2011年09月26日

江戸の日本を開いた男たち。林復斎と岩瀬忠震。そのアッパレな外交態度。


日本は「ペリーによる黒船の威圧」に屈して開国したのか?

歴史学者たちの間では、「ペリーは日本を開国させられなかった」というのが定説になっている。しかし、一般常識としては「ペリーの黒船」イコール「開国(鎖国の終了)」である。

なぜ、ここに「ズレ」が生じているのか?



江戸最末期、日本が鎖国から開国へと大きく舵を切ったのは確かである。

しかし、ペリーの来航では「開国していない」のである。

開国するのは、その4年後にやって来た「ハリス」との交渉によるもので、しかもそれは「圧倒的な軍事力の前に屈した」というよりは、幕府が「自ら開国を望んだ」というのが実情らしい。



そもそも、「開国」とはどういう状態か?

国と国が「交易」を開始することである。ペリーとの交渉では、幕府は「交易」を求められながらも断固として拒否している。



この辺りを少し掘り下げて見てみよう。

アメリカからやって来た「ペリー」は圧倒的な軍事力を背景に、日本を恫喝して「開国させてやろう」と意気込んでいた。

「日本近海に軍艦を50隻、さらにカリフォルニアにもう50隻。これら100隻の軍艦は20日以内に日本に到着する。」

もし、日本がアメリカの要求を飲まなければ、武力で踏み潰すと脅してきたのである。

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このペリーの無理難題に真っ向から立ち向かった日本人は誰か?

「林復斎(はやし・ふくさい)」である。

彼は儒学者でありながら、その家柄から外交には通暁していた。

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両国の交渉の席で、ペリーはいきなり大砲をボンボンとブチかます。まさに砲艦外交である。

ところが復斎、いっこうに慌てる気配を見せない。心地良さげに轟音の振動に身をまかすのみである。

苛立つペリーは、日本がいかに外国人に不当な扱いをしたかを轟々と非難する。

しかし復斎、淡々と「ペリーの誤解」を論破する。ペリーが非を唱える「外国船打ち払い令」はとっくに廃止されているし(1842)、ラゴダ号事件(1848)で外国人を牢に入れたのは、その外国人が狼藉を働いたからやむを得なかったと説明した。



ペリーは生粋の軍人であり、復斎は外交の達人である。

当然、両者の情報量にも雲泥の差があった。

復斎は鎖国された日本にありながらも、オランダなどから豊富な国際情勢の知識を仕入れており、世界の実情を手に取るように心得ていた。



ペリーは日本に「開港地」を求める。最低でも7〜8ヵ所を要求してきた。

当時のアメリカは「捕鯨」に熱心で(燃料として鯨油を必要とした)、太平洋でクジラ漁をするには日本で燃料(薪)や水を補給する必要があったのだ。

しかし、林復斎は捕鯨の寄港地ならばそれほどの数は必要ないとして、「下田」と「函館」の2港の開港しか認めなかった。

しかも、この地での「交易」を断固認めず、あくまでも「薪と水」の補給のみに限定した。



「交易」は鎖国政策の要(かなめ)であり、そう簡単にアメリカに認める訳にはいかなかったのである。

一方、「薪と水」だけであれば、すでに「薪水給与令(1842)」というのが存在し、長崎では外国船への「薪と水」の給与が認められていた。したがって、そこに「下田」と「函館」を加えることはそれほどの難題ではなかった。

むしろ、ペリーに花を持たせるためにも、多少の譲歩は必要とされたのである。



また、ペリーは開港地における外国人の行動範囲を「10里」まで要求した。

しかし、またしても復斎は異を唱え、「7里」に限定した。なぜなら、下田港から7里の範囲には天城山脈あり、外国人が無闇に行動するのを防げると考えたからである(函館は5里)。

事情のよく分からないペリーは復斎の案に従うより他なかった。



こうして、日米交渉は復斎のシナリオ通りに進んだ。

一貫してペリーが主導権を握ることはできず、ペリーは譲歩に次ぐ譲歩を強いられたのである。

結局、大目標であった「日本の開国」すら果たせなかったのである。



林復斎という人物はよほど腹の座った人物であったのだろう。

長き交渉(およそひと月)をへて、ペリーは復斎に好意すら抱くようになっていた。帰り際、復斎にこう言ったという。

「もし、イギリスやフランスが攻めてきたら、アメリカは軍艦を率いて日本を助ける。」

アメリカ側の資料では、林復斎を「厳粛で控えめな人物」と評している。力押ししてきたペリーに対して、復斎は「控えめ」ながらも強腰であったのである。



ペリーはこうも述懐している。

「将来、日本は強力なライバルとなるだろう。」

少なからず日本を見聞したペリーは、日本人の勤勉さや教養の高さに驚いたと伝わっている。



こうして、1854年日米和親条約が締結された。

一般には下田、函館の開港をもって「開国」とされるが、厳密には「交易」を禁じている点で、この2港は単なる補給港に過ぎない。

しかし、天保の薪水給与令(1842)では薪と水の給与は「難破船」に限定していたのだから、日米和親条約によりその範囲が拡大されたのは確かなことである。



日本が本格的に開国するのは、1858年の日米修好通商条約においてである。

この交渉を担当した「ハリス」は自身を「平和の使者」と言って、砲艦外交のペリーとは一線を画する態度で臨んできた。

日本側の代表は林復斎の甥、「岩瀬忠震(いわせ・ただなり)」である。

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ペリーが帰った後、アジアの情勢は大きく変わっていた。

清がアロー戦争(1856)でイギリス・フランス連合軍にコテンパンにやられ、半植民地化してしまったのである。

イギリス・フランスの次なる狙いは日本である。日本はアメリカとの関係を強める必要に駆られていた。さらに、江戸幕府の弱体化を防ぐために、幕府の力を強化する必要もあった。



そこで岩瀬忠震は考えた。

「横浜でアメリカと交易を行おう」。

幕府を強化するために、交易の富を江戸にもたらそうとの思惑である。当時、商売と言えば「大阪」であり、日本の経済活動の7〜8割が大阪に持っていかれていた。

そこで、横浜を外国との交易の拠点とすることで、交易の利益を幕府に集中しようと考えた。横浜を「長崎の出島」としようという目論見である。

忠震は明らかに「開国派」であった。



ところが、ハリスが開港を求めたのは他ならぬ「大阪」である。富は大阪にあることは明らかなのである。

この点、忠震は譲れない。大阪を開けてしまえば、ますます富は大阪に集中してしまう。つまり、幕府はますます弱体化してしまう。

さらには、大阪・京都は「攘夷派(外国人嫌い)」がワンサカいる。大阪に外国人が現れようものなら、外国と戦争すら起きかねない。



忠震はそうした事情をコンコンとハリスに説く。

ハリスは後に述懐している。「岩瀬は頭の回転が速く、反論が次々と出てきた。私はことごとく論破され、答弁に苦しんだ。」

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結局、開港地は、横浜・長崎・新潟・兵庫・函館と決まった。もちろん大阪は外れた。そのかわりに「兵庫」を加えた。新たに開港したのは「兵庫」と「新潟」のみである(横浜は下田の代わり)。



こうして、1858年日米修好通商条約が締結された。

ここに日本は正式に開国したのである。

武力に屈したわけではなく、世界情勢を鑑(かんが)み、新しい日本のカタチを提示したのである。



この日米修好通商条約は「不平等条約」として悪名高い。

しかし、締結当時はそれほど「不平等」でもなかった。

日本に「関税自主権」がないとされたが、決められた税率は20%。他国に比べ低いわけではない。また、「治外法権」に関しても港内に限定されていた。

本当に「不平等」となるのは、薩英戦争、下関戦争などを経て、1866年に関税率を20%から5%に引き下げられてしまったからである。また、金と銀の交換レート(1:4.65)に関しては、国際的な相場(1:13.5)に比べて明らかに不平等であった。



日米修好通商条約が国内で猛反発を受けたのは、天皇の勅許を得られなかったことが大きい。

結局、岩瀬忠震(幕府)の独断で締結するカタチとなってしまったのである。

忠震は安政の大獄の余波を受け、左遷後に永蟄居処分を受け、44年の短き生涯を閉じた。



岩瀬忠震の功績は決して小さくない。

日本が植民地化を免れたのは、土壇場で日米修好通商条約が成立したからとも言われている。植民地化されるよりかは、「多少の不平等を飲む」ぐらいの腹積もりだったのである。

また、忠震の功績に「講武所」や「長崎海軍演習所」の開設がある。これらは後の「陸軍」、「海軍」となり、日本の国防の元となるのである。

激動の狭間にあって、忠震は見事な決断を下したと賞賛されている。



現在の日本外交は「弱腰」と非難されがちである。

そして、その「弱腰」の大元は江戸幕府の開国にあるとされている。

しかし、丁寧に歴史書を紐解いていけば、当時の交渉が「弱腰」であったとは言い難い。むしろ、決然とした気迫を感じる。

「世におもねず、衆にへつらわず」



「武力に屈したか?」

そうは感じない。

むしろ、あの幕末の激動の中で、世界の潮流をよくも読み違(たが)えなかったものだと感心せざるを得ない。



なぜ、「弱腰」とされたかは後の歴史の問題である。

江戸幕府の後を継いだのは明治政府。明治政府にとっては、いかに幕府が軟弱であったかを強調した方が好都合であったのだ。

そもそも、開国の歴史においてアメリカ側の「ペリーとハリス」ばかりが有名で、彼らに対した「林復斎と岩瀬忠震」が日本人にすらあまり知られていないというのも奇異な話である。

幕府は腐っていたとはいえ、人物がいないわけではなかった。幕府の高官には当代一流の人物がまだまだいたのである。林復斎、岩瀬忠震は時代の傑物である。



時代の波は過酷である。

時として真実を覆い隠し、事実を大きく歪めてしまう。

後世の我々にできることは、そうした歪みを時間をかけて修正していくことのみである。



歴史が熱いうちは手が出せない。

第二次世界大戦の歴史が歪められているのは十分承知でも、なかなか真実は語られないものである。

しかし、江戸時代ともなると、もはや直接の利害関係は存在しない。

幕末の英傑たちの姿は、少しづつ明らかになりつつある。

坂本龍馬ですら、しばらくは誰にも知られていなかったのだから。



過去の日本人を賞賛することは、未来の日本人として自信を持つことにもつながる。

いたずらにネガティブキャンペーンをするならば、それは自らの首を絞めることにもなりかねない。




「幕末」関連記事:
ロシアが日本を襲った「露寇事件」。この事件が幕末の動乱、引いては北方領土問題の禍根となっていた。

江戸の心を明治の心に変えた「ジョン万次郎」。彼の結んだ「奇縁」が時代を大きく動かした。


出典:BS歴史館 シリーズ
 あなたの常識大逆転!(2)
「幕末・日本外交は弱腰にあらず!〜黒船に立ち向かった男たち」
posted by 四代目 at 16:46| Comment(6) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 読みました。岩瀬忠震の関連検索で辿り着きました。しかし日米和親条約が「1584年」となっていました。「1854年」でしょう。あと「1848年」天保の薪水供与条約は明らかにおかしいかと。1848年は既に嘉永年間では。(調べましたら旧暦で2月28日から嘉永元年となって居りました。それまでは弘化年間ですな。1848年と言う年は)
Posted by せただ at 2012年01月01日 01:42
ご指南ありがとうございます。確かに年号に関する入力ミスです。ご指摘の通り、日米和親条約は1854年であり、天保の薪水給与令は1842年であります。ありがたく訂正させていただきます。
Posted by 風無師 at 2012年01月01日 14:55
NHk火曜日のさかのぼり日本史で、初めて「岩瀬忠震」の名を耳にして感銘を受けました。
ここにたどり着いてじっくり読ませていただきとてもよく理解がふかまりました。
教科書には「日米修好通商条約」「井伊直助」などしか記憶にありませんが、このような人材の活躍があったことを知りませんでした。
確かに歴史は為政者を中心に書かれている気がします。
幕末から維新後の日本を支えた有能な人たちをもっと掘り下げていかないと正しい明治維新とその後の発展はわからない気がします。
平清盛にしろそうです。池宮彰一郎「平家」で目からうろこ。今回の「平清盛」の取り上げ方も面白いと思います。
Posted by chagu mama at 2012年07月21日 15:26
有り難うございました。
Posted by 森田必勝 at 2012年07月31日 10:34
有り難うございました。
それにしても、林復斉とか、この岩瀬忠震とか、新に評価されるべき人物が、勝者の歴史の中で埋没させられ、薩長同盟も、船中八策も、武器商人にすぎなかった坂本竜馬の手柄にされるような『幕末史』は、何とかならないものでしょうか!!

Posted by 森田必勝 at 2012年07月31日 10:45
歴史の詳細は都合よく削られて、まるで違ったように見せられてしまっているのですね。

一般に言われていることは大筋では間違っていないかもしれないですが、肝心なことが隠されているというのは多いと思います。嘘ではないけれど、同時に「何が話されていないか」をこれからは歴史の中に見つけないといけないと思いました。
Posted by y at 2012年10月20日 14:46
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