「humility(ヒューミリティ)」と「humiliation(ヒューミリエイション)」
英語にすると、「謙虚さ」と「屈辱」という言葉があまりにも「似ている」ことに驚く。どちらの語も、自分自身を相手の「下」に置く状態である。
しかし、「似て非なる」とはこのこと。
「自発的」に自分を相手の下に置くのか(謙遜さ)。
「強制的」に相手の下に置かれるのか(屈辱)。
恐ろしいまでの違いである。それでも、元をたどれば語源は同じ。つまり、両者は表裏一体の関係にあることになる。
敬虔なイスラム教徒ほど、「謙虚さ」という美徳を大切に守っている。
ところが、その忍耐強い「心の一線」を踏みにじられた時、その心は例えようもない「屈辱」を感じざるをえない。
むしろ、敬虔であればあるほど、強く「屈辱」を感じてしまうのかもしれない。
エジプトの「サダト大統領」も敬虔なイスラム教徒であった。
礼拝の際に、何度も何度も「額」を敷物にこすりつけるため、その額には「黒いアザ」ができていたという。エジプト国民はそのアザを「ゼビバ(レーズンの意)」と呼んでいた。これはイスラム教徒にとっての勲章でもある。
彼の世界的な功績は「イスラエルとの和平」である。この偉業は彼に「ノーベル平和賞(1978)」をもたらした。
しかし、敬虔なイスラム教徒にとって、イスラエルとの和平は「屈辱」以外の何物でもなかった。
その結果、敬虔なイスラム教徒であったサダト大統領は、同じく敬虔なイスラム教徒によって「暗殺」されることとなる(1981)。
この暗殺に関わったとして逮捕された人物の中に、「ザワヒリ」がいた。
彼は獄中で「野犬をけしかけられる」という拷問を受ける。イスラム教徒にとって、「犬」は汚れた存在である。その犬に噛まれるなど、耐え難き「屈辱」である。
ザワヒリは謙虚な外科医であったのだが、この獄中の苦すぎる体験をへて「イスラム過激派」へと変貌を遂げる。「謙虚さ」が「屈辱」へと裏返ったのである。
「屈辱ある生よりは、死を」。彼こそが現アルカイダの新指導者となった人物である。
イスラム教では「自殺」を固く禁じている。
なぜなら、我々の身体は自分のものではなく、アッラーからの預かり物だからである。自殺した者は地獄において永遠に罰を与え続けられる。
そのため、アルカイダに身を投じるイスラム教徒たちは、死にたくてやって来るのだという。異教徒から受けた屈辱に耐え切れずに…。
本来は自殺のみならず、身体の一部分を害することすら許されていないのがイスラム教だが、「殉教」となると話は別らしい。神に身を捧げるとなれば、自爆とて正当化されることとなる。
アルカイダとアメリカとの深い因縁も、ある「屈辱」に端を発するという。
それは、湾岸戦争時にアメリカ軍の「女性兵士がサウジアラビアにやって来た」という一見何事もなさそうな一事である。
ところが、アラブの男たちにとって「女性に身を守られる」ということは信じ難いほどの「屈辱」だったのである。
当初、アルカイダ自身がサウジアラビアをイラクから守ると意気込んでいた。
当時のアルカイダは、アフガニスタンでのソ連との戦いにおいて見事な勝利を収め、意気揚々としていたのである。指導者であったビンラディン氏は、サウジアラビアの国民的英雄として絶大な人気を集めていた。
ところが、ビンラディン氏の提案は一笑に付され、サウジアラビアはアメリカ軍に自国の防衛を委(ゆだ)ねた。そうしてやって来たアメリカ軍の兵士の中に「女性」がいたのである。
サウジアラビアはイスラム教の聖地「メッカ」がある極めて神聖な国である。
「異教徒の軍隊が踏み込んでくるのみならず、異教徒の女たちが我々を守るというのか!」
アルカイダが「反米」の思いを強く持ったのは、この時と言われている。
アメリカに「屈辱」を与えんと、飛行機がビルに突っ込んだ。
形相を一変させたアメリカは徹底抗戦を決意。なりふりかまわぬ攻勢に出た。
片っ端から敵とおぼしき面々を拘束し、キューバにある「グアンタナモ収容所」へと送り込んだ。
そして、その地では「野犬をけしかける」という拷問が行われた。
「屈辱」の応酬はやむところがない。
「屈辱」が再び「謙虚さ」という美徳へと戻る日は来るのであろうか?
かつて、日本の武士は「恥」を最大の不名誉とし、恥よりは「切腹」を選んだ。
日本人は世界的に見ても「謙虚」な国民と思われるが、それは「恥(屈辱)」に対する敏感さの裏返しであるのかもしれない。
無理やり下に置かれるくらいなら、自分から身を低くする。そうして、みんなが「謙虚」でいることにより、「和」が生まれたのではあるまいか。
イスラム教の教えは、「平等」の教えである。
日本人の我々にとっては、その教えはすんなりと理解できる。「みんな同じ」という感覚は我々にとっては心地良い。
この平等さを保つには、みんなが「謙虚」になる必要がある。相手が下手に出ているのをいいことに、その頭を踏みつけては「平等さ」が保てない。
イスラム教徒が行わなければならない「五行」のひとつに「喜捨」というものがあるが、これは富める者が貧しき者に「富を分け与える」という義務である。
この行も「平等さ」を保つことに重要な役割を果たしている。しかし、貧しき者が富の分配を強要してしまっては、おかしなことになりかねない。
こう考えてゆくと、お互いに譲り合う気持ち(謙虚さ)が欠けてしまっては「平等さ」が保てないということが分かる。
その反面、相手に「屈辱」を与えようとすれば、著しく「平等さ」を損ないかねないことも容易に想像がつく。
皮肉なことに、アメリカもアルカイダも「独裁」という政治体制を毛嫌いしている。
アメリカは「民主主義」の旗のもと、アルカイダは「平等」の旗のもとに。
目的地は同じとはいえ、両者は大きな溝を隔てたまま並走する道を歩き続けている。ときおり、相手に屈辱を与えながら。
元はといえば、イスラム教もキリスト教も「同根」である。一神教という発想は、両者の他にはユダヤ教しかないが、ユダヤ教とて「同根」である。
しかし、なんと「似て非なる」ことか。
両者の関係は「表裏」であり、「陰陽」である。
歴史を顧みても「陰陽転化」、お互いが陰となり陽となってきた。「陰陽互根」、お互いの存在がお互いを成り立たせてきた。
表面的な「相」には大きな違いがあれど、本質的な違いとなると…、なかなか探すことが難しい。
本質に大差がないといえども、我々の住む世界は「相対的な世界」。
「相」を「対峙」させずにはいられない。
しかし、多くの宗教はこの「相対性」を乗り越えることを目指しているはずなのだが……。
色不異空、空不異色……。
相違は「同質性」に気づくために存在するのではあるまいか。
「謙虚さ」と「屈辱」も、英語に訳すことによってその「同質性」に気づかされる。
ヒューミリティ(humility)にヒューミリエイション(humiliation)。いったい、どっちがどっちなのやら…。
どちらも人間性(ヒューマニティ・humanity)に由来する「相」の表れである。
なぜ、同じことを表すのに、こうも違った「相」が存在するのか?
その答えの一つは、一つとして同じ相がない人間の「外見」にあるように思う。
できるだけ色々な顔があるほうが、自分の好むものが見つかりやすい。多様な選択肢があることにより、生命を脈々と受け継ぐという大目標を達成することができるのである。
できるだけ間口が広いほうが、その根元にある真理を達成しやすいとは言えまいか?
畢竟、みな行き着く先は一緒なのではあるまいか?
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出典:BS世界のドキュメンタリー シリーズ
9.11から10年 第2週 「アルカイダの来た道〜アメリカはなぜ憎まれるのか」


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