「朝顔の茶会」というものが知られている。
この茶会により、豊臣秀吉と千利休が胸襟を開き合うようになったと伝わっている。
利休は「庭の朝顔が美しゅう咲いております」と言い、秀吉を茶会へ誘(いざな)う。
秀吉はたいそう楽しみにして利休の庭を訪れる。
ところが、庭には一輪の朝顔もない。実は、早朝、利休がすべての朝顔を摘んでしまっていたのだ(秀吉はこのことを知らない)。
拍子抜けした秀吉。いくぶん気落ちして茶室へ入ると……。
その茶室には、さり気なく「一輪の朝顔」が生けてあった。
秀吉はこの趣向にたいそう感じ入り、以後、秀吉と利休の蜜月時代が始まる。
しかし、秀吉と利休ほど「真逆」の道を進み続けた関係は、なかなか他に見いだせない。
両者の茶室を見れば、その両極なる様は一目瞭然である。
秀吉の茶室は「煌(きら)びやかな黄金造り」。対する利休の茶室は「これ以上削れるものはあるのか?」と思うほどに、極限まで無駄を削ぎ落している。
表面的な派手さを求める秀吉。深(しん)の美を追求する利休。のちの両者の破綻は宿命とも言えるものであろう。
茶の歴史を遡(さか)のぼってゆくと「村田珠光」に突き当たる。
彼の求めた「侘び茶」は、「不足の美(不完全だからこそ美しい)」を体現するものであり、高価な茶器を有難がるのではなく、常日頃の茶碗で十分と教えていた。
その流れを汲む利休は、やはり素朴さの中に「美しさ」や「精神的な充足感」を求めている。
一方、戦国時代の「茶」は、織田信長以来「権威」と結び付けられていた。
家臣は土地よりも「茶器」を欲しがり、主君の「茶会」に参加できることを無上の喜びとした。
この流れを汲む秀吉は、やはり政治的な眼差しで茶の湯を眺めていた。
この両極端な両者は、なぜか同じ船に乗り続けていた。
秀吉の心は外へ外へと向かい、朝鮮半島まで兵を進めてゆく。
かたや、利休の心は内へ内へと向かい、茶室はますます小さくなり、茶器はますます地味になってゆく。
当時、珍重されていた茶器の多くは唐物という中国由来の品が多かったのだが、利休がその流れに従うことはなかった。
自ら考案した「茶杓(ちゃしゃく)」は中国で一般的であった象牙ではなく「竹製」であり、中国製の磁器が定番だった「花入れ」は漁師から譲り受けた「魚籠」を用いた。
さらに、「黒楽茶碗」というのは利休の思想を象徴するものである。
洗練された美を誇る唐物茶碗とは異なり、ゴツゴツといびつで(ロクロを用いない)、色も冴えない。
秀吉がこの黒い茶碗を大いに嫌う一方で、利休は「黒は古き心なり」として、大いにこの茶碗を評価した。
利休の茶室の大きな特徴に「躙(にじ)り口」というのがある。
高さわずか80cm。身を屈めなければ通れない。いくら天下人とはいえ、刀を外して頭を下げなければ入れない。
利休は秀吉に配慮して、これでも予定よりも高くしつらえたのだという。なぜなら、秀吉の「まげ」は人一倍デッカくて、どうしても引っかかってしまうからだそうだ。
この「躙(にじ)り口」には、「茶室の中では身分も貧富の差もない」という利休の求める世の姿が暗に示されていた。
利休の弟子「山上宗二」はこう書き残している。
「山を谷に変え、西と東を入れ替えてしまうかのように、茶の湯の決まり事を破り、茶道具を自由に作り変えてしまった。その結果、何事も面白くなった。」
内へ内へと向かった利休は、じつに「革新的」であり、その心はどんどん自由になっていった。
この反面、外へ外へと向かい天下を制した秀吉は「保守的」にならざるをえない。
民を支配するには身分を固定しなければならないし、家臣にも勝手気ままに振舞われては大いに迷惑だ。
必然、秀吉自身もつまらなくなっってしまった部分もあったであろう。何しろ、一介の農民から身を起こした自分自身が最も型破りな存在であったのである。
かつては秀吉も「身分」には反発を抱いていたのだ。
「北野大茶の湯」においては、公家や武士のみならず、百姓や町民までも招き入れ、「茶碗一つ持ってくれば良し」としたこともあったのである。
この茶会を取り仕切ったのは、他ならぬ「利休」その人。この頃が、両者とも同じ方向を向いていた黄金時代であったと言えるかもしれない。
それ以降、時代は過酷にも両者の溝を深めに深めた。
利休の心はますます自由になり、秀吉の心はますます不自由になっていった。
そんな折に催されたのが、「野菊の茶会」である。
利休が席を外したスキを狙って、秀吉は天目茶碗と肩衝茶入の間に、かねて用意しておいた「野菊」を差し挟む。
秀吉のいたずら心は、利休がどんな反応をするかと大いに高まった。
ところが、利休は無言でその「野菊」を取り去るのみ。
実はこの茶会、九州へと向かう「黒田如水」を労(ねぎら)う目的があった。
秀吉としては、去りゆく都を「野菊」にたとえるという趣向のつもりだったのである。
しかし、利休は秀吉の心意を知ってか知らずか、全くの無反応で応じたのである。
のちの人々が語るには、この茶会において両者の「決別」は決定的なものになったとのことである。
「朝顔」に始まった秀吉と利休は、「野菊」によって終わりに至ったのである。
この後の両者に関しては、書くのも重い。
何だかんだと因縁をつけながら、結局、秀吉は利休に切腹を命じるに至る。
利休亡き後、その後を継いだのは「古田織部(ふるた・おりべ)」である。
しかし、悲しい哉、彼もまた利休と同じ運命をたどる。
権力者は秀吉から家康へと替わるのだが、結果は同じである。大阪の陣の後、古田織部は家康に「切腹」を命じられる。
利休・織部とも、秀吉・家康にその政治的な影響力の大きさを恐れられた。
なぜなら、「茶の湯」は革新性に満ち、多くの大名を魅了してやまなかったからである。
利休に切腹を命じた秀吉は、その使者に上杉景勝勢3,000人をつけたと言われている。それは、利休に心服する他大名による「利休奪還」を恐れたためだという。
3,000の軍勢に対する利休は、生涯最後の「茶」で使者をもてなすという沈着ぶり。利休最後の茶は、彼の美を不朽のものとした。
戦国の動乱とともに世に浮上し、その終息とともに身を潜めていった「茶の湯」。
それでも長く愛され続けた理由は、やはり茶に込められた利休の想いが大きかろう。
日本人は秀吉の「豪奢さ」よりも、利休の「簡素さ」を心情的に好むのではなかろうか?
秀吉の一生は時代の上を滑っていったような感が否めない。それに対して、利休の一生は日本人の心にグサリと刺さったような印象を受ける。
足して足して、脆(もろ)くも崩れた秀吉の城。
引いて引いて、それでも残った利休の道。
今ここに茶があること。
そこに利休はいるのである。
出典:歴史秘話ヒストリア
「お茶パワー 戦国を動かす〜千利休と豊臣秀吉 友情と別れ」


結構な御手前でございました。