2011年09月26日

江戸の日本を開いた男たち。林復斎と岩瀬忠震。そのアッパレな外交態度。


日本は「ペリーによる黒船の威圧」に屈して開国したのか?

歴史学者たちの間では、「ペリーは日本を開国させられなかった」というのが定説になっている。しかし、一般常識としては「ペリーの黒船」イコール「開国(鎖国の終了)」である。

なぜ、ここに「ズレ」が生じているのか?



江戸最末期、日本が鎖国から開国へと大きく舵を切ったのは確かである。

しかし、ペリーの来航では「開国していない」のである。

開国するのは、その4年後にやって来た「ハリス」との交渉によるもので、しかもそれは「圧倒的な軍事力の前に屈した」というよりは、幕府が「自ら開国を望んだ」というのが実情らしい。



そもそも、「開国」とはどういう状態か?

国と国が「交易」を開始することである。ペリーとの交渉では、幕府は「交易」を求められながらも断固として拒否している。



この辺りを少し掘り下げて見てみよう。

アメリカからやって来た「ペリー」は圧倒的な軍事力を背景に、日本を恫喝して「開国させてやろう」と意気込んでいた。

「日本近海に軍艦を50隻、さらにカリフォルニアにもう50隻。これら100隻の軍艦は20日以内に日本に到着する。」

もし、日本がアメリカの要求を飲まなければ、武力で踏み潰すと脅してきたのである。

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このペリーの無理難題に真っ向から立ち向かった日本人は誰か?

「林復斎(はやし・ふくさい)」である。

彼は儒学者でありながら、その家柄から外交には通暁していた。

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両国の交渉の席で、ペリーはいきなり大砲をボンボンとブチかます。まさに砲艦外交である。

ところが復斎、いっこうに慌てる気配を見せない。心地良さげに轟音の振動に身をまかすのみである。

苛立つペリーは、日本がいかに外国人に不当な扱いをしたかを轟々と非難する。

しかし復斎、淡々と「ペリーの誤解」を論破する。ペリーが非を唱える「外国船打ち払い令」はとっくに廃止されているし(1842)、ラゴダ号事件(1848)で外国人を牢に入れたのは、その外国人が狼藉を働いたからやむを得なかったと説明した。



ペリーは生粋の軍人であり、復斎は外交の達人である。

当然、両者の情報量にも雲泥の差があった。

復斎は鎖国された日本にありながらも、オランダなどから豊富な国際情勢の知識を仕入れており、世界の実情を手に取るように心得ていた。



ペリーは日本に「開港地」を求める。最低でも7〜8ヵ所を要求してきた。

当時のアメリカは「捕鯨」に熱心で(燃料として鯨油を必要とした)、太平洋でクジラ漁をするには日本で燃料(薪)や水を補給する必要があったのだ。

しかし、林復斎は捕鯨の寄港地ならばそれほどの数は必要ないとして、「下田」と「函館」の2港の開港しか認めなかった。

しかも、この地での「交易」を断固認めず、あくまでも「薪と水」の補給のみに限定した。



「交易」は鎖国政策の要(かなめ)であり、そう簡単にアメリカに認める訳にはいかなかったのである。

一方、「薪と水」だけであれば、すでに「薪水給与令(1842)」というのが存在し、長崎では外国船への「薪と水」の給与が認められていた。したがって、そこに「下田」と「函館」を加えることはそれほどの難題ではなかった。

むしろ、ペリーに花を持たせるためにも、多少の譲歩は必要とされたのである。



また、ペリーは開港地における外国人の行動範囲を「10里」まで要求した。

しかし、またしても復斎は異を唱え、「7里」に限定した。なぜなら、下田港から7里の範囲には天城山脈あり、外国人が無闇に行動するのを防げると考えたからである(函館は5里)。

事情のよく分からないペリーは復斎の案に従うより他なかった。



こうして、日米交渉は復斎のシナリオ通りに進んだ。

一貫してペリーが主導権を握ることはできず、ペリーは譲歩に次ぐ譲歩を強いられたのである。

結局、大目標であった「日本の開国」すら果たせなかったのである。



林復斎という人物はよほど腹の座った人物であったのだろう。

長き交渉(およそひと月)をへて、ペリーは復斎に好意すら抱くようになっていた。帰り際、復斎にこう言ったという。

「もし、イギリスやフランスが攻めてきたら、アメリカは軍艦を率いて日本を助ける。」

アメリカ側の資料では、林復斎を「厳粛で控えめな人物」と評している。力押ししてきたペリーに対して、復斎は「控えめ」ながらも強腰であったのである。



ペリーはこうも述懐している。

「将来、日本は強力なライバルとなるだろう。」

少なからず日本を見聞したペリーは、日本人の勤勉さや教養の高さに驚いたと伝わっている。



こうして、1854年日米和親条約が締結された。

一般には下田、函館の開港をもって「開国」とされるが、厳密には「交易」を禁じている点で、この2港は単なる補給港に過ぎない。

しかし、天保の薪水給与令(1842)では薪と水の給与は「難破船」に限定していたのだから、日米和親条約によりその範囲が拡大されたのは確かなことである。



日本が本格的に開国するのは、1858年の日米修好通商条約においてである。

この交渉を担当した「ハリス」は自身を「平和の使者」と言って、砲艦外交のペリーとは一線を画する態度で臨んできた。

日本側の代表は林復斎の甥、「岩瀬忠震(いわせ・ただなり)」である。

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ペリーが帰った後、アジアの情勢は大きく変わっていた。

清がアロー戦争(1856)でイギリス・フランス連合軍にコテンパンにやられ、半植民地化してしまったのである。

イギリス・フランスの次なる狙いは日本である。日本はアメリカとの関係を強める必要に駆られていた。さらに、江戸幕府の弱体化を防ぐために、幕府の力を強化する必要もあった。



そこで岩瀬忠震は考えた。

「横浜でアメリカと交易を行おう」。

幕府を強化するために、交易の富を江戸にもたらそうとの思惑である。当時、商売と言えば「大阪」であり、日本の経済活動の7〜8割が大阪に持っていかれていた。

そこで、横浜を外国との交易の拠点とすることで、交易の利益を幕府に集中しようと考えた。横浜を「長崎の出島」としようという目論見である。

忠震は明らかに「開国派」であった。



ところが、ハリスが開港を求めたのは他ならぬ「大阪」である。富は大阪にあることは明らかなのである。

この点、忠震は譲れない。大阪を開けてしまえば、ますます富は大阪に集中してしまう。つまり、幕府はますます弱体化してしまう。

さらには、大阪・京都は「攘夷派(外国人嫌い)」がワンサカいる。大阪に外国人が現れようものなら、外国と戦争すら起きかねない。



忠震はそうした事情をコンコンとハリスに説く。

ハリスは後に述懐している。「岩瀬は頭の回転が速く、反論が次々と出てきた。私はことごとく論破され、答弁に苦しんだ。」

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結局、開港地は、横浜・長崎・新潟・兵庫・函館と決まった。もちろん大阪は外れた。そのかわりに「兵庫」を加えた。新たに開港したのは「兵庫」と「新潟」のみである(横浜は下田の代わり)。



こうして、1858年日米修好通商条約が締結された。

ここに日本は正式に開国したのである。

武力に屈したわけではなく、世界情勢を鑑(かんが)み、新しい日本のカタチを提示したのである。



この日米修好通商条約は「不平等条約」として悪名高い。

しかし、締結当時はそれほど「不平等」でもなかった。

日本に「関税自主権」がないとされたが、決められた税率は20%。他国に比べ低いわけではない。また、「治外法権」に関しても港内に限定されていた。

本当に「不平等」となるのは、薩英戦争、下関戦争などを経て、1866年に関税率を20%から5%に引き下げられてしまったからである。また、金と銀の交換レート(1:4.65)に関しては、国際的な相場(1:13.5)に比べて明らかに不平等であった。



日米修好通商条約が国内で猛反発を受けたのは、天皇の勅許を得られなかったことが大きい。

結局、岩瀬忠震(幕府)の独断で締結するカタチとなってしまったのである。

忠震は安政の大獄の余波を受け、左遷後に永蟄居処分を受け、44年の短き生涯を閉じた。



岩瀬忠震の功績は決して小さくない。

日本が植民地化を免れたのは、土壇場で日米修好通商条約が成立したからとも言われている。植民地化されるよりかは、「多少の不平等を飲む」ぐらいの腹積もりだったのである。

また、忠震の功績に「講武所」や「長崎海軍演習所」の開設がある。これらは後の「陸軍」、「海軍」となり、日本の国防の元となるのである。

激動の狭間にあって、忠震は見事な決断を下したと賞賛されている。



現在の日本外交は「弱腰」と非難されがちである。

そして、その「弱腰」の大元は江戸幕府の開国にあるとされている。

しかし、丁寧に歴史書を紐解いていけば、当時の交渉が「弱腰」であったとは言い難い。むしろ、決然とした気迫を感じる。

「世におもねず、衆にへつらわず」



「武力に屈したか?」

そうは感じない。

むしろ、あの幕末の激動の中で、世界の潮流をよくも読み違(たが)えなかったものだと感心せざるを得ない。



なぜ、「弱腰」とされたかは後の歴史の問題である。

江戸幕府の後を継いだのは明治政府。明治政府にとっては、いかに幕府が軟弱であったかを強調した方が好都合であったのだ。

そもそも、開国の歴史においてアメリカ側の「ペリーとハリス」ばかりが有名で、彼らに対した「林復斎と岩瀬忠震」が日本人にすらあまり知られていないというのも奇異な話である。

幕府は腐っていたとはいえ、人物がいないわけではなかった。幕府の高官には当代一流の人物がまだまだいたのである。林復斎、岩瀬忠震は時代の傑物である。



時代の波は過酷である。

時として真実を覆い隠し、事実を大きく歪めてしまう。

後世の我々にできることは、そうした歪みを時間をかけて修正していくことのみである。



歴史が熱いうちは手が出せない。

第二次世界大戦の歴史が歪められているのは十分承知でも、なかなか真実は語られないものである。

しかし、江戸時代ともなると、もはや直接の利害関係は存在しない。

幕末の英傑たちの姿は、少しづつ明らかになりつつある。

坂本龍馬ですら、しばらくは誰にも知られていなかったのだから。



過去の日本人を賞賛することは、未来の日本人として自信を持つことにもつながる。

いたずらにネガティブキャンペーンをするならば、それは自らの首を絞めることにもなりかねない。




「幕末」関連記事:
ロシアが日本を襲った「露寇事件」。この事件が幕末の動乱、引いては北方領土問題の禍根となっていた。

江戸の心を明治の心に変えた「ジョン万次郎」。彼の結んだ「奇縁」が時代を大きく動かした。


出典:BS歴史館 シリーズ
 あなたの常識大逆転!(2)
「幕末・日本外交は弱腰にあらず!〜黒船に立ち向かった男たち」


posted by 四代目 at 16:46| Comment(13) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 読みました。岩瀬忠震の関連検索で辿り着きました。しかし日米和親条約が「1584年」となっていました。「1854年」でしょう。あと「1848年」天保の薪水供与条約は明らかにおかしいかと。1848年は既に嘉永年間では。(調べましたら旧暦で2月28日から嘉永元年となって居りました。それまでは弘化年間ですな。1848年と言う年は)
Posted by せただ at 2012年01月01日 01:42
ご指南ありがとうございます。確かに年号に関する入力ミスです。ご指摘の通り、日米和親条約は1854年であり、天保の薪水給与令は1842年であります。ありがたく訂正させていただきます。
Posted by 風無師 at 2012年01月01日 14:55
NHk火曜日のさかのぼり日本史で、初めて「岩瀬忠震」の名を耳にして感銘を受けました。
ここにたどり着いてじっくり読ませていただきとてもよく理解がふかまりました。
教科書には「日米修好通商条約」「井伊直助」などしか記憶にありませんが、このような人材の活躍があったことを知りませんでした。
確かに歴史は為政者を中心に書かれている気がします。
幕末から維新後の日本を支えた有能な人たちをもっと掘り下げていかないと正しい明治維新とその後の発展はわからない気がします。
平清盛にしろそうです。池宮彰一郎「平家」で目からうろこ。今回の「平清盛」の取り上げ方も面白いと思います。
Posted by chagu mama at 2012年07月21日 15:26
有り難うございました。
Posted by 森田必勝 at 2012年07月31日 10:34
有り難うございました。
それにしても、林復斉とか、この岩瀬忠震とか、新に評価されるべき人物が、勝者の歴史の中で埋没させられ、薩長同盟も、船中八策も、武器商人にすぎなかった坂本竜馬の手柄にされるような『幕末史』は、何とかならないものでしょうか!!

Posted by 森田必勝 at 2012年07月31日 10:45
歴史の詳細は都合よく削られて、まるで違ったように見せられてしまっているのですね。

一般に言われていることは大筋では間違っていないかもしれないですが、肝心なことが隠されているというのは多いと思います。嘘ではないけれど、同時に「何が話されていないか」をこれからは歴史の中に見つけないといけないと思いました。
Posted by y at 2012年10月20日 14:46
NHK BS歴史館 「幕末 日本外交は弱腰にあらず」
からの、ほとんどそのまんまコピペのようですが・・・
使われている画像もそこからの借用のようですし
よーく見れば、最後の方に小さく引用先が・・・

引用を否定はしませんが、ページを立ち上げる以上
もっと明確に表示して欲しいところです
丸ごとそのままでなく、主体的な自身の視点が欲しい・・・
自戒も込めて。


和親条約では「交易」は拒絶されたので「開国」には至らなかった
とは言え、

一応、建前として
オランダや中国とは交易はあったものの、国交はなかった。
出島に商館はあっても、公館も領事もいなかった。
因みに、当時、国交があったのは朝鮮と琉球のみ。
朝鮮とは対馬藩を介して、琉球とは薩摩藩を介して国交があった。

日米和親条約 第5条
・下田および箱館に一時的に居留する米国人は長崎におけるオラン
 ダ人および中国人とは異なり、その行動を制限されることはない。
・行動可能な範囲は下田においては7里以内、箱館は別途定める。

なので、それなりの風穴は開いた(開けられた)かと。

因みに、当時の地名表記は
大阪 → 大坂、函館 → 箱館、ですね
当のNHK番組の画面上でも、そう表記されていました。


>「治外法権」に関しても港内に限定されていた

日米修好通商条約で、治外法権が港内に限定・・??
番組で言っていた趣旨は、それぞれで居留地を造り、概ね
その中に居てくれれば、結果的にそれ程問題ない、だったかと。

日米修好通商条約 第6条
・日本人に対し犯罪を犯したアメリカ人は、領事裁判所にて
 アメリカの国内法に従って裁かれる。

日米修好通商条約 第7条
 開港地において、アメリカ人は以下の範囲で外出できる。
・神奈川:東は六郷川(多摩川)まで、その他は10里。
・箱館:おおむね10里四方。
・兵庫:京都から10里以内に入ってはならない。他の方向へは
    10里、かつ兵庫に来航する船舶の乗組員は猪名川から
    湾までの川筋を越えてはならない。
・長崎:周辺の天領。
・新潟:後日決定。


>結局、岩瀬忠震(幕府)の独断で締結・・  
締結と言うか、幕府全権、岩瀬忠震と井上清直が、独断で調印し、
井伊直弼に処分された。堀田正睦と松平忠固も老中を罷免された。
井伊はあれでもかなりの尊皇派で勅許には相当にこだわっていた。
岩瀬と井上が、やむを得ぬ時は現場判断で調印しても良い、との、
言質を井伊直弼から取っていたにもかかわらず。

一般的な風説では、井伊直弼自身が、勅許を待たずに勝手に
調印した・・・かのように言われるが、実態は相当に違う。

1865年 英国公使 パークスは、欧米列強の対日外交団を主導し、
列強連合艦隊を兵庫沖に派遣、孝明天皇を威嚇し
日米修好通商条約 → 安政5カ国条約、の勅許を出させた。
( 兵庫開港の勅許は拒否 )

1866年 孝明天皇 死去

1867年 5月 兵庫開港の勅許

>金と銀の交換レート・・・明らかに不平等であった。

それを米国にまで乗り込んで成分分析までして証明して見せたのが
幕臣の、小栗上野介(小栗忠順)、多くの日本人が名前すら知らない
この人物こそが、幕末最大の英傑と言っても良いだろう。

>時として真実を覆い隠し、事実を大きく歪めてしまう。

咸臨丸をどかせば歴史の真実が見えてくる・・・、
http://tozenzi.cside.com/oguri.htm

「明治政府の近代化政策は小栗忠順の模倣にすぎない」 大隈重信
Posted by at 2017年06月28日 15:44
これまた最近の史学会の流行の言説として、日米和親条約では
「交易」は拒否されたのだから「開国」はしていないと言うが


>そもそも、「開国」とはどういう状態か?
>国と国が「交易」を開始することである。

ならば、出島で幽閉状態でも交易があったオランダとの間では
「開国」 していたと言えるのだろうか?

あるいは、「交易」 さえあれば、「開国」 と言えるのか?

オランダとは国書の交換すらなく、従って国交は無かったが

因みにオランダからは、1844年に軍艦が来航し
オランダ国王の親書を携え、国交を求めたが、
既に交易がありながら幕府は国交についてはこれを拒否した。
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_dutchnews_kingad_front.html

http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_dutchnews_kingad_main.html


そもそも、「交易」と「国交樹立」と、
どちらが重い事なのか、言うまでもないだろう。

ペリーは、米国大統領フィルモアの親書を携え
日本と国交を結んだ。
「交易」は拒否されたからと、軽い事では決してない。


>復斎は外交の達人である

ん?、林大学頭復斎が「外交の達人」など聞いたこともない。
「外交交渉」でそれまで、どれだけの実績があったのかな?

林復斎は、幕府直轄の学問所、昌平坂学問所の大学頭であり
それだけに幕府の対外関係を含む情報にも接する立場にあり
そうした知見を駆使して、論理的な交渉が出来た。


>あくまでも「薪と水」の補給のみに限定した
>長崎では外国船への「薪と水」の給与が認められていた

「薪水給与令」 は何度か出され、長崎でロシアの使節
レザノフ一行が追い返された後にも「文化の薪水給与令」
が出されたが、そもそも困窮した外国船に薪水を供与し
穏便に退去させる旨のもので、これが長崎限定だったら
どうなるのか?、北海道で困窮した船に長崎に行けと?

幕府がペリーとの間に交した、「日米和親条約」 が
長崎に、下田と箱館を加えて、単に「薪と水」を
くれてやるだけの話だったのか?、唖然としてしまうが。
条約の条文に目を通したのかな?

「国交」 が樹立されたのであり、それが為に
最恵国待遇の承認、米国公館・米国外交官の設置が許可
されたのであり、それまでの鎖国体制が崩されたのであり
歴史の大転換であった事に変わりはない。

下田駐在領事の許可等の規定がなされ、これに基づいて
初代駐日総領事としてハリスが来航し、更に交易も、
と、突き進んでいく事になる。

日米和親条約が無ければ、ハリスが初代駐日総領事として
来日出来る訳がないだろう。

結局、英・露・蘭・仏なども雪崩をうって後に続く。

「薪と水」の給与のみ、などと言う軽い話ではない。
出島のオランダどころの話ではない。

勿論、植民地状態にされてしまった、隣の清国の二の舞を
必死に防いだ、幕府の優秀な人材は賞賛されようが。


良い悪いは別として
米国は先の、第一次遣日使節、ジェームス・ビッドル率いる
艦隊を江戸湾の浦賀に派遣し、開国を求めたが
結局、交易すら拒否され、追い返された事から
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_Biddle_front.html

第二次遣日使節として、ペリー艦隊を浦賀に派遣し
問答無用、砲艦恫喝外交で、頑なな鎖国体制の日本の現状に
大きな風穴を開ける事に成功し
次のハリスの通商交渉に繋いだ、と言えよう。


そもそもペリー来航の、とりわけ半世紀以上前頃から
様々な外国船が日本に来ており、天下太平に過ごしていた中で
突然ペリーの艦隊が来たわけでもなく、幕府はペリーの
来航情報を事前にキャッチしていた。

江戸後期主要異国船渡来記録
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_ikokusen_front.html

上記以外でも、それ以前から非公式には、ロシアや米国から
ベニョフスキー、シュパンベルク、ケンドリック等が率いた
船も来ており、ロシアの使節、レザノフ来航の前にも
1796年、英国の軍艦プロビデンス号が室蘭に来航した。
http://www.city.muroran.lg.jp/main/org1263/providence.html

長崎ではペリー来航の半世紀も前から米国船が
堂々と交易していた、それも13回も、出島のオランダ商館
によるチャーター船としてだが ( アメリカ傭船 )


>過去の日本人を賞賛することは、未来の日本人として
>自信を持つことにもつながる。

過去であれ今日であれ、白か黒かで安直な神格化も否定も
なすべきではない、世界の混乱の根元だろう。
歴史は感情論ではなく、まずは史実を正確に掌握すべし
その上での真摯な吟味とバランスが必要だろう。

単に、中間点に立つと言う意味ではなく、公平・公正に
俯瞰的に客観視する視点・視野の広さである。

神社まで建立され、神格化された倒幕派の教祖、
吉田松陰の評価は 『盛り過ぎ』 か、こんなのがあったが。
http://wildriverpeace.hatenablog.jp/entry/2018/01/26/214248


>いたずらにネガティブキャンペーンをするならば、
>それは自らの首を絞めることにもなりかねない

恣意的にそれをやったのが、「勝てば官軍」であり、
とりわけ長州閥でもあった。

天下太平の眠りを覚ます、ペリーの黒船来航、腰を抜かした
幕府はペリーの威圧に屈し、開国へと総崩れ、そして崩壊、
輝かしい文明開化の明治が始まった、
と言うストーリーにしておきたかった。

明治以降の歴史教育というものが、勝てば『官軍史観』で
とりわけ長州閥によって都合良く書かれ都合良く隠蔽され、
それを未だに引きずっている。

ごく最近でも、NHK大河ドラマ 「いだてん」 等に於いて
未だに 「咸臨丸神話」 を引きずっていたが。
http://tozenzi.cside.com/kanrinmaru-byou.htm

こちらが 「正規の」 遣米使節
http://tozenzi.cside.com/oguri.htm

明治政府の近代化政策は小栗忠順の模倣にすぎない
  ー 大隈重信 ー


むしろ、幕末に於いては幕府より、薩摩・長州・土佐・水戸
などに於ける尊皇攘夷過激派こそが外国排斥で突っ走り
幕府の開国に向けてのソフトランディングの邪魔をした。

1863年 【 イギリス公使館焼打事件 】 隊長:高杉晋作、
火付け役:伊藤博文

日本人に攘夷の不可能を思い知らすため「文明国」の武力を
示す必要を感じた、英国公使オールコックは、1864年
長州藩への懲罰攻撃を決意し、下関を攻撃・制圧・占領し、
『改税約書』 などの不平等条約が押しつけられた。


ロシアはペリーの半世紀も前から正規の遣日使節を派遣したが
二度にわたり信義を尽くしたロシアと門戸を開いていたならば
また違った歴史が刻まれたかもしれない。
ロシアとの交流の中で国力をつけていれば、英米などから
「不平等条約」を押しつけられる事も無かったかも知れない。

当時そうした意見が幕閣や、杉田玄白のような蘭学者などから
も挙がっていたのである。

参考: ー 渡辺京二・著 『黒船前夜』 ー

こちらの方のブログでも詳しく紹介されていた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-440.html
Posted by at 2019年03月19日 12:02
以前録画しておいた、NHK BS歴史館
「幕末 日本外交は弱腰にあらず」 を
改めてチェックしてみると、のっけから

>唯一、長崎の出島でオランダと中国に限り
>貿易を許していました。

と、NHKの、それも歴史番組までがデタラメを

出島は長崎港湾内に人工的に築造された島で、当時は唯一
オランダのみが居留・交易していた、特別管理区域であり
中国は中国で別の場所で居留・交易していたが。

長崎・唐人屋敷跡散策
http://isidatami.sakura.ne.jp/touzinyasiki_1.html


因みに、当初はポルトガル商館を平戸から移転させたが
ポルトガル勢を追い出し、空き地となった出島に
平戸にあったオランダ商館を移転させた。
オランダ商館は、約4千坪の出島の借地料として、
今日換算、年額約1億円程を幕府に支払っていた。

オランダ人や中国人を統括管理する長崎奉行所は
それらから少し離れた立山にあった。


未だに誤解されたイメージが定着しているが、ともかく
対外交易・交流の、何でもかんでもを出島が担っていた
訳ではない。あくまでもオランダ一国だけの区域である。

Wikipedia までが、ロシアの使節レザノフ一行が
出島に来航しただの、出島に半年間幽閉されただの
とんでもない記述がなされ、そんなデタラメまで
引用コピペしたような記述もアチコチで・・・


ところで

>この交渉を担当した「ハリス」は自身を「平和の使者」
>と言って、砲艦外交のペリーとは一線を画する態度で
>臨んできた。

「ハリス」が自身を「平和の使者」として、対比させたのは
同じ米国人のペリーではなく、アヘン戦争で中国(清)を
植民地状態に置いた、英国の事だが。

せっかくペリーが開国の先鞭を付けてくれ、それに基づいて
初代駐日総領事として日本に赴任する事になったハリスが、
ペリーに対して、そんな事を言う訳がないだろう。


>ペリーが帰った後、アジアの情勢は大きく変わっていた。
>清がアロー戦争(1856)でイギリス・フランス連合軍に
>コテンパンにやられ、半植民地化してしまったのである。

アロー戦争以前に、麻薬(アヘン)売人、英国は中国(清)に
売り込みし、拒絶されるや逆ギレでアヘン戦争を起こした。
ここから、特に東アジアの情勢は大きく変わった。

ペリー来航以前から、日本はアヘン戦争の情報を得ていたが
極悪非道な英国の所業を知りつつも、軍事力の差の前に
戦争の口実を与えかねないそれまでの異国船打ち払い令を
引っ込め、1842年、天保の薪水給与令を発令していた。


日本に交易を拒否された、ロシアの使節レザノフの部下が
レザノフからの撤回命令をも無視して、蝦夷地の数ヶ所を
報復懲罰攻撃をした 『文化露寇事件』 どころではない。

文化露寇事件の首謀者達はその後、逮捕・投獄されたが
アヘン戦争は英国政府の意志として行われた。


ハリスは、日本へのアヘンの流入を阻止するためにも
早く米国と条約を締結すべし、と迫ったのである。

◆ 日米修好通商条約、第2条 抜粋

日本とヨーロッパの国の間に問題が生じたときは、
アメリカ大統領がこれを仲裁する。

◆ 日米修好通商条約、第4条 抜粋

アヘンの輸入は禁止する。


単にペリーが来て、次に米国商人のハリスが来た、などと言う
単純な話ではない、ハリスはペリーによる日米の合意に基づき
米国の外交官として日本に赴任駐在(総領事)したのである。


◆ 日米和親条約、第11条

両国政府のいずれかが必要とみなす場合には、本条約調印の日
より18ヶ月以降経過した後に、米国政府は下田に領事を置く
ことができる。

◆ 日米和親条約、第12条

両国はこの条約を遵守する義務がある。
両国は18ヶ月以内に条約を批准する。


ペリーとの、日米和親条約では
長崎に箱館と下田を、薪水供与の地として追加しただけ
等と言う、甘っちょろい話では無いのである。

ペリーとの、日米和親条約の段階で、既に日米両国は、
好み( よしみ = 国交 ) を結ぶ約束をしたのである。


つまり、日本はペリーとの、日米和親条約の段階で
『 開国 』 したのである。

これが開国でなかったら、先のロシアからの正規の使節
アダム・ラクスマンや、ニコライ・レザノフ、更には、
1844年、オランダの軍艦が持参した、国交を求める
公文書の受領を幕府が拒絶したのは何だったのか?

オランダとは二百年もの交易がありながら、国交については、
『祖宗の法』を盾に、幕府はこれを拒絶したのである。


ペリーが持参した米国大統領、フィルモアの親書を
幕府は受領し、日米間で条約に調印したのである。
これがどれ程重い事であるか、言うまでもないだろう。

但し、

日本が植民地化を免れた陰には、幕府にも、河尻肥後守春之
荒尾但馬守成章、林大学頭復斎、井上清直、岩瀬忠震、
川路聖謨、村垣範正、小栗上野介忠順、などといった、広い
視野と見識を持った優秀な人材の活躍があったのであり
彼らは無能でも弱腰でも無かったのは、大いに同意だが

明治以降、明治新政府、とりわけ長州閥により
幕府による業績は恣意的に隠蔽されて来たが
http://tozenzi.cside.com/oguri.htm

『正規の』 遣米使節の業績が、
http://tozenzi.cside.com/sisetu-gyoseki.htm

偽りの 『咸臨丸神話』 の虚構にすり替えられ
http://tozenzi.cside.com/kanrinmaru-byou.htm

ウィキペディアの「小栗忠順」にご用心
http://tozenzi.cside.com/wikipedia.html


1861年ロシアの軍艦が対馬に無断逗留する事件が起きたが

そもそもの発端は英艦の対馬不法侵入であり、もしここで
遣米使節として米国に渡り、米国大統領と批准書交換をし
その後世界一周して帰国した経験を持つ、小栗上野介忠順や
村垣範正の、ルールに則った、冷静な、しかし断固とした
地道な尽力が無かったら、対馬は中国(清)に於ける
香港のように、英国の領土になっていたかも知れなかった。


ロシア艦に退去を促すため、小栗上野介は英国を頼った
などとの、とんでもないデタラメ言説もあるが

小栗らは、安易に英国の軍艦派遣の提案に乗ることは
「前門の虎を追い出して、後門に狼を招くようなもの」と
反対していたのである。

箱館奉行村垣淡路守範正〜ゴシケヴィチ箱館領事に対して、
日魯修好通商条約に反する対馬滞留は不法である、という
幕府の退去要求が効いている。
http://tozenzi.cside.com/tusimajiken.html


最幕末期から明治初期にかけて、実質的に日本は二人の英国人
ラザフォード・オールコック、ハリー・パークス、によって
牛耳られ、長崎のグラバー邸で知られるグラバーが陰で暗躍し
彼らに結果的に踊らされ、操り人形、手先にされたのが
坂本龍馬だろう。


米国のハリスが健康を害し、米国内で南北戦争が勃発したりで
日本での列強外交団の主導権は英国に握られた。

ー ラザフォード・オールコック著:『大君の都』 より ー
詩人と、思想家と、政治家と、才能に恵まれた芸術家からなる
民族の一員である我々と比べて《日本人は劣等民族》である。

外国人として、霊峰である富士山に初登頂したオールコックは
山頂で富士山火口に向けてピストルで弾丸を発射した。
Posted by at 2019年04月19日 16:57
そもそも、ペリーは絶対禁制の江戸湾に艦隊を突入させたが
日本はこれを阻止する事も追い払う事も出来ず、
ペリーの上陸と会談要求を受け入れざるを得なかった。
更には艦隊の船は、品川沖にまで進入し江戸湾の調査をした。

これだけでも、どう見ても、
威圧による屈服なのは否定のしようがないだろう。


因みに、ペリーの艦隊に先立つ、米国からの正規の
第一次遣日使節である、米国東インド艦隊司令官、
米国海軍准将、ジェームス・ビッドルの艦隊も
江戸湾に進入してきたが、幕府は頑としてこれを拒否し
上陸さえ許さず、追い出すことに成功した。
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_Biddle_front.html

また、幕府はビッドルに、長崎以外での交渉はしない事も
申し渡していたのだが、


ビッドルに続き、再び禁制を無視して、江戸湾に進入した
米国からの第二次遣日使節ペリーとは、日米和親条約により
その第11条により、米国は下田に米国領事を置くことを
日本に許諾させ、日本は米国公館の日本への設置を認めた。

この事は、出島におけるオランダとの交易どころではない
大きな意味を持つ。

一応建前として、出島のオランダ商館関係者は民間人だが
米国領事はレッキとした米国政府の役人である。


ペリーとほぼ同じ頃ロシアから日本に開国を求めたロシアの
プチャーチン艦隊は、わざわざ外交の窓口である長崎に
来航したが、幕府の指示に従い、下田に回航した。
https://blog.goo.ne.jp/taktsuchiya/e/46c1cf4bb55bc291af33145b932993e1

https://bushoojapan.com/tomorrow/2013/10/15/7651


日本がペリーの威圧に屈したのは間違いないが
要は、完全に屈服したのか、それなりに阻止できたかであり
幕府にも優秀な人材はいて、完全屈服は免れた、と言うのが
正確なところだろう、0か100か、の話ではない。


ペリーと日本とで交わされた合意にもとづき
ハリスが米国の役人「総領事(のち公使)」、として
日本に赴任し、日米修好通商条約、が結ばれたが

>結局、開港地は、横浜・長崎・新潟・兵庫・函館と決まった。
>もちろん大阪は外れた。

日米修好通商条約、第3条では、開港地は

神奈川、箱館、兵庫、長崎、新潟、と記述され、

江戸、大坂での開市も認められた。

なお、神奈川開港後、日米和親条約で開港地となっていた
下田は半年後、閉鎖することになった。


幕府はこの規定により、当初、神奈川としていた開港地を
横浜としたため、その後同様の条約を結んだ欧米列強からも
ブーイングが出たため、神奈川への領事館の設置を認めたが
横浜の開発に伴い、神奈川から横浜へ領事館も移転した。


※ ここで言う、神奈川、兵庫、長崎、新潟、とは
  現在の神奈川県、兵庫県、長崎県、新潟県
  の事ではない。

神奈川とは:現在の横浜市神奈川区のあたり

世界的に有名な葛飾北斎の浮世絵
「神奈川沖浪裏」、の神奈川の事、宿場があった。

横浜とは:当時の横浜村、現在の横浜市関内のあたり

兵庫とは:現在の、神戸市兵庫区のあたり


ところで、日米修好通商条約の条項に、アヘンの輸入禁止
を入れさせたのは、実はハリス側からだったとされる。
「平和の使者」、を自称した、彼なりの意地だろう。

日本人は《劣等民族である》、として日本人を含むアジア人を
蔑視した、超絶植民地主義帝国、英国総領事(のち公使)の
オールコックなどに比べれば、まだマシだったと言えよう。


ロシアの使節プチャーチンは、交渉に当たった幕府側全権
川路聖謨(かわじとしあきら)を「一流の人物」 と称えた。

その後日本側からも、プチャーチンの日露友好への貢献により
1881年(明治14年)、勲一等旭日章が贈られた。

江戸時代に日本と関わった外国人で、日本の最高栄誉である
勲一等旭日章が贈られたのは、プチャーチンが唯一だろう。
Posted by at 2019年04月24日 14:54
>「交易」は鎖国政策の要(かなめ)であり

そもそも「交易」と、「国交樹立」、と
どちらが重いことなのか、言うまでもないだろう

鎖国政策の要は、交易よりも、両国政府の国書交換による
国交があるか無しか、なのだが。

交易だけなら、松前藩が幕府公認でアイヌと交易しており
当時ろくに米が取れなかった松前藩の財政基盤となっていた。
これは辺境同士の取引とされ、「祖宗の法」 適用外だった。


日米和親条約のキモは、下田と箱館の開港自体よりも
国書を交換し、第11条により、日本が米国外交官の
赴任・駐在を認めた事の方が遙かに大きい。

幕府はそれまで、鎖国政策の根拠としてきた、先のロシア
からの遣日使節、ラクスマンやレザノフ、更にはオランダに
示してきた、「祖宗の法」=「朝廷歴世の法」を、
投げ捨てたのである。

つまり、日本はこれで 『 開国 』 したと言って良い。

出島には商館や商館長は居ても、公館も領事も居なかった。


>ペリーに花を持たせるためにも、多少の譲歩は必要
>とされたのである。

多少の譲歩どころの話ではない。


>こうして、日米交渉は復斎のシナリオ通りに進んだ。

冗談ではない、日本はペリーの威圧に屈した。
だが、完全屈服は免れたと言ったところだろう。
第11条も、復斎のシナリオだったのかと。

第11条では「両国政府のいずれかが必要とみなす場合」
としており、「両国政府のいずれもが」となっていないのは
この点、交渉術においてもペリー側の勝利と言って良い。

これに基づいてハリスが駐日総領事として赴任・駐在した。


>日米修好通商条約は「不平等条約」として悪名高い。

当たり前だろう、片務的条約なのだから。
むしろ関税の問題より、片務的領事裁判権が問題だった。

日米修好通商条約 第6条
・日本人に対し犯罪を犯したアメリカ人は、領事裁判所にて
 アメリカの国内法に従って裁かれる。


とは言え、日本の法整備の未発達、尊皇攘夷過激派による
外国排斥の機運の高まりなど、やむを得なかった面もあるが

日米修好通商条約調印前にも、ハリスに対するテロ未遂事件
が起きている。Wikipedia によると(要旨抜粋)

安政4年、( 1857年 )
ハリスは大統領親書の提出のために江戸出府を望むが、
幕閣では、水戸藩の徳川斉昭ら攘夷論者が反対し、
江戸出府は留保された。しかし10月にハリスは出府し、
10月21日に将軍徳川家定に謁見した。

このハリスの動きに対し、水戸藩郷士堀江芳之助、蓮田東藏
信田仁十郎らがハリスの襲撃を計画したが、未遂に終わった。
11月27日、一同は自訴し、獄に投ぜられた。


その後も、欧州列強とも同様の条約が結ばれると
尊皇攘夷過激派による治安の悪化など、治安維持もできない
状況に幕府も、「強腰」に出るに出れなくなり
『改税約書』 などの不平等条約が押しつけられた。

そのくせ、薩長などの尊皇攘夷過激派は、チョッカイを出した
英国などからコテンパンにやられると、手の平返しで
180度態度を変え英国などとつるんで討幕運動に向かった。


1867年、幕府はパリ万博に出展ブースを設けたが、何と、
そこには同じ会場に薩摩藩も独立国家の如く、ブースを出して
いた。これに幕府側は猛抗議したが、フランス当局の仲裁で
暴力沙汰にまではならなかった様だが。


結局、倒幕に成功するや、外国排斥テロリストであった過去や
賠償金の支払いを幕府にさせた事、幕府の有能な人材が必死で
日本の植民地化を防いだ事、「正規の」遣米使節の業績などは
隠蔽され、さも自分達によって文明開化がもたらされた、との
ポーズをとった。全く「アッパレ」とは言い難い態度ですな。

小栗上野介忠順の進言を振り払った、ラスト将軍、徳川慶喜の
優柔不断さが招いた結果でもあったが。

明治政府の近代化政策は小栗忠順の模倣にすぎない
  ー 大隈重信 ー
http://tozenzi.cside.com/oguri.htm

小栗上野介忠順など、業績どころか、その存在すら、
歴史から抹殺され、「咸臨丸神話」、にすり替えられた。
今日に於いても、どれだけの日本人がそれを知っているのか?
( 既出を参考の事 )


因みに、Wikipedia の、「幕末の外国人襲撃・殺害事件」
を見ても、幕末から明治にかけて、実質的に日本を牛耳った
二人の英国人、オールコックやパークスがよく出てくるのは
流石と言おうか、何と言おうか・・・

どれだけ彼らに口実を与え、日本を貶めて来た事か、もっとも
マイケル・モース事件などは、日本側に非は無いようだが
この点は、オールコックも日本への気遣いを見せている模様。
( 幕府役人が規則違反者を事情聴取しようとしただけ )

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E8%A5%B2%E6%92%83%E3%83%BB%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

Posted by at 2019年05月04日 16:16
以前録画しておいた、NHK BS歴史館
「 幕末 日本外交は弱腰にあらず 」、を更に改めてチェック
してみると、最後近くになって出演者の一人、歴史家・作家の
加来耕三氏が、処分を受けた岩瀬忠震について

「可哀想としか言いようがないですね、岩瀬という人の名前が
 残ればまだしもの事ながら、多くの日本人はこの岩瀬忠震と
 言う人物の名前すら知りませんから」

と言いながら

「アメリカに人材を送りましたですよね、
 勝海舟や福沢諭吉を送りましたよね
 あれ、何しに行ったかのかと考えてみれば日米修好通商
 条約の批准をするために行ったわけですよね」

と言っていたが、またもや、『目が点』、になった。

日米修好通商条約の批准をするために行った、のは
咸臨丸の勝海舟や福沢諭吉などではないのだが・・・
『正規の』、遣米使節については一言も無いまま・・・


そもそも咸臨丸は、米国人乗組員のお陰で太平洋に沈まず
サンフランシスコまで行って、そのまま引き返した
『非正規』、の遣米使節だったが。

この時の最高責任者は、木村喜毅(きむらよしたけ)
であり、提督とされ、福沢諭吉は木村喜毅の随員だった。


因みに、咸臨丸はオランダで建造された船だったが
記録に残る日本人の太平洋横断は、それより遙か昔
1610年、徳川家康の時代に京都の貿易商人、田中勝介が
それも、国産大型洋式帆船でメキシコまで往復横断している。
http://willadams.anjintei.jp/wa-03-will_adams-itou.html


で、咸臨丸は艦長が勝海舟だったが、提督も艦長も船酔いで
操船に参加出来た日本人は、ジョン万次郎他
数名でしかなかった。

艦長であるはずの勝海舟が船酔いで、役立たずであり
このためその後、福沢諭吉と勝海舟の仲は険悪なままだったが
木村喜毅と福沢諭吉とは終生親密な交友を続けた。

なお、Wikipedia の、木村喜毅は「遣米副使説」、も大間違い
であり、遣米副使は、村垣範正、だけしかいない。
後に、村垣範正は 「対馬事件」 でも 「アッパレ」 な
外交態度を示した日本人である。


日米修好通商条約批准書交換をするために行った、のは
『正規の』、万延元年遣米使節であり、既出だが
正使・新見正興、副使・村垣範正、観察・小栗忠順
http://tozenzi.cside.com/oguri.htm

なかでも、日本近代化の礎を築いた、小栗上野介忠順は
その後隠居していたところを西軍に河原に引きずり出され
斬首されたのである。こちらの方こそ

「可哀想としか言いようがないですね、小栗という人の名前が
 残ればまだしもの事ながら、多くの日本人は小栗上野介忠順
 と言う人物の名前すら知りませんから」

と、言いたくなるが、多少知っていても、対馬事件で

ロシア艦に退去を促すため、小栗忠順は英国に頼った
などとの、とんでもないデタラメ言説など・・・いやはや
( 既出を参照の事 )
http://tozenzi.cside.com/tusimajiken.html

咸臨丸病の日本人
http://tozenzi.cside.com/kanrinmaru-byou.htm


ついでに、米国からの 「正規の」 遣日使節に限っても
第一次遣日使節が、ジェームス・ビッドル率いる艦隊であり
江戸湾の浦賀まで来たものの、追い返されている。
( 既出を参照の事 )

ペリーの艦隊は、それに続いた、第二次遣日使節だった。

米国船の交易要求だけなら、ジョン・ケンドリックの艦隊や
江戸湾に進入してきた米国商船、モリソン号などがあり
長崎では多数の 「アメリカ傭船」 が交易していた。

米国船に限ってもこうした状況があった。
こうした史実すら、どれだけの日本人が知っているのか?


この番組は、冒頭の、「唯一、長崎の出島でオランダと中国
に限り貿易を許していました」、だの、
勝海舟や福沢諭吉が、日米修好通商条約の批准をするために
アメリカに行った、だの、デタラメが多いですな。

皆様のNHK、公共放送の、しかも歴史番組がこれでは

仰々しいBGMやナレーションなどより、史実の検証を
もっとしっかりしやってもらいたい。
せめて、前述の様な基本的な事くらい。

ペリー来航のとりわけ半世紀以上前から、日本列島の周りは
異国船だらけであり、多数の事件も起きた。
対外的にも、決して、「天下太平」、だった訳ではない。
( 既出を参照の事 )

幕府は、異国船打ち払い令、薪水給与令、を出したり
引っ込めたり、場当たり的な対応が繰り返されていた。
Posted by at 2019年05月08日 17:00
繰り返しになるが、そもそも『交易』と『国交樹立』と
どちらが重い事なのか、言うまでもないだろう。

NHK BS歴史館「幕末 日本外交は弱腰にあらず」では
あまりにも、交易、交易と、そればかり強調しすぎており
その結果、国家間の関係に於いて、肝心要である、
『国交樹立』 の方が非常に希薄になってしまっている。


良い悪いの話ではなく、最近の分かり易い事例で示せば
今は制裁処置で停止されているが、つい最近まで日本は
国交のない(開国していない)、北朝鮮との間でも
交易(貿易)はしていた。

北朝鮮の船が、アサリ貝など海産物を積んで日本の港に
入港し、紳士服チェーン店などでは、安い北朝鮮製の
スーツが売られていたし、北朝鮮の貨客船も来航していた。


つまり、国交のない(開国していない)状況下でも
貿易(交易)はしていたのである。この事からしても、
『交易』に比して、『国交樹立』 の重さが分かるだろう。


江戸時代、オランダや中国とは、平戸や長崎で交易は
していたが国交は無かった。
当然、商館はあっても、公館も領事も居なかった。


1844年、オランダの軍艦パレンバン号がオランダ国王
ウィレム二世の国書を携え、国交樹立を求めたが、幕府は、

朝鮮・琉球ノ外ハ信ヲ通スルコトナシ、其国・支那ハ
年久シク通商スルトイヘ共信ヲ通スルニハ非ス
然ルニ去秋其国王ヨリ書翰差越トイエ共厚意ニメデヽ、
夫カ為ニ答レハ則信ヲ通スルノ事ニシテ、祖宗ノ厳禁ヲ侵ス

 朝鮮・琉球以外とは国を閉ざした。其国(オランダ)
 と、中国とは長らく交易してきたが、国交はない。
 ところが昨年秋に貴国国王より書翰が送られ、厚意に
 応えて返書を送れば、これは国交に当り、祖法の厳禁
 を侵す事になる。

として、国交樹立、開国の申し入れを拒否したのである。
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_dutchnews_kingad_front.html


それ以前にも、ロシアからも、公式遣日使節である
第一次、ラクスマン、第二次、レザノフの使節が来航した。


ペリー来航の7年前にも、米国からの第一次公式遣日使節
ジェームス・ビッドルの艦隊が来航したが、
同様に、祖法を盾に、交易・開国要求を拒絶し追い返した。
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_Biddle_front.html

此度我国ニ致交易度旨願ふといへとも、我国は新ニ外国の
通信通商をゆるさすこと堅き国禁にして、ゆるさざる事なる
故に早々帰帆いたすべし

 この度、我が国に交易を願うと言うが、我が国は新たに
 外国との国交・交易を持つことは国禁として堅く禁じ
 られている。早々に帰帆せよ。


非公式には、アダム・ラクスマン以前から、ロシアや米国
からの来航船はあったが、交渉が成立する事はなかった。


それまで幕府が、『祖宗の法』=『朝廷歴世の法』であり
議論の余地は無い、として来た事がひっくり返されたのが
ペリーとの国書交換による国交樹立だった。


ペリーに対しても、先のジェームス・ビッドルの時と同じく
幕府は問答無用で追い払う事が出来たのかと。

またもや、江戸湾の禁制が破られた挙げ句、
そこへの上陸と会談が強要され、砲艦恫喝外交に屈し
応じざるを得なくなったのである。

しかもそこで国書の交換、調印がなされたのである。

『論破した』、などと無邪気に鼻を高くしている場合では
ないのである。


これが、『開国』、でなくて何なのか?


>そもそも、「開国」とはどういう状態か?
>国と国が「交易」を開始することである。

日本と北朝鮮とは、貿易(交易)はあったものの
国交は無い、( 開国はしていない )


日米和親条約の合意にもとづき、
『片務的最恵国待遇』、の承認もなされ、
ハリスが、初代駐日総領事として日本に赴任した。


日本はペリーの威圧に屈して 『開国』 した事は
否定のしようがないだろう。

既出の様に、要は、100か0か、黒か白か
ではなく、完全屈服したのか、それなりに阻止出来たのか
なのであり、完全屈服は免れた、と言うのが正確なところ
だろう。


論破しただの、されただの
何でもかんでも一括りにし、頭から、100か0か、
黒か白かで、短絡的に決め付けようとするから
世の中おかしくなる、古今東西。

世の中はそれ程単純なものではない。
空気に飲み込まれ、流れに流されるばかりが能ではない。

つくづく歴史は感情論ではなく、
まずは史実を掌握すべしだと考える。

『咸臨丸神話』、などその典型だろう。
http://tozenzi.cside.com/kanrinmaru-byou.htm

日米修好通商条約の批准をするために行った、のは
咸臨丸の勝海舟や福沢諭吉などではない。

咸臨丸の最高責任者は、木村喜毅(きむらよしたけ)
であり、福沢諭吉は木村喜毅の従者だった。


因みに、江戸初期には、
『モーレツ強腰』 外交姿勢を取った事もあった。

既に交流を断絶していたポルトガルから、交易再開を求めて
使節団が来航したが、

幕府は乗員74名中、61名を、長崎で処刑し、
船は焼き払われ、生き残り13名は見せしめを見せられた
証人として、別船で返された。

→ 【 寛永17年 ポルトガル使節団長崎受難事件 】
Posted by at 2019年05月11日 14:20
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