2011年09月11日

偉人を輩出しつづける薩摩の教え。戦国の猛将・島津義弘が種をまいた「郷中教育」。

「負けるな

ウソを言うな

弱い者をいじめるな」

このシンプルな教えが、鹿児島に伝わる「郷中(ごじゅう)教育」である。

薩摩藩が堅守したこの教えが、明治維新の「西郷隆盛」、「大久保利通」、そして日露戦争を勝利に導いた「東郷平八郎」等を生んだとされている。



およそ4〜5町(400〜500m)単位の地区ごとに、青少年たちは年齢により「稚児(ちご・6〜15歳)、二才(にせ・15〜25歳)」に二分される。

稚児、二才、それぞれに「頭(かしら)」が立てられ、頭(かしら)は郷中(ごじゅう)内での生活・教育の全責任を担(にな)う。

年長者は年少者を「指導」する。年少者は年長者を「尊敬」する。こうした規律の元、薩摩の男たちは歴史を動かすほどの力を育んでいったのである。



この郷中(ごじゅう)教育を始めたとされるのが、戦国時代の猛将「島津義弘」とされている。

義弘は豊臣秀吉に征服されるのを良しとせず、当主の兄・義久が降服した後も、最後まで頑強に抵抗し、その結果、「所領安堵」のお墨付きを獲得している。

朝鮮出兵においては、朝鮮・明軍に「鬼島津」と恐れられ、「泗川(しせん)の戦い」では寡兵をもって敵の大軍(島津勢の10倍とも20倍とも)を打ち破る。「前代未聞の大勝利」と激賞されたこの戦は、世界戦史上においても類例のない大勝利であった。

この大勝利が、島津義弘を「伝説の武将」とし、のちの関ヶ原の戦い、そして幕末までも、「薩摩軍」を恐れさせることになったと言われている。



実際、負け戦となった「関ヶ原の戦い」においてすら、その壮絶な島津軍の撤退戦は歴史に残っている。

西軍が壊滅、敗走をはじめた時、島津軍は予期せぬ反撃に打って出る。眼前に布陣する東軍きっての猛将「福島正則」の軍に正面きって突っ込んでいったのだ。

意表をつかれた福島軍、島津軍の刺すような突撃によって、その突破を許してしまう。中央突破した島津軍のその先にいたのは……、東軍の大将・徳川家康である。



家康、思わず立ち上がり刀を抜く。ところが、島津軍は急反転。退却に転ずる。

「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれるその退却戦法は、殿(しんがり)部隊が全滅するまで敵を食い止め、その部隊が全滅するや、新たな部隊が再び殿(しんがり)となり全滅するまで戦い続けるという熾烈なものであった。

「死に兵」と化した島津軍は、追撃する井伊直政、本多忠勝などの徳川四天王の猛攻をも凌ぎ切る。逆に追撃隊の大将・井伊直政に致命傷を負わせるほどであった。

この退却戦こそが、「島津の退き口」として全国に勇名を轟かせた戦いぶりである。



凄惨な退却戦のあと、鬼と化していた義弘は思わぬ温情を見せる。

「大阪城の人質を残して、国元に帰れようか」

そう言って、満身創痍のまま大阪城へと「妻子の救出」に向かうのである。



無類の強さに、深い情を合わせもつ島津義弘。

味方のみならず、敵ですら賛辞を送らずにいられない。

福島正則などの武闘派からの尊敬も厚く、関ヶ原後の和平を仲介したのは、他ならぬ井伊直政、島津軍に致命傷を負わされた猛将によるものであった。



その島津義弘ゆずりの教育が、薩摩(鹿児島)の「郷中(ごじゅう)教育」である。

いまなお、その教えを「不易の教え(変わることのない教え)」として守り続けている。

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一年に1,000回近く噴火するという「桜島」の麓(ふもと)の小学校。

恒例行事として、桜島から対岸の4キロを泳ぎ切るという伝統がある。

一人の脱落者も出さないという決意のもと、日々の鍛錬を積み重ね、何としてでも泳ぎ切る。

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「桜島」はいつ噴火してもおかしくない「若い火山」である(2万6,000歳)。

数100年に一度は「大噴火」により、大惨事に見舞われる。大正の大噴火(1914)では、あふれかえった溶岩によって、桜島が大隅半島と陸続きになるほどであった。

それでも、人々はこの山の麓に住み続ける。「火山には敵(かな)わない」と熟知していながらも、住み続ける。

「本島の爆発は、必然のことなるべし」

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そのために、万が一の備えは怠らない。

伝統の遠泳もその備えの一つである。

いざとなれば、頼れるものは何もないかもしれない。自分の力で対岸まで泳ぎきらなければならないのだ。



島津義弘以来の教えは、薩摩の気風を育み、日本を救うほどの英傑を生み出した。

「負けるな

ウソを言うな

弱い者をいじめるな」

ここまでシンプルな教えだからこそ、本筋を外すことがなかったのかもしれない。



どんなに素晴らしい教えであっても、伝わらなければ意味をなさない。誤解を生じさせては、後々の禍根ともなりかねない(キリストやイスラムの教えは難解すぎるのかもしれない)。

負けて負けて負け続けた島津義弘だからこそ、この美しいシンプルさに行きつけたのだろう。負け戦であっても、彼が屈服することは決してなかった。彼は絶対的な劣勢のなか、常に輝き続けた。

その彼の体現した生き様こそが、この教えを力強く裏打ちしている。

そして、郷中(ごじゅう)の教えを守り続けた後続の獅子たちも、大いに日本を照らし出した。



現在の日本は劣勢に立たされているのかもしれない。

しかし、劣勢な時にこそ輝く教えが、桜島の火山灰にはシッカリと根を張っている。

かつては何も作物が育たないと言われていた「薩摩の火山灰」。それでも、あきらめずに育つ作物を探し続けた。その末に見つけたのが「サツマイモ」であり、このサツマイモこそが薩摩の民を飢饉から救うこととなった。

「郷中教育」は、まさにこのサツマイモのように、試練の中から芽を出し、火山灰の地に逞(たくま)しく生き続けている。

劣勢の日本においても、希望の灯はまだまだある。

完全な負け戦のなかでさえ、活路は必ず見い出せる。少なくとも島津義弘はそうした人生を生き抜いたのである。




出典:新日本風土記 「桜島」
posted by 四代目 at 08:56| Comment(0) | 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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