この地震の前後で、その評価が180°変わった学者がいる。
地震前は「ホラ吹き」と罵(ののし)られていたのが、地震後には「地震の神様」となってしまったのだ。「今村明恒」という地震学者である。
関東大震災前、今村は関東地方で起こるであろう「大地震」を警告していた。
彼は、日本書紀から始まる「日本の地震の記録」をつぶさに調べ上げ、およそ2,000を超える過去の地震に関して、ソラで唱えられるほどに精通していた。
詳細な検証の結果判ったことは、「関東では100年に一度、大地震が起こっている」ということだった。
今村はその研究論文を発表する。
「50年以内に東京を大地震が襲う危険性がある。防災対策を徹底すべし。」
この論文が発表されたのは1905年、関東大震災の起こる18年前の話である。
ところが、時の新聞社は、「大地震の恐怖」を煽(あお)るような報道をする。
パニックに陥った民衆は、ちょっとした地震で家財道具一式を持って逃げ出したりと社会的な大混乱へと発展する。
事態を鎮静化しようと、時の地震学の権威「大森房吉」は、「東京に大地震はない」と断言する。それ以降、今村は「天下のホラ吹き男」となってしまったのである。「私利をはかるために浮説を流布している」とまで世間からは蔑まれた。
今村が主張したかったのは「防災対策」である。しかし、奇をてらいたがるメディアは、「大地震の恐怖」だけしか報道しなかったのである。
その後、歴史は容赦なく関東地方を襲い、史上空前の大被害をもたらした。
今村が懸念したように、耐震性の弱い家屋はもろくも「倒壊」。火の元の始末をせずに避難した結果は「大火災」。東京の家屋の7割が消失したと言われる。
「紅蓮の吐き出す煙は、入道雲のごとく渦巻きかえる(今村の日記)」
もし、今村が論文で主張した「家屋の補強(筋交い)」や「火元の注意」などの防災対策がなされていれば……。
今村は激しい後悔の念にかられる。
「私の意見が世人のいるるところとならなかったのは、全く自分の研究の未熟と自信の薄かったことによる」
「思えば…思えば…、実に残念で堪(たま)らぬ!」
自らの不明を贖罪すべく、今村は立ち上がった。
新聞、雑誌、テレビ、ラジオ……、考えられるあらゆる手段すべてを使って、「防災への啓蒙活動」を開始する。
子どもたちにも伝えねばと、いかに分かりやすく説明するかを工夫した結果、子ども雑誌にはなくてはならぬ「地震のおじさん」と親しまれた。
地震による津波を警告した物語「稲むらの火」を、教科書に掲載するよう活動したのも今村である。
しかし、この話を文部省に持ち込んだときは、無下に断られる。「そんなスペースはない」と。
今村は発奮する。「ドリアン(臭すぎる果物)の話を載せる余地があって、幼い小国民に地震のことを教える余地が無いものか!」
思わず納得した文部大臣は、一転して教科書への掲載を許可。
そんなこんなで、今村は「地震の神様」とまで世間に賞賛されるようになった。
次なる今村の懸念は、「南海大地震」であった。
歴史を紐解けば、関東地方に続き、関西地方に地震が連鎖する傾向が見て取れるのだ。
今村は政府に対して、南海地方一帯に「地震の観測網」を作る計画を進言。しかし、政府はまたもや却下。
「政府は全くアテにならん」と憤慨した今村は、私財をなげうって観測網を整備して、地震観測をはじめる。
今村は決してお金持ちではなかった。20年以上続いた助教授時代の給料はゼロ。8人の子宝に恵まれるも、子供に靴も買ってやれず、家族を旅行にも連れていけなかった。
「地震の神様」としての公演などで一時的にお金が入るも、それら全ては「南海地震の観測所」の費用として吹き飛んでしまった。
彼の「防災への想い」はそれほどに強いものであり、決して「私利のために浮説を流布するような軽薄な輩」ではなかったのである。
しかし、時代は第二次世界大戦を挟んで、大きく揺れ動いた。
今村の観測所も、「弾薬庫」として接収されてしまう。それでも観測の重要性を訴え続け、戦争で壊れた計器の修理のために協力者を募ったりしていた。
時の政府は地震対策の重要性をサッパリ理解しない。いつ起こるか分からない地震に予算を割いている余裕はない。目の前の戦争で大わらわである。
そして、終戦……。
この失意に追い打ちをかけるがごとく、翌年「南海大地震(1946)」が起こる。
今村は東京の自宅でこの大地震の発生を知る。彼はラジオの前に立ち尽くしたまま、言葉を失っていた。
今村はまたしても、地震の発生を予知しながら、なす術なく大震災を迎えてしまったのだ。
失意のうちに今村は死去。地震に捧げた人生はこうして幕を閉じた。享年77歳であった。
今村の地震人生は無に帰したのか?
ここに彼の人生を慰める一通の手紙がある。この手紙は、南海地震の対策のために今村が目をかけていた町からのものであった。
「平素のご教示の通り指示しましたので、津波に流れた人もなく幸いでした。ご教示に対し感謝を捧げます。」
今村の草の根活動は決してムダではなかった。真摯に防災対策に取り組んでいた人々も少なくなかったのである。
また、この地震前後に今村が捉えた観測結果は、「地震直前の兆候を捉えた日本で唯一のデータ」として、後の地震研究に確固たる基礎を与えることとなった。
現在の東海地震を予知する基本的な考え方は、今村のものと全く同じである。
地震の被害は「反省」と「忘却」の繰り返しである。
関東大震災ほどの大打撃を受けても、時が経てば人々をは忘れてしまう。そして、また大地震に泣く。3.11の大地震ですら、そうなるかもしれない。
「大地震の周期」は「人の一生よりも長い」ために、次代に伝わらない限りは、確実に忘れ去られてしまうのである。今村の懸念はここにあった。そのため、彼がもっとも力を入れたのは、子どもに対する防災教育だったのだ。
今村の自説は、「必ずや地震は征服できる」というものであった。
しかし、地震という「重要な問題」は、より目先の「緊急な問題」よりも後回しにされる傾向がある。関東大震災(1923)から南海大地震(1946)までの日本政府の対応は、その顕著な例である。
今、東日本大震災の復興が遅れていると言われているが、現在の政府も歴史を繰り返しているかのようである。
そんな中にあっても、孤軍奮闘している日本人がいることを忘れてはいけない。かつての今村は、必ず現代にもいるのである。
日本人各々が防災意識を高めること。
これが今村の最大の願いなのである。
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出典:歴史秘話ヒストリア
「地震の神様 命を守る闘い〜関東大震災を“予知”した男 今村明恒(あきつね)」

