釣り糸の先には……、なんとキュウリ。
「河童(カッパ)」を釣るのだという。ここは、民話の里「遠野(岩手)」である。
「小学3年以下は、キュウリを使っちゃいかん。河童が釣れた時、川に引っ張られる。
ピーマンを使え。ピーマンは水に浮かぶから安全なんだ。」
ほのぼのとする光景ではあるが、この地に伝わる河童の話の陰には、悲しい歴史が横たわっている。
「河童の子供を孕(はら)みたる家あり。
生まれたる子は斬り刻みて、土中に埋めたり(遠野物語)」
寒さ厳しい北国の地では、子供を養うのもままならず、意に反して子供を間引かなければならない時代もあった。
ただでは殺せない。でも河童なら……。「人間で生きるより、河童様になったほうが幸せだから」と親たちは自らを慰めた。
「河童は神様だから、万年も生きるんだ。だから、河童におなり」。そう言って、子供を河原へと連れてゆく……。
この地には、「座敷わらし」も生きている。
「旧家には、ザシキワラシという神の住みたまふ家少なからず。
この神の多くは、十二、三ばかりの童子なり(遠野物語)」
この地の多くの子供たちは、神様となって生き続けているのである。
歴史を紐解けば、東北地方には「敗者」の歴史が色濃く残る。
その最初の決定打となったのは、征夷大将軍「坂上田村麻呂」による蝦夷平定である。
遠野の地は、806年(大同元年)に朝廷により平定されている。
それ以前の蝦夷(えみし)と朝廷は、多少のいざこざはありながらも、おおむね良好な間柄だったと言われている。道嶋嶋足という蝦夷は、朝廷において出世(正四位上)したりもしている。
ところが、光仁天皇(在位770〜781)以降、その関係は急速に悪化する。「三十八年戦争」と呼ばれる蝦夷征討の時代が始まるのである。
この頃の天皇の家系には、「天智系」と「天武系」と大きな2つの流れがあり、光仁天皇は久々の「天智系」の天皇であった。両家筋の諍(いさか)いは絶えず、政(まつりごと)は不安定で、天変地異も続いていたという。
蝦夷の本拠地と目されたのは「胆沢(いさわ)」であった。
胆沢には、「アテルイ」という蝦夷の優れた指導者がおり、「巣伏の戦い」においては、寡兵(少ない兵)をもって、朝廷の大兵を破るという、古代戦史上類を見ない「鮮やかな勝利」も収めている。
その「古代東北の英雄」アテルイも、坂上田村麻呂には屈することとなる。敗れたアテルイは平安京へと連れてゆかれる。
英雄は英雄を知るのか、坂上田村麻呂はアテルイの「助命嘆願」を願い出る。田村麻呂は、アテルイを介して、東北蝦夷の民心を懐柔することを提言したのである。
しかし、心が荒(すさ)みきり、疑心暗鬼となっていた朝廷は、「野生獣心、反復して定まりなし」として、無残にもアテルイを処刑してしまう。
アテルイの死を惜しんだ坂上田村麻呂は、自身が創建したと伝わる清水寺に、アテルイを弔ったとも(2007年、アテルイの顕彰碑が建立された)。
それ以来、東北地方に争いは絶えるも、朝廷との絆は表面的なものとならざるを得なかった。
アテルイは、朝廷への反逆者であり敗者である。当然、歴史の本流からは除外された。
しかし、1980年以降、再評価の動きが活発化している。アテルイをテーマとした高橋克彦の「火怨」は、吉川英治文学賞を受賞(2000)。市川染五郎主演の「アテルイ」、長編アニメの「アテルイ」などがある。
ちなみに、政治家・小沢一郎(岩手)は自身をアテルイになぞらえているとも。アテルイが拠点とした胆沢には、小沢ダムとも呼ばれる「胆沢ダム(国内第2位の規模)」が建造されている。このダムは前原氏によるダム凍結の難も逃れている。しかし、この大事業は自身を失脚させかねない裏献金問題とも深く絡んでいる。
さて、話を「遠野」へと戻そう。
大和朝廷の蝦夷平定の狙いは、東北に眠る「金」だったとも言われている。
当時、桓武天皇による「奈良の大仏」には、仕上げとして全身に塗るための大量の「金」が必要とされていたのである。
遠野には、多くの金が眠っていたと言われる。その金は、大仏に塗布されるのみならず、奥州平泉・藤原氏三代の栄華を支え、大正時代に閉山されるまで掘られ続けていたという。
遠野の地を支配した大和朝廷は、何としても「遠野の金」を死守する思いがあったのかもしれない。
盆地状の遠野を取り囲むように、5つの観音堂を建てている(現存する)。これらの観音堂を結べば、「星の形」が浮かび上がる。この星には、「守る」という意味が込められたのだという。
そんな朝廷の支配を受けながらも、遠野の人々(蝦夷)の土地への信仰は根強いものがあった。
その信仰は、自然を敬うものであり、山(早池峰山)を神とするものであった。遠野には三人の女神が降り立ち、一番良い夢を見た長女の「お早」が早池峰山を貰い受けたのだという。
今でも、肉体を抜けた魂は「早池峰山に帰る」と信じられている。元々、早池峰という名前はアイヌ語の「パパヤチニカ(東に伸びる長い足)」に由来するとされ、古くから信仰の対象とされてきたのである。
山に働く遠野の男たちは、12月12日を「山神の日」として、一切の仕事の手を休めるという。
なぜなら、この日は「山の神様が自分の山の木の本数を数える日」。その邪魔をしたら「罰があたる」というのである。お年寄りの中には、この日に仕事をして「事故にあった仲間を何人か見てきた」と言う人もいる。
「遠野」の名を広く全国に知らしめたのは、今から100年前に書かれた柳田国男の「遠野物語」であろう。
「日本民俗学の黎明を告げた」といわれるこの名著は、遠野出身の佐々木喜善が語る民話を書き記したものである。河童や座敷ワラシの話なども載っている。
著者・柳田国男は、明治を生きた人である。明治といえば、西洋の文物が日本に大量に持ち込まれ、それらを有り難がるばかりに、日本古来のものが軽視される傾向にあった。
明治政府の官僚として地方を巡った柳田は、日本の持つ価値を良く理解していたのだろう。失われゆく日本の価値観をたいそう惜しんでいたという。
「遠野物語」に曰く。
「願わくは之を語りて、平地人を戦慄せしめよ」
日本の良さを忘れつつある平地人に向けた辛辣なメッセージである。
山の神々はいつも見ている。東北を巡る権力の闘争、日本を巡る欧米の歴史、そして東日本の大震災……。
歴史の表面は大きく波打ってきたが、その根底には何があったのか?
表の勝ち負けの裏には何があったのだろう?
歴史は動いていたようで、動いていなかったのかもしれない。
今も昔も、早池峰山は悠然としたままである。
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出典:新日本風土記 「遠野」

