はて? どんな意味か? 新入りか?
「ミクロネシア」という国では、これが「褒め言葉」なのだそうだ。意味は「キレイ」「新鮮」などなど色々な場面で使われるという。
怒った時には、「チャントシロ!」となる。
これは、かつてミクロネシアに住んだ日本人「森小弁」の口グセだったという。
「森小弁」は日本人で最初にミクロネシアに渡り住んだ人物である。
「森小弁(もり・こべん)」とは?
明治維新とともに生まれ(1869)、第二次世界大戦の終わりとともに亡くなっている(1945)。
ミクロネシアを目指したのは、小弁が22歳の頃(1892)。当時の日本で盛り上がっていた「南進論」の波とともに、この太平洋の島に渡ったのである。ミクロネシアと日本の「交易」を手掛けるためであった(一屋商会)。
その頃のミクロネシアは治安が悪く、民族・部族間の闘争が絶えなかった。ともに渡った日本人が殺されたり、自らの右手を失ったりと、本当に命懸けであったという。
それでも、小弁は踏みとどまり、現地に溶け込むことに尽力した。
日本人の口に合わないパンノキの実(現地の主食)を嫌な顔一つせず食べ、現地の言葉を覚えようと誠心誠意をもって人々に接した。
その甲斐あってか、小弁はある村の酋長の娘イザベルと「結婚」。六男五女(11人)の子沢山に恵まれる。妻イザベルは武士の妻のような「良妻賢母」であったと伝わる。
後々につながる日本とミクロネシアの絆は、この森小弁によりその端緒が開かれたのである。
1919年、第一次世界大戦の終結とととも、ミクロネシアは「ドイツ」の植民地から「日本」の委任統治領となる。
ドイツ領時代から、ミクロネシアと日本の交易は盛んであったが、日本に支配権が移譲されてからは8万5,000人の日本人が移住。日本人事業家(小弁も含む)の活動が本格化する。
日本人主導の活発な経済活動により、ミクロネシアの貿易は「黒字続き」だったという。
しかし、1944年、アメリカ軍がこの島に攻め込んできた。
日本軍の補給は絶たれ、日本兵の餓死者は6,000人に及ぶ。それでも、日本軍の規律は正しく、日本兵による略奪などは皆無であったという。
結局、ミクロネシアはアメリカの手に落ちた。
ミクロネシアの支配者は、スペイン(300年間)からドイツ(20年間)、そして日本(25年間)、アメリカ(40年間)と替わりながら、1986年に独立することになる。
ミクロネシアの人々は口をそろえて、「日本が統治していた時代が一番豊かで、賑わっていた」と言うのだそうな(現在の貿易は赤字)。
ミクロネシアを「搾取」しなかったのは日本だけだというのだ。搾取しないばかりか、「教育」までしてくれたと感謝するのである。
日本の支配は、欧米流の植民地支配とは一線を画する。
その最たる違いは「教育」である。スペインもドイツもアメリカも、占領地に学校を建てようという発想はなかった。むしろ、無学であってくれたほうが支配しやすいとさえ思っていた。
ところが、日本は一生懸命「学校」を作るのである。これは実に独特な統治方法である。明確な上下関係(奴隷化)よりも、共存共栄を目指すのである。
「今、ミクロネシアは世界一の親日国じゃないですか」という人もいるくらい、ミクロネシアの人々は日本人に好意的である。
森小弁の11人の子供たちに連なる一族は、直系だけでも1,000人とも3,000人とも言われている。この国に「モリ」さんが異常に多いのは、その証左である。
小弁の子孫は「アイノコ」と呼ばれて尊敬されたという。日本ではあまり使われなくなった「アイノコ」という言葉も、ミクロネシアでは「褒め言葉」なのだという。日本人の血が流れている人々は「優秀」だと思われているのである。
ちなみに、ミクロネシアの「マニー・モリ」大統領は、その名でも分かる通り、モリ氏の子孫(ひ孫)である。
現在のミクロネシアの人口の約2割(2万人)が日系とも言われている。
小弁は1944年に心臓発作で倒れ、翌年息を引き取る(享年76歳)。
彼の切り拓いた道は、今もミクロネシアの人々の心に残っている。
小弁の説いた「勤労・正直・御恩」の心は、太平洋の島々にしっかりと伝わったのである。
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森子弁の物語を初めて教えてもらいました。
この歳になるまで聴いたこともありませんでした。
ありがとうございます。