だろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ケンペルが滞日した、1690年から1692年
彼は日本の国情を『鎖国状態』と捉え、これを是認しているが
それには彼が生まれ育った環境が影響しているのだろう。
紛争に明け暮れ、異端審問、魔女狩り処刑が他より永く残った
故郷の現状を憂い、鎖国が日本に於いて外国のゴタゴタからの
バリアとなっていると感じたのだろう。
実際、彼が来日する前に起きた、天草・島原の乱は
カトリックとプロテスタントとの代理戦争の側面もあった。
新興プロテスタント国のオランダは、幕府側につき
海上からの艦砲射撃で、一揆勢が立て籠もる原城を攻撃した。
だが、ケンペル以後も、永く続いた鎖国体制により
事なかれ主義にどっぷり浸かり過ぎた為か
日本の近辺で遭難した日本人漂流民を送還するのにも
レザノフの時の土井利厚に至っては日本では受け付けないとし
今後は、オランダか、バタヴィア( 現:ジャカルタ ) への
送還を申し渡した。
http://deracine.fool.jp/biography/zenroku/z_nakayama/nakayama-diary04.htm
これには、さすがにレザノフも呆れ返った様だが
これが鎖国体制にどっぷり浸り切った日本の実態だった。
ケンペルが是認した日本の鎖国体制は、功罪あっただろうが
井の中の蛙状態に安住したままでは、視野狭窄に陥り、
「 日本の武士がおくれをとる事はない 」 など
現状認識が出来なくなってしまった事例だろう。
>Wikiでは「1807年にクラスノヤルスクで病死」とあるけど、
>どっちが正しいのかな?!
超亀レスながら、小生同様、「検索」で誰かがここに辿り着く
と思いつつ、
>どっち の片方が不明ながら
レザノフは、クラスノヤルスクで 『事故死』 した。
レザノフは長崎の後、偵察がてら北海道の宗谷や、樺太の
幕府側番所に立ち寄り、役人から酒や肴で接待されたが、
早々に帰帆するよう求められ、レザノフもこれに従い
早々に帰帆し、カムチャッカに帰港した。
なお、長崎では帰帆に際して、日本側から無償で薪水食料等
の提供があり、大量に積んでいたため
( ※ この辺、Wikipedia の方の記述は完全に間違っている )
http://deracine.fool.jp/biography/zenroku/z_nakayama/nakayama-diary03.htm
食料・日用品に困窮していたカムチャッカでは
そこの住民に米や塩など、多くを分け与えた。
因みに当初はレザノフ側が、皇帝からの献上品も受け取らない
非礼な人達から、食べ物を恵んでもらおうとは思わない
幾らですか?、金を払います!、と受け取りを拒否していたが
幕府側も多少の献上品を受け取る事で互いに妥協し、
説得に応じてようやく許諾した。
レザノフはカムチャッカで船をナジェージダ号から露米会社の
マリア・マグダレナ号に乗り換え、世界一週の途上にあった
ナジェージダ号に別れを告げ、アリューシャン及び北米方面へ
向かった。
アラスカでは米国人から小型船を購入し、漏水欠陥があった
マリア・マグダレナ号から乗り換え、当時スペインの植民地
だった、カリフォルニアのサンフランシスコに来航し
スペイン人総督から連夜のパーティーで歓待された。
但し、交易はスペイン本国の意向で許諾されなかったが
船を入港させ、食料等、金を出して買うのは問題なかったので
彼は食料を船に満載してアラスカに運ぶことが出来た。
入港証を没収され、二度と来るな、と申し渡された日本とは
同じ交易拒否でも大違いだった。
なお、レザノフは総督の娘とネンゴロになり婚約までした
この時、レザノフ42歳、娘のコンチータ(コンセプシオン)
15歳!、オイオイと言いたくなるが、それはともかく
レザノフはカリフォルニアでの交易についてロシア本国と
スペイン本国との間での交渉の進言と、コンチータとの
結婚の許諾を求めて、西の果て、サンクトペテルブルクまで
シベリアを極東から横断の旅に出た。
クラスノヤルスクで氷結した川を馬で渡河しようとした時
氷が割れ、更に運悪く割れて剣のようになった氷の破片が
レザノフの太股を貫く重傷を負った。
但し、これで即死したわけでもなく、リュウマチの持病を抱え
遠大で過酷な航海、過酷なシベリア陸路での横断、そこへ
重傷を負った傷の悪化、などが重なっての逝去だったため
『病死』、とされてるが、
こちらに日本側でアーカイブされているロシア側の文献があり
文面はロシア語ながら、レザノフが馬ごと転倒した場面の
挿絵あり
https://archive.is/20121205064209/http://derjava.pskov.ru/cat/cattema/catcattemaall/catcattemaallb/catcattemaallbrez/1800/
なお、Wikipedia では
>その早い死はロシアおよびアメリカ大陸の運命に
>大きな影響を与えた。
と、あるが、日本への影響は、レザノフが早死にしようが
遅死にしようが、それ程変わりは無かっただろう。
そもそも『文化露寇事件』自体が、皇帝の許可もなく行われた
独断軍事行動であり、レザノフ自身、皇帝への上奏、及び
部下への命令を撤回しており、皇帝も不快感を示し
全軍の撤退を命じた。
その後、スペインが植民地支配していたカリフォルニアは
新たに独立したメキシコ領となったが、1848年の
米・メキシコ戦争の結果、米国に分捕られてしまう事になる。
メキシコからは米国による侵略戦争と呼ばれる。
超絶植民地主義者の分身同士の分捕り合戦。
アフリカから拉致・連行された、黒人奴隷の哀史はつづく。
>宗谷や、樺太の幕府側番所に立ち寄り
の幕府は、松前藩に訂正です。
ところで、ウィキペディアも、ありがたいシステムながら
結構、間違いの多さが以前より指摘されており
http://tozenzi.cside.com/wikipedia.html
間違いまでコピペしたようなブログ等も時折散見され
『ニコライ・レザノフ』 の項目にしても
>アダム・ラクスマンと、日本の江戸幕府老中職の松平定信
>との間に国交樹立の約束が交わされていた
そんな『約束』をした公文書記録がどこにあるのか?
>1804年(文化元年)9月に長崎の出島に来航する。
出島に来航、?、そもそも当時の出島は、オランダ人が居留し
交易をしていた彼らの聖地であり、日本側からすれば、彼らを
幽閉状態で管理していた特別管理区域であり、そんな所へ交易
も国交もない国の船が、いきなり来航出来る訳がないだろう。
しかしその先の記述では
>当初は長崎周辺の海上で待たされ、出島付近に幕府が設営した
>滞在所への上陸が認められたのは来航から約2か月後だった
と、チグハグな事になってしまっている。
参考:レザーノフの『滞日日記』を追う
http://deracine.fool.jp/biography/zenroku/chase.htm
因みに、オランダ人や中国人が出島で交易していた
との趣旨の記述を時折アチコチで見掛けるが、
中国は中国で、内陸部の唐人屋敷に居留し交易していた。
http://isidatami.sakura.ne.jp/touzinyasiki_1.html
長崎市の詳細地図で確認すると出島、梅ヶ崎(現:梅香崎町)
唐人屋敷(現:館内町)が結構狭いエリアに集中している。
それらを統括管理する長崎奉行所は、少々離れた所にあった。
http://deracine.fool.jp/biography/zenroku/z_nakayama/nakayama-diary01.htm
かつては、平戸が、欧州4カ国の、対日交易の拠点だったが
http://www.y-history.net/appendix/wh1002-006_1.html
>装備も食料も不十分のまま通商の拒絶を通告される。
これは完全に違う、長崎の現地役人、通詞、町人達は
江戸からの縛りの中で出来るだけの事はしている。
船の修理の為の、銅板の提供、
帰帆に際しては薪水食料の提供もあった。
出島のオランダ商館長ドゥーフは、一応の外交辞令は示したが
ただでさえ商売敵の中国に加え、ロシアがそこに加わる事は、
両手を挙げて歓迎できる事ではなかった。
長崎/出島/唐人屋敷
http://www.y-history.net/appendix/wh0801-123.html
レザーノフが持参した在ペテルブルク・オランダ大使の手紙は
レザーノフを親切に待遇することと、その計画、つまり
日本との通商交渉を幇助することを要請したものであった。
が、ドゥーフはレザーノフを助けるという点については、
一線を画すこと、つまり中立の立場をとることにした。
第六回 日露交渉とオランダ商館長ドゥーフ
http://deracine.fool.jp/biography/zenroku/z_nakayama/nakayama-diary06.htm
一応、ウィキペディアの 『出島』、をチェックしてみて
ぶっ飛んだ
>1804年(文化元年)9月にロシアからニコライ・レザノフが
>出島に来航し、ロシアとの国交樹立、通商を要求した。
>だが、レザノフたちは半年間出島に留め置かれ、翌年に
>長崎奉行所において、通商の拒絶を通告され釈放された。
『出島』、の項目までもが、こんなデタラメを、
>ニコライ・レザノフが出島に来航し・・・
>レザノフたちは半年間出島に留め置かれ・・・
いやはや・・挙げ句には全権大使が、>釈放された ??
日本がレザノフ一行を、長崎まで拉致連行した訳ではないが
・・・脱力感が漂う。
因みに、かつてはオランダが支配していた台湾は、
日中混血児、鄭成功が、1661年、オランダ人を駆逐して
台湾を占領し、新たな台湾の支配者となった。
鄭成功はその後、日本でも英雄視され、1715年に、
近松門左衛門の脚本で大坂竹本座で上演され大ヒットした。
http://www.y-history.net/appendix/wh0802-007.html
「長崎」 の後、日本の北方拠点襲撃まで、何があったのか?
大佛次郎賞受賞、渡辺京二・著 『黒船前夜』 他
少しだけ調べた、ロシア側の文献、日本側の古文書
などから、要点・要旨をピックアップ引用し、
時系列等、少し整理してみる。
長崎を後にしたナジェージダ号は、直前の出港地である、
カムチャッカの拠点、ペトロパブロフスクカムチャッキー、に
1805年5月25日、帰港し、長崎で大量に積み込んだ
米や塩を、食料に困窮していた地元住民達に分け与えた。
そこにはレザノフの部下であるニコライ・フヴォストフ、及び
ガブリル・ダヴィドフも来ていたが、レザノフは、余程彼らに
長崎での、全権大使への非礼な対応を吹き込んだのだろう
フヴォストフ、ダヴィドフ両人は、そんなレザノフの心情を
損得無しに、純粋に忖度(そんたく)していく事になる。
しかし、当地には、ロシア政府からレザノフに宛てた命令書も
届いており、アレウト(アリューシャン)、ロシア領アメリカ
(アラスカ)を視察し、問題点の是正に尽力せよ、とあった。
国策会社、露米会社を率いる立場でもあったレザノフは
まずは、こちらの訓令を優先させねばならず、露米会社の船
マリア・マグダレナ号で、フヴォストフ、ダヴィドフを伴い
帰港の翌月、6月には、アメリカ方面に向けて出港した。
アリューシャン列島ウナラシカ島に到着し、レザノフはここで
いよいよ、ロシア皇帝宛に、7月18日付で、日本の北方拠点
劫掠計画の上申書をしたため、その中で、「 勅許を仰がずに
本件に着手する事につきましては私を御処罰ください 」
と書き加えた。
つまり、陛下の許可を待たずに、部下を介して襲撃計画を実施
しますが、全ての責任は私にあり、問題があれば、どうぞ私を
処罰して下さい、との、身命を賭した決意表明でもあった。
その後、レザノフ達は、アラスカのコディアック島を経て
露米会社経営の拠点、シトカに、8月26日に到着し、
米国人から小型船を購入し( ユノナ号、後に、文化露寇事件で
フヴォストフが指揮を執る )、また現地でも小型船が建造され
( アヴォス号、後に、ダヴィドフが指揮を執る )
シトカで越冬した翌年、レザノフは、漏水欠陥のあった
マリア・マグダレナ号から、ユノナ号に乗り換え
1806年3月24日、スペイン支配下のカリフォルニアの
サンフランシスコに入港し、大歓迎を受けたものの、
交易は拒否され、それでも食料を船に満載してしアラスカに
運ぶ事は出来た。
1806年7月、レザノフは、アラスカのシトカをアヴォス号
を伴い、ユノナ号で出港し、オホーツク港を目指した。
航海途上、レザノフは、ユノナ号船上に、アヴォス号艦長、
ダヴィドフをも呼び寄せ、1806年8月8日、フヴォストフ、
ダヴィドフ両人に、日本の北方拠点襲撃に関する訓令を下した。
まずアヴォス号が、(樺太南端の)アニワ湾に先着し
ユノナ号は、オホーツク港でレザノフを降ろしたのち
アニワ湾でアヴォス号と合流して襲撃を実行するものとした。
1806年9月15日 ユノナ号はオホーツク港に到着した。
上陸し落ち着いたところで、レザノフの頭も少々冷えたのか
9月24日、先の、8月8日の訓令を変更する事にし
皇帝への上奏も撤回した。
レザノフは長崎で、民衆は日本政府(幕府)の鎖国政策に
批判的で不満を抱いる、との感触を得、( 実際、長崎の通詞
などはレザノフに再来を求め、秘密工作まで持ちかけた )
ならば、武力で刺激を与えてやれば、それ見たことかと
日本国内では、開国に向けての気運が高まるのではないか
と、考えたが、日本人のメンタルからして逆効果にならないか
ましてや、皇帝の勅許もないままでの独断軍事行動は、
リスクが大きすぎる、と反省したのか、フヴォストフに
「ユノナ号は、直ちにアメリカ(アラスカ)に帰航せよ
アヴォス号にも同様の訓令を伝えよ、しかし、アニワ湾に
進入可能なら同地を視察し、あわせて原住民を懐柔せよ」、と
先の訓令への変更訓令を下し、「貴官の任務はアメリカ帰航を
以て完全に遂行せられたるものと認むべきも、アニワ湾偵察
にも充分努力せらるるよう期待す」、と言われても・・
フヴォストフは頭が混乱した、ユノナ号には直ちにアメリカに
帰れと言いながら、結局、ユノナ号もアニワ湾に行かねばなら
ない。どうせよと言うのか、レザノフの真意を確かめるべく
フヴォストフはレザノフの宿舎を訪ねたが、
レザノフはサンクトペテルブルクに向けて出発した後だった。
結局、フヴォストフは、8月8日の訓令に従う事にした。
日本への報復懲罰攻撃は、レザノフ及びダヴィドフと共に
1年以上暖めてきたもので、放棄するには忍びなかった。
レザノフは先の訓令を変更するとは言ったが、明確に撤回した
とは言っていない、と、強引に解釈することにした。
10月6日 ユノナ号は樺太南端、アニワ湾に到着し、その後
上陸しては、原住民(樺太アイヌ)に贈り物をし、懐柔しつつ、
いよいよ、久春古丹(クシュコタン)の松前藩運上所襲撃で
『文化露寇事件』、が勃発する事になる。
日本の北方拠点への一連の襲撃が行われている頃、レザノフは
シベリアを陸路で、サンクトペテルブルクに向けて横断中
だったが、途中のクラスノヤルスクで没した。
襲撃の詳細は、長くなりすぎるので、主な結果を既出より
コピペ転載、文化3年9月( 1806年10月 )より
文化3年9月 樺太 クシュンコタン 死者 0
略奪品 米600俵
文化4年4月5月 択捉島 ナイホ、シャナ 死者 3人
略奪品 米30俵 他に武具など
文化4年5月6月 利尻島 死者 不明
略奪品 米500俵 他に大砲など
なお、戦闘による兵士の戦死者は、日露双方共に、1名も確認
されていない。シャナの3人は漁業関係者2名と現地のアイヌ
1名が、流れ弾に当たったもの、
また、ロシアの水兵2名も見つけた酒を飲み過ぎ、泥酔状態で
取り残されている所をアイヌに発見され撲殺された。
当時、択捉島最大の拠点、紗那には、日本人が300人程
詰めていて、その内、「武士」 は260名程だったという。
沖に現れた、小型武装商船2隻、( ユノナ号とアヴォス号 )
『露米会社武装集団』、総勢、65名。
65人を相手に、日本の「武士」、260人が全く歯が立たず
戦国時代から、二百年もの間、変わりばえしない、火縄銃など
火器に圧倒的な差があり、ほうほうの体で皆、山中に逃げた。
一時捕虜になり、後、解放された、大村治五平『私残記』より
老中の土井利厚は、「 腹の立つような乱暴な応接をすれば
二度と来なくなるだろう、もしロシアが怒って攻撃してきても
日本の武士は、いささかもおくれをとる事はない 」
など豪語していたが、結果は一方的敗北に終わった。
だがロシア側でも、首謀者達は、皇帝の許可もなく独断で
軍事行動したとして身柄を拘束され、牢獄に入れられ
ロシア船が再び日本を襲撃に来ることは無かった。
レザノフ一行が帰帆した後の長崎港では、オランダ船を偽装
した英国の軍艦が殴り込みした、フェートン号事件が起き
長崎奉行、及び、鍋島藩家老は、責任をとって切腹した。
日本側古文書にみる『 文化露寇事件 』『 ゴローニン事件 』
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_bunkaroko_main1.html#roko01
ロシアから来た黒船−ロシア船、長崎来航秘話
http://deracine.fool.jp/biography/zenroku/z_nakayama/nakayama-diary08.htm
事件後、「武威」で権威を保ちながらも、面子丸潰れにされた
幕府は「ロシア船打ち払い令」、など発令しながらも、何と
幕府内には、フヴォストフからの書簡への返書まで用意され
もし、ロシアが先の、乱暴狼藉を謝罪してくるならば、
ロシアとの交易を開始しても良い、とする意見まで出ていた。
渡辺京二・著 『黒船前夜』 より
こちらの方のブログにも詳しく紹介されていた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-440.html
レザノフの長崎帰帆後、幕府は特にロシア船を意識したのか
「文化の薪水給与令」、を発し、困窮した異国船には薪水を
提供し、穏便に帰国してもらう事としていた。
その後「ロシア船打ち払い令」「異国船打ち払い令」、を経て
「天保の薪水給与令」を発令するなど、場当たり的な対応が
繰り返された。
>朗報であったのかもしれない。
>レザノフの死後、ロシアの日本侵略は下火となり・・・
「下火」、とは、その後もつづいた事を意味するが
どこで?、どのような?
>「朗報」?、何が、どのように?
レザノフが、早死にしようが、遅死にしようが
そもそも部下による独断軍事行動であり、それが為に
首謀者達は投獄され、再び日本を襲撃に来る事は無かった。
超絶植民地主義帝国・英国の分身たる、極めて好戦的な
覇権主義・米国にとっては、邪魔者も減り、覇権・領土拡張を
進める上では朗報ではあっただろう。
巡り巡って日本にも影響する事になるが。
もとスペイン領で、その後独立してメキシコ領となった
カリフォルニアやテキサスなどへ、米国から大量の入植者を
送り込み、入植者保護を口実に、メキシコに戦争を仕掛けた。
(米墨戦争)
メキシコからは、米国による侵略戦争と呼ばれる。
それらを米国領に取り込み、東海岸から西海岸まで綺麗に
自国領となった米国は、太平洋の制海権をめざし
ハワイ王国をねじ伏せ、触手を日本にまで伸ばしてきた。
問答無用・砲艦恫喝外交で、禁制の江戸湾に強引に押し掛けた
ペリーの黒船である。しかも単なる脅しではなく
◆ ペリーには、本気で日本を武力制圧する気があった。
また、小笠原を米国の植民地にする計画など、もし日本が
ことごとく米側の要求を拒絶してくるなら、流血も厭わず
武力で日本をねじ伏せる気であった事が、残された書簡など
から明らかにされている。
こちらの方のブログに詳しい。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-157.html
↑ の、「4席」 は4隻の誤変換かと
仮にペリーの日本への武力行使が実行されていたなら
『文化露寇事件』 の様な、北方の辺境地での小競り合い
どころの話ではなかっただろう。
また、隣の朝鮮には、1866年、米国の武装商船
ジェネラル・シャーマン号が、不法侵入、武力攻撃をかけ
住民への虐殺、略奪が行われたが、激怒した民衆は
この海賊船の焼き討ちに成功した。
しかし、1871年、米国は、日本の長崎で艦隊を編成し
朝鮮に向かわせ、朝鮮を襲撃し、謝罪と交易を要求した。
( 戦死者兵士、朝鮮側・240名、米側・3名 )
その後も米国はスペインとの戦争で、スペインの植民地
であった、プエルトリコ、グアム、フィリピンを奪取し
キューバを米国の保護国とし、カリブ海から西太平洋に至る
広大な領域を支配下に置いた。
部下のフヴォストフらによる『 秘密遠征 』
日本の北方拠点への襲撃が始まった頃
レザノフは、サンクトペテルブルクに向けて
シベリアを陸路で横断中だった。
クラスノヤルスクで亡くなったレザーノフは、
撤回した日本襲撃の命令が、まさか実行されたとは
思っていなかったろう。
<露寇>
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/09/20180901t13013.htm
<再会>
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/08/20180822t13010.htm
<レザーノフの死>
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/08/20180829t13013.htm
>対応に苦慮した土井は、儒家「林述斎」に意見を求めた。
>すると述斎、「ロシアとの通商は『祖国の法』に反するため
>拒絶すべきである」という強硬な態度を示す。
>土井もさもありなんと、「ロシアが武力を行使しても、
>日本の武士はいささかも後(おく)れをとらない」と主張し
>結局、レザノフの要求を拒絶することになる。
林述斎は、ただの在野の学者ではなく、五代将軍、徳川綱吉の
代からの幕府お抱えの学問所の、大学頭( だいがくのかみ )
であり、林大学頭述斎とも称され、その後、この学問所は
幕府直轄の学問所、「昌平坂学問所」となった。
その名残が、現在の東京都文京区にある「湯島聖堂」で
西の太宰府天満宮と並び受験生の合格祈願の聖地にもなった。
ところで、レザノフ自身による、皇帝への上奏及び部下への
命令の撤回と共に、極めて大事な部分が割愛されているが
林述斎は、『祖国の法』でなく、『祖宗の法』、に反するため
ロシアからの、国交・交易の要求には応じられない、としたが
ラクスマンの時に信牌を与えた経緯がある以上、礼節をもって
( わざわざ船を長崎まで回航させてくれた、ロシアからの
全権大使である ) レザノフを説得するしかないと説いた。
ー( 大河内文書 林述斎書簡 )ー
『祖宗の法』、つまり、国交は、朝鮮と琉球の二国のみとし
中国(清)とオランダの二国は、交易のみとし、これら四カ国
以外とは交流しない、日本人の海外渡航・帰国も認めない事が
代々受け継がれてきた定めであり、
この『祖宗の法』、を曲げる事は出来ないとした。
つまりこれは、幕府お抱えの学問所のトップの見解であり
幕政を担った老中達もこの見解を踏襲している。
『祖宗の法』であり、レザノフの時になって突然持ち出された
見解ではない。それが幕閣達の認識でもあった。
その事は先のアダム・ラクスマンの時の、老中首座・松平定信
の時にも既に示されたが松平定信は関係が拗れることを懸念し
箱館からは遠い、長崎港への入港のみの許可証(信牌)を与え
取り敢えずは鎖国体制の維持が出来た。
アダム・ラクスマン以前から、外国船の来航はあったが
交渉が成立する事はなかった。
当時でも、外国事情にも少しは通じた、広い視野を持った、
学者・知識人、杉田玄白や大槻玄沢などは、祖宗の法に拘り、
更には礼節を欠いた冷淡な幕府の対応を批判したが。
レザノフは、サンフランシスコでも交易を拒否されてしまうが
礼節をもって迎えられ、禍根を残すことはなかった。
海上待機を含め、半年も幽閉状態に置かれ、待たされた挙げ句
長崎入港証を没収され、「 二度と来るな 」、と申し渡された
日本の場合とは、同じ交易拒否でもまるで違った。
その後オランダからは、1844年オランダ国王からの親書を
携え、軍艦パレンバン号が長崎に来航し、『祖宗の法』に拘り
国際情勢の変化に対応出来ない幕府の姿勢に警鐘を鳴らすべく
国交樹立を迫ったが、結局、幕府は長年の交易がありながら、
国交については『祖宗の法』、を盾にこれを拒絶した。
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_dutchnews_kingad_front.html
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_dutchnews_kingad_main.html
結局ペリーの、問答無用・砲艦恫喝外交を迎える事になった。
ロシア皇帝・アレクサンドル1世の国書と、先のラクスマンに
渡されたた長崎入港許可証を携え、国交と交易を求めて長崎に
来航した、第2次遣日使節・ニコライ・レザノフに対しての
幕府の礼節を欠いた冷淡な対応が、レザノフを憤慨させ
レザノフ自身は、その後撤回したものの、レザノフからの
撤回命令をも無視した、部下による報復懲罰攻撃に発展した。
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/09/20180901t13013.htm
1806年10月 ( 文化3年9月 )、樺太の松前藩番所
襲撃に始まった『文化露寇事件』だったが、ハイライトの
翌年の、択捉島襲撃( ナイホ・シャナ )及び、その後の
利尻島襲撃は、〈 レザノフ没後 〉 に起こった事件である。
襲撃が始まった頃、レザノフはサンクトペテルブルクに向け
シベリアを陸路で横断中だったが、途中のクラスノヤルスクで
事故で重傷を負った傷の悪化などで没した。
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/08/20180829t13013.htm
津太夫ら仙台藩の漂流民をも乗せたナジェージダ(希望)号は
クロンシュタットを出て、喜望峰は経由せず、大西洋・太平洋
を横断し、カムチャッカで漂流民の一人、「善六」を下船させ
1804年10月9日 ( 文化元年9月6日 ) 長崎港外
伊王崎沖に到着し、長崎奉行所役人の臨検を受けた。
http://deracine.fool.jp/wakamiya/articles/introduction01.htm
http://deracine.fool.jp/biography/zenroku/chase.htm
レザノフは臨検に乗り込んだ役人に、笑顔で、しかも日本語で
「 ミンナ ヨイネ ニッポンノ ヒトハ 」 と挨拶したが
しかし、レザノフ一行及び、大変な苦労の末、帰還を果たした
日本人漂流民に対する幕府の対応は極めて冷淡だった。
鎖国体制下、日本人の海外渡航も海外からの帰国も御法度
であった。そうした中で太十郎の自殺未遂事件も起きた。
これに衝撃を受けたレザノフは、なりふり構わず役人に
漂流民達を一刻も早く親族の元に返すよう訴えたが、
受け入れられず、レザノフ帰帆後も彼らは長らく拘留された。
江戸の老中・土井利厚は、今後は、外国船が救助した日本人
漂流民の送還さえ、日本では受け付けないとしたのである。
http://deracine.fool.jp/biography/zenroku/z_nakayama/nakayama-diary04.htm
★ 古文書にみる、幕府よりレザノフに与えた書翰
出典: 視聴草三集之九
我国むかしより海外に通問する諸国少からずといへとも事
便宜ニあらざる故に、厳禁を設て我国の商戸外国に往来を
とどめ、外国の売船もまた容易く我国に来る事を許さず
------------------------------------------------------
我国は昔、海外にて通航する国々も少くは無かったが、
問題があったので厳禁し、我国の商人が外国に往来する事を
止めさせ、外国からも商品が我国に入らないように渡来も
許可しなかった。
----------------------------------------------------
※ 実際、徳川家康の頃までは、スペイン・ポルトガル・英国
とも交流があったが、その後これらとは交流を断絶した。
断絶以前には、日本人も欧州や米大陸にも出かけていた。
ー (略)ー
あらたに好ミを結ぶハ素より又我国の禁ゆるがセになしがたく
ここを以て通する事をセス、朝廷の意かくの如し、
再び来る事を費す事なかれ
すミやかに帰帆すべし
------------------------------------------------------
新たに好みを結ぶ事は本来我国の国法をゆるがせにする
事となり、これはできない。
このため国交を行わないのが国家の方針である。
再び来る様な無駄な事をしない様に。
早々帰帆する事。
------------------------------------------------------
※ 好み( よしみ )を結ぶ = 国交を樹立する。
要するに、『祖宗の法』、により、好みは結ばない、とした。
更には、『二度と来るな』、とっとと帰れ、と申し渡した。
これが、半年も幽閉状態で待たせた挙げ句の返答だった。
既出の通り、間違いが目立つが、ざっと見渡してみても
更にとんでもない間違いが・・・
>長崎奉行所において長崎奉行遠山景晋(遠山景元の父)から
>唐山(中国)・朝鮮・琉球・紅毛(オランダ)以外の国と
>通信・通商の関係を持たないのが「朝廷歴世の法」で議論の
>余地はないとして・・・
長崎奉行、遠山景晋(とおやま かげくに)・・・???
そもそも、遠山景晋は、レザノフ長崎来航の報を受け
江戸幕府内で協議がなされ、老中の土井利厚らによって
「朝廷歴世の法」=『祖宗の法』、により、好み
(よしみ = 国交) は結ばない、交易も拒否する、二度と
日本に来てはならない、とする決定事項をロシア側に通達
するために、江戸から長崎に出張して来た特使(目付)だが。
http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2011/03/post-dd70.html
※ レザノフの長崎来航は、1804年10月9日 、だが
ユリウス暦では、1804年9月26日、になる。
当時のロシアではユリウス暦が使われていた。
和暦では、文化元年9月6日、になる。
当時の長崎奉行は、二人体制で、一人は江戸に、もう一人は
長崎に赴任する事になっていたが、レザノフ長崎来航により
二人とも長崎で対応することになった。
肥田豊後守頼常と、成瀬因幡守正定である。
つまり、レザノフは、江戸幕府名代として遠山景晋、及び
長崎奉行、肥田頼常と成瀬正定から、幕府の決定事項を
申し渡された。
日露会談は、文化二年三月六日・七日・九日と三回、
立山にあった長崎奉行所でおこなわれた。
日本側からは、江戸からの特使である目付の遠山景晋、
長崎奉行・肥田豊後守、成瀬因幡守が代表として
ロシア側からは、レザーノフ、フリードリッヒ
フォッセの三名が、この会談に臨んだ。
http://deracine.fool.jp/biography/zenroku/z_nakayama/nakayama-diary01.htm
もっとも、遠山景晋も、後に長崎奉行に就任しているが、
それはずっと後の( 1812年ー1816年 )の事である。
結局、レザノフ一行を乗せたナジェージダ号が、長崎を離れる
のは翌年の、1805年4月 ( 文化2年3月 ) になった。
帰国の途へ
http://deracine.fool.jp/biography/zenroku/z_nakayama/nakayama-diary07.htm
幽閉状態で半年も待たせ、その間まともな交渉が出来ていれば
まだ救われただろうが、「 ほったらかし 」、にされた挙げ句
最後の最後で、国交・交易の拒否が、一方的に告げられ、
入港証は没収され、「二度と来るな」、と、命じられた。
その事が知れるや、長崎の街はレザノフ一行への同情と悲しみ
幕府の仕打ちへの非難に包まれたという。
杉田玄白や大槻玄沢らも幕府の冷淡な対応を非難した。
普段からレザノフと日本語で親しく接していた、下っ端役人
などは、涙を流して、レザノフの前で幕府の対応をなじり
奉行所の役人も、今回の拒絶は町中に悲しみをもたらした
と、レザノフに打ち明けた。
江戸からの特使である遠山景晋の随員で徒目付(かちめつけ)
の職にある増田藤四郎さえ、レザノフの手を取り、「江戸
にはロシア人の利益になるような意見を伝えるつもりです」
とまでレザノフに述べたという。
( レザノフ帰帆後幕府は、文化の薪水給与令を発令した )
ー 渡辺京二・著 『黒船前夜』より要旨抜粋 ー
江戸の老中、土井利厚の、腹の立つような乱暴な応接をすれば
二度と来なくなるだろう、などという、高慢な外交オンチぶり
は日本国内でも非難囂々だったのである。
長崎の通詞(通訳)達に至っては、幕府内での老中たちの
権力闘争の裏側まで、レザノフに暴露し、再来を求め
「秘密工作」、まで持ちかけた。
http://deracine.fool.jp/biography/zenroku/z_nakayama/nakayama-diary04.htm
http://deracine.fool.jp/biography/zenroku/z_nakayama/nakayama-diary05.htm
江戸からの縛りのなかで、長崎の人々は、現地役人を含め
最大限の努力はしたのである。
レザノフは帰帆にあたり、梅が崎の宿舎に、日本語で
『 日本の御厚恩有りがたし 』、と、書き付けを残した。
だが、江戸幕府首脳に対する禍根は残った。
レザノフ著 『 日本滞在日記 』 の翻訳者である、大島幹雄氏は
既出にあるように、長崎で当時の通詞(通訳)の日記も調査し
日露双方の史料を突き合わせ研究したり、NHK・BS歴史館
『 衝撃!もうひとつの“黒船” 』、にも出ていたが
大島幹雄氏は、史実をベースに、小説の形で
『我にナジェージダ(希望)あり―若宮丸漂流物語』を刊行し
更に、毎週土曜日、ネット上にも
『ロシアに残った若宮丸漂流民〜善六ものがたり』をアップし
回を重ね、40回目に入った。
<善六と五郎次> (文末のURLから過去ログを辿れる)
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/11/20181117t13007.htm
五郎次は 『文化露寇事件』、で、ロシアに拉致連行されたが
イルクーツクで、若宮丸残留漂流民、善六と出会い、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%85%AD
ロシアで種痘の技術を習得し、『ゴローニン事件』 がらみで
日本帰還を果たし、日本に初めて種痘法を伝えた。
ところで、レザノフが亡くなったクラスノヤルスクの研究者
から大島幹雄氏の元へ、レザノフが長崎で幕府側や、オランダ
商館長ドゥーフから献上された品々が残されていることが
写真とともに知らされてきたという。写真13点
http://deracine.fool.jp/wakamiya/articles/rezagift01.htm
こちらはオランダ商館長ドゥーフからと思われる
http://deracine.fool.jp/wakamiya/articles/rezagift02.htm
しかし・・ドゥーフの人生も波瀾万丈だった。
https://bushoojapan.com/tomorrow/2015/12/02/64567
項目によっては間違いも多く、間違いまで引用したような
記述を時々アチコチで見かけるが
項目、『アダム・ラクスマン』、においても
>イルクーツクに滞在中、伊勢国出身の大黒屋光太夫ら漂流者
>6名と出会う。父の支援を受け光太夫を連れてペテルブルク
>の女帝エカチェリーナ2世と謁見し光太夫送還の許しを得た
>ラクスマンは・・・
そもそも、ロシア国内で、光太夫達の日本帰還に全身全霊で
尽力してくれ、光太夫をロシア女帝の元へ連れて行ったのは
父親のエリク・ラクスマン(キリル・ラクスマン)の方だが。
※ この時連れて行かれたのは光太夫一人だけで他の漂流民は
イルクーツクで待機した。ただ、新蔵だけがラクスマン(父)
の依頼で後に荷物をペテルブルクまで届けており
そこで光太夫とも再会した。
新蔵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%94%B5
同じウィキペディアの記述でも、『キリル・ラクスマン』
の方は比較的正確に思え、『アダム・ラクスマン』の方とは
完全に矛盾している。しかも帝都に女帝は居なかった。
堅物だが誠実な人柄のラクスマン(父)に光太夫達も魅せられ
ラクスマン(父)の家に入り浸るようになっていった。
光太夫と、エリク・ラクスマンは、二人してロシア女帝
エカチェリーナ2世に謁見し、光太夫は習得したロシア語で
切々と望郷の思いを訴えると、ドイツ出身の女帝は、
「まあ、かわいそうに」、とつぶやき、涙したという。
もっとも、スウェーデン系フィンランド出身の博物学者
エリク・ラクスマンは、自身の学者としての興味もあり
日本に強い興味も持っていたが、遣日使節には息子の
アダム・ラクスマンが選任された。
日本の長崎で、出島の三学者と称された、シーボルト、
ツンベルク、ケンペル、のうちの、スウェーデン人学者
ツンベルクは、現在も、スウェーデンの大学の最高峰、
ウプサラ大学で教えを受けた恩師でもあった。
息子のアダム・ラクスマンが、日本から帰って来ると
ますます日本への思いが募り、何と、無謀にも
ラクスマン(父)は、個人の資格で日本に赴くべく
オホーツク港に向け、シベリアを陸路の旅に出たが
途中で力尽き、没してしまった。
何か、ペテルブルクを目指しながら、途中で力尽きた
ニコライ・レザノフに重なる。
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/08/20180829t13013.htm
大黒屋光太夫一行と、エリク・ラクスマンの絆
こんなサイトがあった。
http://www.ne.jp/asahi/lapis/fluorite/essay/lapisbaikal.html
http://www.ne.jp/asahi/lapis/fluorite/essay/lapisbaikal02b.html
なお、上記のサイトでは、井上靖の「おろしや国酔夢譚」を
参考にしているが、当時のフィンランドは、スウェーデンの
支配下にあり、エリク・ラクスマン自身、スウェーデン系
フィンランド出身の、元スウェーデン人。
また、日本に帰還した大黒屋光太夫は、幽閉状態で取り調べを
受けたが、故郷の伊勢にも一度帰郷が許されている。
この辺は後の、吉村昭『大黒屋光太夫』、等で訂正された。
ところで、ロシア側では、アダム・ラクスマンが日本との
交易交渉に失敗したのは、ロシア皇帝(女帝)の命は受けた
ものの、エカチェリーナ2世自身の親書(国書)は携えず
携えた公文書は、地方行政官のものだけであり、
アダム・ラクスマン自身の身分も高いものでは無く
「全権大使」、と言うには不十分だったと見なされ
第二次遣日使節では皇帝の親書を携え、十分な資格、身分の者
として、ニコライ・レザノフが遣日使節となった。
因みに、アダム・ラクスマン来航と、レザノフ来航の間には
1796年、英国の軍艦プロビデンス号が室蘭に来航した。
http://www.city.muroran.lg.jp/main/org1263/providence.html
その後、『文化露寇事件』、が起こり、日本側が報復として
ゴローニン艦長を捕縛連行した『ゴローニン事件』、が起こり
ゴローニン艦長を奪われた、ディアナ号副艦長、リコルドは
ゴローニン艦長奪還を目指し、本格的に活動を開始した。
ロシアに残った若宮丸漂流民〜善六ものがたり<42>
<五郎次のその後(上)>
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/12/20181208t13008.htm
※ 文末のURLから過去ログを辿れる。
ものの、事件の内容、複雑さの割には、記述が少ないと言うか
重要な事柄まで省略されてしまっているのは如何なものか。
そもそも、文化露寇事件自体が、皇帝の許可もなく、しかも
レザノフからの撤回命令をも無視した、部下による暴走であり
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/09/20180901t13013.htm
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/08/20180829t13013.htm
そもそもレザノフは、カムチャッカ帰還後、直ちに部下に
日本劫掠を命じた訳ではなく、全ては、「フヴォストフ、
ダヴィドフを帯同させての、アメリカ遠征後」 の話であり
襲撃に使われた船もアメリカ遠征中に露米会社が入手した。
ロシア政府官船ではなく、露米会社社有の小型船。
襲撃が始まった頃レザノフは、サンクトペテルブルクに向けて
シベリアを陸路で横断中だったが、クラスノヤルスクで事故死
した。傷の悪化、壊疽(えそ)の毒が全身を侵していた。
サブタイトルの、「シャナ事件」、の最後の一行に
>6月6日、捕虜となっていた大村治五平や番人達が解放され
>宗谷に帰還する。
と、あるが、これは利尻島での話であり、択捉島ではない。
フヴォストフ、ダヴィドフらは、択捉島の後、再び樺太の
日本側拠点を襲撃し、最後に利尻島を襲撃し、そこで
それまで捕虜にしていた日本人、10人中、大村治五平ら
8名を解放し、その際、フヴォストフは幕府に宛てた書簡を
解放した日本人に持たせた。
幕府ではこの書簡への返書まで用意され、もしロシア側が
謝罪してくるなら、ロシアとの交易を開始してもよい
とする意見まで出ていたが、返書が渡されることはなかった。
渡辺京二・著 『黒船前夜』 より
こちらの方のブログにも詳しく紹介されていた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-440.html
結局、利尻島で解放されなかった、択捉島の番人、五郎次
と、左兵衛の2人はオホーツク港まで拉致連行されたが
オホーツク長官ブハーリンは、ユノナ号艦長フヴォストフ、
アヴォス号艦長ダヴィドフらを、皇帝の許可もなく勝手に
軍事行動したとして、逮捕・投獄した。
五郎次と左兵衛は、ブハーリンによって解放され
ブハーリンは二人に、日本への帰還を約束してくれたものの
今度はブハーリンがフヴォストフらが日本から略奪してきた
品々を横取りした上転売したことが発覚し、ブハーリンもまた
横領の罪で、逮捕されてしてしまった。
結局、五郎次と左兵衛の、日本帰還話もうやむやになり
埒があかないとみた二人は逃亡して船を奪い、自力での日本
帰還を計るも、途中で左兵衛は空腹のあまり腐った鯨の肉を
食べたのが原因で死亡し、五郎次だけがイルクーツクで暮らし
ていた善六に家に一時預かりとなった。
それでもロシアで種痘術を習得し、それを記した医学書
『オスペン・クニーガ』 と共に、ゴローニン事件がらみで
日本への帰還を果たした五郎次だったが・・・
<五郎次との別れ>
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/11/20181124t13009.htm
<五郎次のその後(上)>
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/12/20181208t13008.htm
<五郎次のその後(下)>
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/12/20181215t13007.htm
<リコルドのその後>
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/12/20181222t13007.htm
しかし、兵庫県洲本市の 『日露友好の像』 が、嘉兵衛と
ゴローニンだけで、もう一人の立役者、リコルドが居ないのは
ちょっと寂しい。
レザノフからの撤回命令をも無視した、部下による
樺太の久春古丹(クシュコタン)の松前藩番所襲撃で
『文化露寇事件』、が勃発したが、
1807年3月13日( ユリウス暦 1807年3月1日 )
サンクトペテルブルクへ向けてシベリア横断中だった
レザノフは、クラスノヤルスクで事故死した。
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/08/20180829t13013.htm
レザノフ没後
1807年5月、( 文化4年4月 )
ユノナ号はアヴォス号を伴い、一連の襲撃事件の最大の
ヤマ場となる、択捉島(ナイホ・シャナ)を襲撃し
その後更にフヴォストフらは、再び樺太を襲撃し、最後に
利尻島を襲撃し、捕虜10人中、8人を解放した。
オホーツク港に帰還したフヴォストフ、ダヴィドフらは
オホーツク長官で海軍大佐のブハーリンによって
許可もなく勝手に軍事行動したとして、逮捕・投獄された。
そうしたロシア側の事情など知る由もない日本側では
幕命により、津軽・南部・秋田・庄内の藩兵、三千人が
日本の北方拠点警備の為、蝦夷地に派遣され、
翌年の、1808年(文化5年)には、仙台藩・会津藩が
交代の命を受け、三千六百人を出したが
「津軽藩士殉難事件」など、派遣させられた者達が、
慣れない土地での越冬に耐えられず、戦わずしてバタバタ
死んでいく凄惨な状況に、松前奉行、河尻春之と荒尾成章は
「ロシアなど恐るるに足りぬ」、などというのは、至って
いさぎよく聞こえるけれども、民命に関わる浅見である。
諸藩は、わずか三千の兵を出すのに疲れ果てている、たとえ
二万三万を動員しても蝦夷地全域を警備するのは難しい
と、江戸の老中たちに窮状を訴える上申をしたが
事と次第によっては、切腹モノの話であった。
それでも『民命』を思い、命がけで二度上申したのである。
結局、幕府も二度目の上申は無視できなくなり
「良きに計らえ」で、派遣部隊は順次整理縮小されていった。
ー 渡辺京二・著 『黒船前夜』より要旨抜粋 ー
NHK・BS歴史館 『 衝撃!もうひとつの“黒船” 』
でも述べられていた。
この間、ロシア船が姿を現すことはなかった。
1808年、ロシア皇帝は無許可での軍事行動が行われた事を
伝え聞き、不快感を示し、全軍に撤退を命令したが
既に、1807年の時点で首謀者達は、オホーツク長官
海軍大佐・ブハーリンによって逮捕・投獄されていたのである。
更には、レザノフの死没で収まった訳でもない。
何より、『民命』、を思い、命がけで上申した松前奉行、
河尻春之や荒尾成章に引きかえ、吉田松陰の評価は、
『盛り過ぎ』、か、こんなサイトがあった。
http://wildriverpeace.hatenablog.jp/entry/2018/01/26/214248
咸臨丸の虚構と言い、勝てば官軍史観、長州閥史観を
未だに引きずり 「正規の」 遣米使節はろくに知らないと言う
http://tozenzi.cside.com/oguri.htm
因みに、寅次郎こと、吉田松陰が密航を企て、乗り込もうと
して断られた船が、後に正規の遣米使節を乗せることになった
ポーハタン号であったのは皮肉ではあった。
− Wikipedia によると −
なお松陰は、米国の、第一次ペリー艦隊とほぼ同じ頃、
長崎に来航したロシアのプチャーチン艦隊の船にも
乗り込もうとして、先に出航されてしまい、失敗した。
ロシアや米国の船で『密航』を企てただけでも
吉田松陰は死罪でもおかしくなかったが
それを救ったのが、プチャーチンとの交渉役となった
幕府側全権、川路聖謨であり、老中首座の阿部正弘だった。
プチャーチンと川路聖謨(かわじとしあきら)
こんなサイトがあった。
http://bushoojapan.com/tomorrow/2013/10/15/7651
『 ロシアに残った若宮丸漂流民〜善六ものがたり 』も
52回目に入った。
いよいよ、リコルドも正念場を迎える事になる。
リコルドとディアナ号にとって、4度目の日本遠征であり
僚友ゴローニン艦長と7人の部下の救出に向けての
3度目の日本との折衝に赴く事になる。
10年前にレザノフに同行を求められた善六は、
今度はリコルドに同行を求められる事となった。
(善六)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%85%AD
善六にとっては、カムチャッカの波止場で
長崎に向かうレザノフ一行や日本に帰還する仲間の若宮丸
漂流民一行を乗せた、ナジェージダ号を見送ってから10年
漂流してから20年ぶりに日本の土を踏む事になる。
<ナジェージダ号を見送って>
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/02/20180214t13006.htm
<リコルドと善六> 文末のURLから過去ログを辿れる
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2019/02/20190216t13008.htm
前回の日本行き(国後島)では、高田屋嘉兵衛を既に日本に
仲介役として残してきた、後は嘉兵衛を信じるしかない。
前回リコルドは、先般の乱暴狼藉はロシア政府とは関係なく
フヴォストフらが勝手にやった事とする釈明書を提出したが
奉行所の沙汰が出るまで長らく海上待機することになった
嘉兵衛はその間、3日に1日は来艦し、その度にこれだけしか
とれなかったと言って魚を十数匹持参する。
嘉兵衛の友情というソースのかかった魚はリコルドにとって
何物にも優るご馳走だった。リコルドは言う。
「ヨーロッパの文明人諸君よ、諸君は日本人を狡猾凶悪で
復讐心が強く、甘美な友情などゆかりもないものと考えて
いるが、それは間違いだ。日本にはあらゆる意味で人間
と言う崇高な名で呼ぶにふさわしい人々がいる」
結局、リコルド自身による釈明書では不十分だとされ
ロシア高官の書簡が必要だとされ、リコルドも了承した。
この時、報告を受けた江戸の幕閣は、ロシア高官からの
釈明書の受け取り、ゴローニン達の引き渡しは長崎とすべし
と主張したが、江戸在住、松前奉行・荒尾坦馬守は
「そんな事を要求したらロシア側は日本の奸策を疑うだろう」
と、突っぱねた。
「祖宗の法」、が許さぬ、と言うが、荒尾は
「神の作りし日月星といえども常に動いている、ましてや
儚なき人間が作った法を永久不変たらしめるのは笑止で
無謀な願いだ」、と応じたと言う。
ー 大佛次郎賞受賞、渡辺京二・著 『黒船前夜』 ー
より要旨抜粋
1806年10月、( 文化3年9月 )
レザノフの部下の暴走で 『文化露寇事件』 が勃発したが
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2018/09/20180901t13013.htm
露米会社がアメリカ遠征中に入手した、
ちっぽけな小型武装商船、ユノナ号とアヴォス号、
露米会社武装集団、総勢65名
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_ikokusen_ship1.html
その程度の『軍事力』に、シャナだけで300人もいた
日本側は全く歯が立たず、一方的敗退をした。
日本最北端の緊張 文化魯寇及びゴローニン事件
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_bunkaroko_front.html
日本側古文書にみる『 文化露寇事件 』『 ゴローニン事件 』
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_bunkaroko_main1.html#roko01
先般の乱暴狼藉は、ロシア政府の意に反したものである
とする、ロシア側からの釈明書の提出は
これ以上のロシアとの衝突は避けたいが、『武威』で
権威を保ってきた軍事政権としてのメンツは死守せねば
ならなかった日本側にとっても、『渡りに船』であり
日露の思惑は一致し、こうして
高田屋嘉兵衛とピョートル・リコルドの尽力により
更には、この状況下で理性的な判断が出来た松前奉行により
7年に及んだ、日露間の緊張関係が解消され
日露和平がもたらされる事になる。
ロシアに残った若宮丸漂流民〜善六ものがたり <53>
第7部 箱館(2)
<リコルドと嘉兵衛>
http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2019/02/20190223t13004.htm
「交易」は拒否されたのだから「開国」はしていないと言うが
>そもそも、「開国」とはどういう状態か?
>国と国が「交易」を開始することである。
ならば、出島で幽閉状態でも交易があったオランダとの間では
「開国」 していたと言えるのだろうか?
あるいは、「交易」 さえあれば、「開国」 と言えるのか?
オランダとは国書の交換すらなく、従って国交は無かったが
因みにオランダからは、1844年に軍艦が来航し
オランダ国王の親書を携え、国交を求めたが、
既に交易がありながら幕府は国交についてはこれを拒否した。
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_dutchnews_kingad_front.html
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_dutchnews_kingad_main.html
そもそも、「交易」と「国交樹立」と、
どちらが重い事なのか、言うまでもないだろう。
ペリーは、米国大統領フィルモアの親書を携え
日本と国交を結んだ。
「交易」は拒否されたからと、軽い事では決してない。
>復斎は外交の達人である
ん?、林大学頭復斎が「外交の達人」など聞いたこともない。
「外交交渉」でそれまで、どれだけの実績があったのかな?
林復斎は、幕府直轄の学問所、昌平坂学問所の大学頭であり
それだけに幕府の対外関係を含む情報にも接する立場にあり
そうした知見を駆使して、論理的な交渉が出来た。
>あくまでも「薪と水」の補給のみに限定した
>長崎では外国船への「薪と水」の給与が認められていた
「薪水給与令」 は何度か出され、長崎でロシアの使節
レザノフ一行が追い返された後にも「文化の薪水給与令」
が出されたが、そもそも困窮した外国船に薪水を供与し
穏便に退去させる旨のもので、これが長崎限定だったら
どうなるのか?、北海道で困窮した船に長崎に行けと?
幕府がペリーとの間に交した、「日米和親条約」 が
長崎に、下田と箱館を加えて、単に「薪と水」を
くれてやるだけの話だったのか?、唖然としてしまうが。
条約の条文に目を通したのかな?
「国交」 が樹立されたのであり、それが為に
最恵国待遇の承認、米国公館・米国外交官の設置が許可
されたのであり、それまでの鎖国体制が崩されたのであり
歴史の大転換であった事に変わりはない。
下田駐在領事の許可等の規定がなされ、これに基づいて
初代駐日総領事としてハリスが来航し、更に交易も、
と、突き進んでいく事になる。
日米和親条約が無ければ、ハリスが初代駐日総領事として
来日出来る訳がないだろう。
結局、英・露・蘭・仏なども雪崩をうって後に続く。
「薪と水」の給与のみ、などと言う軽い話ではない。
出島のオランダどころの話ではない。
勿論、植民地状態にされてしまった、隣の清国の二の舞を
必死に防いだ、幕府の優秀な人材は賞賛されようが。
良い悪いは別として
米国は先の、第一次遣日使節、ジェームス・ビッドル率いる
艦隊を江戸湾の浦賀に派遣し、開国を求めたが
結局、交易すら拒否され、追い返された事から
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_Biddle_front.html
第二次遣日使節として、ペリー艦隊を浦賀に派遣し
問答無用、砲艦恫喝外交で、頑なな鎖国体制の日本の現状に
大きな風穴を開ける事に成功し
次のハリスの通商交渉に繋いだ、と言えよう。
そもそもペリー来航の、とりわけ半世紀以上前頃から
様々な外国船が日本に来ており、天下太平に過ごしていた中で
突然ペリーの艦隊が来たわけでもなく、幕府はペリーの
来航情報を事前にキャッチしていた。
江戸後期主要異国船渡来記録
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_ikokusen_front.html
上記以外でも、それ以前から非公式には、ロシアや米国から
ベニョフスキー、シュパンベルク、ケンドリック等が率いた
船も来ており、ロシアの使節、レザノフ来航の前にも
1796年、英国の軍艦プロビデンス号が室蘭に来航した。
http://www.city.muroran.lg.jp/main/org1263/providence.html
長崎ではペリー来航の半世紀も前から米国船が
堂々と交易していた、それも13回も、出島のオランダ商館
によるチャーター船としてだが ( アメリカ傭船 )
>過去の日本人を賞賛することは、未来の日本人として
>自信を持つことにもつながる。
過去であれ今日であれ、白か黒かで安直な神格化も否定も
なすべきではない、世界の混乱の根元だろう。
歴史は感情論ではなく、まずは史実を正確に掌握すべし
その上での真摯な吟味とバランスが必要だろう。
単に、中間点に立つと言う意味ではなく、公平・公正に
俯瞰的に客観視する視点・視野の広さである。
神社まで建立され、神格化された倒幕派の教祖、
吉田松陰の評価は 『盛り過ぎ』 か、こんなのがあったが。
http://wildriverpeace.hatenablog.jp/entry/2018/01/26/214248
>いたずらにネガティブキャンペーンをするならば、
>それは自らの首を絞めることにもなりかねない
恣意的にそれをやったのが、「勝てば官軍」であり、
とりわけ長州閥でもあった。
天下太平の眠りを覚ます、ペリーの黒船来航、腰を抜かした
幕府はペリーの威圧に屈し、開国へと総崩れ、そして崩壊、
輝かしい文明開化の明治が始まった、
と言うストーリーにしておきたかった。
明治以降の歴史教育というものが、勝てば『官軍史観』で
とりわけ長州閥によって都合良く書かれ都合良く隠蔽され、
それを未だに引きずっている。
ごく最近でも、NHK大河ドラマ 「いだてん」 等に於いて
未だに 「咸臨丸神話」 を引きずっていたが。
http://tozenzi.cside.com/kanrinmaru-byou.htm
こちらが 「正規の」 遣米使節
http://tozenzi.cside.com/oguri.htm
明治政府の近代化政策は小栗忠順の模倣にすぎない
ー 大隈重信 ー
むしろ、幕末に於いては幕府より、薩摩・長州・土佐・水戸
などに於ける尊皇攘夷過激派こそが外国排斥で突っ走り
幕府の開国に向けてのソフトランディングの邪魔をした。
1863年 【 イギリス公使館焼打事件 】 隊長:高杉晋作、
火付け役:伊藤博文
日本人に攘夷の不可能を思い知らすため「文明国」の武力を
示す必要を感じた、英国公使オールコックは、1864年
長州藩への懲罰攻撃を決意し、下関を攻撃・制圧・占領し、
『改税約書』 などの不平等条約が押しつけられた。
ロシアはペリーの半世紀も前から正規の遣日使節を派遣したが
二度にわたり信義を尽くしたロシアと門戸を開いていたならば
また違った歴史が刻まれたかもしれない。
ロシアとの交流の中で国力をつけていれば、英米などから
「不平等条約」を押しつけられる事も無かったかも知れない。
当時そうした意見が幕閣や、杉田玄白のような蘭学者などから
も挙がっていたのである。
参考: ー 渡辺京二・著 『黒船前夜』 ー
こちらの方のブログでも詳しく紹介されていた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-440.html
江戸の日本を開いた男たち。林復斎と岩瀬忠震。
そのアッパレな外交態度
http://eikojuku.seesaa.net/article/227655918.html?seesaa_related=category
へのレスです。
まあ、日本の禁制など知るか、で分かっていながら強引に
江戸湾に、問答無用・砲艦恫喝外交で、ペリーが押しかけ
日米和親条約で日米の国交が樹立され、
これに基づきハリスが、初代駐日総領事( のち公使 )
として赴任し、欧州列強が俺も俺もと後につづき
倒幕を叫ぶ、尊皇攘夷過激派の外国勢力へのテロが相次ぎ
結局、幕府がこれらの不始末の尻ぬぐいで巨額な賠償金の
支払いまでさせられ「不平等条約」まで押しつけられた。
明治新政府は不平等条約の解消に苦労したと言うが
元はと言えば、討幕派の外国勢力へのテロで欧米列強に
口実を与えてしまった事にあるのだが。
二度にわたり信義を尽くしたロシアや、せっかく日本に
国王の親書を携え、国交を求めたオランダと通じていれば
日本は内戦を回避し、開国に向けてソフトランディング
出来ていたかも知れない。
箱館奉行、松前奉行として蝦夷地経営の最高官僚であった
羽太正養(はぶとまさやす) は 『休明光記』 において
蘭学者の、杉田玄白は 『野叟独語』 を著して
「祖宗の法」 に拘る 幕府のロシアへの対応を批判した。
ー 既出リンク先参照 ー
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-440.html
「文化露寇事件」その余波で起こった「ゴローニン事件」
の解決をみて、日露間では和平がもたらされ、その後
ペリーが江戸湾に直行する中で、日本とはあくまでも
平和的に交渉せよ、と命じられていた、プチャーチンは
長崎に来航し、たらい回しの末、下田での交渉となった。
なお、当初プチャーチン艦隊も蒸気船を伴っていた。
( 長崎では、吉田松陰がロシア船での密航を企てたが
先に出航されてしまい、次に米国船をねらったが
これも断られてしまい、御用となった )
プチャーチン一行については、こんなサイトもあった
https://blog.goo.ne.jp/taktsuchiya/e/46c1cf4bb55bc291af33145b932993e1
https://bushoojapan.com/tomorrow/2013/10/15/7651
日露双方、共に被災する中で共に助け合い
( ロシア側船医などにより、日本人も命を救われた )
戸田村(へだむら)では日露の協力で、帰国に向け
沈没したロシア船に代わり、代船の建造が行われ、
「ヘダ号」 と命名された。
これは日本側にとっても、洋式帆船の建造技術を取得する
絶好のチャンスでもあり、佐賀藩、水戸藩等も技術習得
のため、幕府の許可を得て藩士を派遣している。
その後日本側で、同型船が10隻も建造され
「君沢形」 とされ、後の日本の造船業の礎となった。
NHK BS1、で先日
「 ヘダ号の奇跡 日本とロシア 幕末交流秘話 」
が放映されたが、また再放送や、オンデマンドでの
配信もある模様。
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/92625/2625236/index.html
https://note.mu/numazuht/n/na6cb9716874e
なお、1861年には、ロシア軍艦対馬無断滞留事件も
起きたが、ロシア皇帝が命じたものではなく、とは言え
海軍大臣コンスタンチン → リハチョフ提督 →
ポサドニック艦長ビリレフ、の命令ラインで起きた事であり
外務大臣ゴルチャコフが黙認していた事は、日本として容認
出来る事ではないが、
そもそもの発端は、英艦の対馬不法侵入であり
英国公使、オールコックは英本国外務大臣ラッセル宛に
『 対馬の英国による占領 』を上奏していた。
http://tozenzi.cside.com/tusimajiken.html