日本国民は世界で唯一「原爆」と「水爆」の両方に被爆(被曝)した国民である。
「原爆(原子爆弾)」は、アメリカによる広島・長崎への直接投下(1945)。
「水爆(水素爆弾)」は、アメリカによる水爆実験の余波を被った。この時に被曝したのが「第五福竜丸」である(1954)。
その時、第五福竜丸は「マグロ」を追いかけて、太平洋の遥か遠く「ビキニ環礁」まで漕ぎ出していた。
「ピカドン(原爆)だ!」、ある乗組員は叫んだ。鮮烈な光(ピカ)を目にし、爆音(ドン)を聞いたのである(3月1日)。
その数時間後、空一面を覆っていた怪しげな雲から、パラパラと灰のようなものが降ってくる。そして、その白い灰はみるみる船の甲板へと降り積もった。
当然、乗組員たちも灰にまみれた。後に分かることではあるが、これこそが「死の灰(放射性のチリ)」であった。
その灰のかかった部分は火傷のように痛んだ。さらには、灰を吸い込んでしまったためか、顔がドス黒くなり、歯グキからは血が滲んだという。
これらは、典型的な「急性放射線症状」であった。
広島・長崎の悲劇から10年も経たずして、またしても日本国民は被曝させられたのである(1954)。
第五福竜丸は「安全水域」で操業していたはずだった。
アメリカの水爆実験が行われていた「ビキニ環礁」は160kmも遠方にあった(福島第一からは宇都宮以上の距離がある)。
しかし、アメリカ(ロスアラモス研究所)は水爆の規模を読み間違えていた。当初、「4〜8メガトン」程度と見積もられていた水爆(ブラボー)の破壊力は、実際にはその3倍近いの「15メガトン」に達した。
そのため、安全とされていた水域にまで被害は及び、第五福竜丸の他にも「数百隻の船と約2万人」が被曝したとされている。
予想をはるかに超えた大爆発は、実験を行った島を跡形もなく吹き飛ばし、残されたのは2kmにも及ぶ巨大クレーターだけだった(海底120mまでえぐられていた)。
その破壊力たるや、広島・長崎の原爆の1,000倍もあったという。
被曝後、第五福竜丸はSOS信号を出さなかった(被曝の事実を隠蔽しようとするアメリカ軍による攻撃を恐れたためとも言われている。他の船も同様の措置を取った)。
第五福竜丸は被曝した身を引きずりながら、およそ2週間後に日本(焼津)にようやく帰り着く(3月14日)。
被曝した乗組員は急遽都内の病院(東京大学附属病院)へと搬送された。「急性放射能症」と診断された乗組員たちは、骨髄細胞が半分になっていたり、著しい白血球の減少がみられたりした。
そして、本来なら喜ばれるはずマグロは「原爆マグロ」と皆に恐れられることに…。
そのおよそ半年後(9月23日)、必死の救命実らず、久保山愛吉氏が「肝臓障害」で亡くなった。
「原水爆の犠牲者は、私で最後にして欲しい。」との遺言であった。
日本人医師団は久保山氏の死因を「放射能症」と発表。ところが、アメリカは「治療には日本人医師団の『手落ち』があった」と指摘し、「死因は放射能ではない」との姿勢を貫いた(現在に至るまで公式に認めたことはない)。
第五福竜丸に対するアメリカの態度は一貫して「無慈悲」である。
「日本人の好ましくない態度」を相殺するための行動計画を作成し、第五福竜丸は「危険水域にいた」とする見解を発表したり、同船は「核実験のスパイであった」とまで疑った。
日本政府からは「アメリカの責任を追求しない」という確約を得て、アメリカは「自国に法的責任がない」ことを強調した(日本政府にもそれなりの事情があった。後述)。
広島・長崎に次ぐ被曝に、日本人は心底憤(いきどお)った。
世界に広がる「反核運動」は、この時に東京(杉並区)の主婦たちが立ち上がったことにより始まった。
「仕方がないよ」と諦めきった夫に憤慨したある主婦が、またたく間に3,000万人の署名を集めてしまったのだ。この反核運動が世界水爆禁止大会(1955)につながり、世界中から6億人もの署名を集めることとなる。
さすがのアメリカも世界の波に押される形で、日本へ200万ドル(約7億2,000万円)支払うことを同意する。
しかし、このお金は「賠償金」ではなく、「好意による(ex gratia)見舞金」であることを強調した。あくまでも自国には責任がないという態度を貫いたのである。
当時の時代背景として、アメリカとソ連による熾烈な「核軍拡」競争があった。
「ビキニ環礁」での核実験は、水爆の小型化でソ連に先を行かれてしまっていたアメリカの焦りもあった。そのため、第五福竜丸などの被曝後も、計6回に及ぶ水爆実験(キャッスル作戦)は予定通り行われた。
そして、世界的な反核運動とは裏腹に、この後も核実験は爆発的に増えてゆく。
第五福竜丸が被曝した「ビキニ環礁」では、計67回もの核実験が行われている。
現在でも放射線濃度が高すぎて、人が住める状況にはない。周辺海域のサンゴ礁に関しても28種が絶滅したとされ、「負の世界遺産」にまで指定された(2010)。
負の世界遺産とは、人類の犯した誤ちを後世に繰り返さないよう肝に銘じるものであり、他には「アウシュビッツ収容所(ユダヤ人虐殺)」、「原爆ドーム(広島)」などがある。
話を戻そう。
この頃、アメリカの核を容認する形で、日本政府も自国での「原子力発電」に乗り出していた(第五福竜丸の被曝直前)。
そのため、日本政府にとっても国内の反核運動はまことに都合が悪い。日本政府は灯りかけた原発の火が消えてしまうことを恐れていた。
結局、日本人の反核感情とは裏腹に、日本政府はアメリカと共同歩調を維持していくことになる。
第五福竜丸の乗組員に支払われた慰謝料は、一人当たりわずか200万円だったという。
とてもではないが、彼らの受けた損害を償えるものではなかった。
被曝した乗組員たちの背負った十字架は、重く重く彼らにのしかかり続けた。この200万円を受け取ってしまったがゆえに、その苦しみは一層重みを増した。
放射能を浴びたという「世間の偏見」、慰謝料に対する「世間の妬(ねた)み」……。
テレビには「被曝者のところには絶対にお嫁に行きたくありません」と発言する女性が映し出されたり、風評被害を受けた漁業関係者から「オレも死の灰を浴びればよかった」と皮肉られたり……。
第五福竜丸の被曝により亡くなった久保山氏の妻・「すず」さんはとりわけ苦しんだ。
子供の「自転車ひとつ買ってやったときでも妬(ねた)まれた」という。結局、地元の学校に通わせることすらできなくなった。
それでも彼女は、請われるたびに反核運動に協力した。彼女は世界で唯一の水爆犠牲者の妻なのである。
彼女の想いは純粋に反核を願うものだった。
しかし、その想いを恣意的に利用しようとする人たちもいた。社会党や共産党が彼女を奪い合ったりもしたという。
それでも彼女は自分の意志を貫くことに迷いはなかった。
第五福竜丸の事件は、良かれ悪しかれ日本に多くのものを残した。
その教訓は、今回の福島第一原発の放射能事故においても十分に活かすことができるものであろう。
今回も50年以上前と同じような状況が展開されている。
風評被害、反核運動、賠償問題、被曝者差別、国家の対応の是非……。
歴史はまた繰り返すのか?
捨て去られる運命にあった第五福竜丸は、しばらくの間「ゴミ」と一緒に打ち捨てられていた。
その悲しい姿を見かねたある青年は、第五福竜丸を救うべく新聞に投書する。
「決して忘れてはいけない証(あかし)。
原爆ドームを守った私たちの力でこの船を守ろう。
平和を願う私たちの心を一つにするきっかけとして。」
ゴミの山から救い出された第五福竜丸は、今も大事に東京・夢の島で展示されている。
福島の放射能事故への対応を的確に行うためには、第五福竜丸は忘れてはならない存在である。
これは、事故関係者や政府だけではなく、被曝という宿命を負った日本国民一人一人が肝に銘じるべき問題であろう。
95年時点で生存していた15人のうち検診を受けた13人、そのうち1人を除いた全員がC型肝炎キャリアでした。
また、他の放射線障害と違い1人の大腸がんを除き病死は肝炎と肝臓がんに集中という以上な状況。
第5福龍丸事件は放射線被害を楯に国家ぐるみでの医療ミス隠蔽を図った事件です。
http://shizumin.com/kitahama-machi040305.html