歴史上、特筆すべき大地震、そして大津波が、激動の江戸末期(安政年間)の日本を襲った。そして、その大災害に果敢に立ち向かっていった男が、紀州(和歌山)の「濱口梧陵(はまぐち・ごりょう)」である。
一連の彼の行動を追うことは、今回の3.11大災害の復興へ向けた大いなる指針となりうる。

「稲むらの火」という話を聞いたことがあるかもしれない。教科書にも載る話であるが、その話の主人公こそが、「濱口梧陵」である。
当時、35歳であった濱口梧陵は、大揺れの後、ただちに海岸に出て「異常な波の流れ」を見る。危険に身震いした梧陵は、村人たちを急かしながら、高台の神社へと導く。
その夜、海面は不気味に静まり返っていた。それでも村民たちは警戒を緩めず、避難先の神社で一夜を明かす。
翌日、「さすがにもう大丈夫だろう」ということで、村人たちはゾロゾロと家路へと向かう。前日の大揺れで、家屋に相当な被害が出ていたのだ。
ところが……!
その日の夕刻、前日とは比較にならないほどの大地震が村を襲う。「激烈なること、前日の比にあらず。瓦(かわら)飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵煙(じんえん)空をおおう。」
突然、海の方から「巨砲を連発するがごとき響き」が村中に轟(とどろく)く。
梧陵は直感する。「海嘯(津波)だ!」。
彼の脳裏には、およそ1000年前の「貞観地震」の光景が去来したに違いない。彼は博識であり、貞観地震を記録した「日本三代実録」を蔵書として保有していたという。この書には、大津波の前に「激しい雷」のような轟音があったと記録されている。
津波の高さは4mを超えたと言われている(津波の高さとしては、3.11大津波の半分程度であるが、当時の貧弱な護岸を考えれば、その迫力は3.11に匹敵するとも言われている。)波よけの石垣は軽々と越えられ、大津波は大木や大石を巻き込みながら村を破壊していった。
梧陵も津波に足をさらわれ、浮き沈みを繰り返すが、かろうじて難を逃れる。避難所の高台の神社へ命からがらたどり着くと、行方のわからぬ家族を心配する村人たちが大混乱を起こしていた。
すでに辺りは真っ暗になっていたものの、梧陵は即座に村の若い衆を呼び集め、決死の捜索隊を結成する。梧陵は日頃から「耐久舎」という私塾を通じて、有能な若者たちを育てていたのである。
しかし、家屋の残骸や流木に行く手を遮られ、思うような成果が上がらない。この間にも何度も津波が押し寄せる。梧陵は苦渋の撤退を決意。
その撤退の途上、田んぼのワラ山に次々と「火」を放って行った。逃げ遅れた者たちへ「逃げる方角(神社)」への道を示すためである。
暗闇を煌々と照らす田んぼの炬火、この火こそが有名な「稲むらの火」である。

梧陵が撤退を完了した直後、最大の大津波が轟然と村を飲み込んだ。梧陵の「稲むらの火」も、この大津波によって全て消えてしまうほどであった。
しかし、「この計、空(むな)しからず」。村民1,323人のうち、犠牲者はわずか30人にとどまった。1000年に一度の大津波を受けた海岸の村で、「生存率97%」という数字はまさに奇跡である。
梧陵の放った「稲むらの火」が村人を救ったのである。

この話は、外国の人々の感涙を誘った。
日本にこの話が広まるのは、外国からの逆輸入である。この話を最初に記したのは「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)」。「Living God(生き神様)」というタイトルで海外に紹介された。
その後、この作品に感銘を受けた日本人「中井常蔵」が児童向けに翻訳。そして、国定教科書に採用され、多くの日本人の知るところとなった。
2005年、シンガポールのリー首相が、日本の小泉首相にこう訊ねた。
「日本の小学生の教科書には、『稲むらの火』という話がのっていて、子供時代から津波対策を教えているというが、それは本当ですか?」
残念ながら、小泉首相、この話(稲むらの火)を知らなかったという。
「稲むらの火」はアメリカのコロラド州の小学校でも、「The burning of The rice field」として採用されている。日本の話でありながら、外国の人々への認知のほうが高いというのも、この話の面白い点である。
この話の舞台となった地域(広村)の小学生たちは、もちろん、この話を知っている。「津波が来たらどうする?」と質問されれば、100発100答、子供たちは当然のように「神社に逃げる」と答えるという。
濱口梧陵の本当の凄みは、村の「復興」である。
藩全体が莫大な被害にあった「紀州藩」の救済は全く当てにならない。そこで、梧陵は藩に申し出る。「波よけ土手の建設を許可願いたい。工費は私がまかないます」と。
彼の家は代々の醤油商人であり、私財は莫大であった。しかも、紀州(和歌山)だけでなく、千葉(銚子)にも店を構えていた。和歌山と千葉は地理的には離れているものの、「黒潮」の流れに乗れば、目と鼻の先なのである。現在でも、銚子(千葉)には、和歌山からの移民が数多い。イワシを追って、千葉へと移り住んだ移民の末裔である。
幸い、銚子(千葉)は被害を受けていなかった。和歌山の村を復興するために、莫大な金銀が銚子(千葉)から次々と送られていった。その額、現在価値にして5億円とも言われている。

その大量の私財を擲(なげう)って、梧陵は巨大堤防の建設を開始する。
その労働に携わったのは村民たち。女や子供たちにまで日当を支払ったという。すべてを失った村民たちにとって、この大事業ほど有難い仕事はなかった。その甲斐あって、離村者はほとんで出なかったという。
梧陵は、村に仕事を創出しただけでなく、日々の「炊き出し」も積極的に行った。自分の家の米をすべて放出し、それでも足りない分は隣村から借り受けてまで握り飯を配った。
さらには「長屋」をも建設し、住む場所まで無料で提供したという。
およそ4年後、大堤防は完成する。

その大きさも当時ではケタ外れであったが、梧陵は細かい点まで抜かりなかった。
大堤防の内側には、6000本の松の木を植えた。これらの松は、防風・地固めのみならず、津波の引き潮によって海に引きずり込まれる危険を軽減することができる。
さらに、堤防の上には「ハゼ」の木も植えた。この木の実は、ロウソクの燃料として使われていたため、貴重な現金収入となった。梧陵の考えでは、この収入で長く堤防の維持費をまかなう計画であった。
さらに念の入ったことには、大堤防の敷地になった田畑を、藩の課税対象から外すことまで行っている。
梧陵は「百世の安堵」を復興の大義として掲げた。
一代を30年と考えると、百世とは3,000年を意味することになる。梧陵の目は、はるか彼方の水平線を見据えていたのである。
ところが、この村を次の津波が襲うのは、100年もかからなかった。1946年、昭和南海地震が発生し、再び大津波が襲来した。
「津波どんと来い!」と言わんばかりに、梧陵の大堤防は見事に大津波を跳ね返したという。

濱口梧陵は、紀州藩の勘定奉行を経て、明治新政府の駅逓頭(郵政大臣)へと異例の出世を遂げる。
しかし、梧陵の方針は、新政府の施策とは相容れないところがあった。
梧陵は、徹底して「民」の力を活用することを提言した。たとえば、飛脚の力を活用するなど、今で言う「民営化」の発想である。
これに反して、明治政府が望んだのは、プロイセン(ドイツ)に学んだ「専制政治」である。意見の相違からか、梧陵はほどなく新政府を去ることとなる。
梧陵の言葉に、「志(こころざし)は遠大にして、心は小翼に」というものがある。
「稲むらの火」によって人々が感銘を受けたのは、梧陵の犠牲的精神であり、私心のなさである。
「百世の安堵」を願う遠大な志(こころざし)と、私財をなげうつ潔さ。彼の言葉は、彼の人生そのままである。
濱口梧陵の功績を讃えようと、村人たちは「濱口大明神」なる神社を建てようと考えた。しかし、梧陵は頑としてそれを許さなかったという。

濱口梧陵の醤油屋は、今に残る。それが「ヤマサ醤油」である。
また、梧陵の手による大堤防も、今に残る。彼の指揮のもとに植えられた松林は、はや樹齢150年。それらの老松たちは、今も片時と休まず、かなたの水平線の波を睨み続けている。
この松たちは、1000年どころか3000年(百世)でもここに居座る覚悟を決めている。
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出典:BS歴史館
「復興のカギは民にあり〜幕末・安政の大地震に立ち向かった男」