2011年08月27日

学ぶことが許されないアフガニスタンの女性たち。現代にも残る愚民政策。

「タリバン」と聞けば、悪の権化(ごんげ)のような恐ろしいテロ集団をイメージすることだろう。

しかし、「タリバン」という言葉自体は「学生」という意味であり、元々はイスラム神学校の生徒たちで構成されていたものだった。

正義感の強かった彼らは、軍閥が少女2人を誘拐したことに抗議し、見事、少女2人の解放に成功する。そして、「地元住民からは正義の味方として賞賛される」ようになる。



そんな彼らが凶暴化するのは、ソ連のアフガニスタン侵攻(1979〜1988)後の長期内戦からである。一時(1996〜2001)は政権を握るが、その支配は「過激で極端」なものだった。公開処刑などを見世物のように繰り返す。

バーミアン石窟のブッダの巨大石像(世界遺産)を、「木っ端微塵に吹っ飛ばした」りもしている(イスラム教は偶像礼拝を禁じている)。

さらに、テロ組織と目されていた「アル・カイーダ」や「ウサマ・ビン・ラディン」氏を客人として迎えたことが、さらなる過激な道のりへとタリバンを導いた。

「アメリカの敵」を匿(かくま)ったことにより、国連からは「経済制裁」を受け、9.11のテロ以降は、「戦争」へと縺(もつ)れ込み、現在に至る。



ドキュメンタリー「タリバンに売れれた娘」では、過激なタリバン支配に翻弄されるアフガニスタンの「女性」が描かれている。

「女性には、動物ほどの価値も与えられていない。」

タリバンは、「女性が学ぶことも働くことも、外出さえも禁止している」。

「神は、男女に違う役割を与えたのだ。女は男より弱いからね。」

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「タリバンは、決して女性を解放しない。」

かつては、誘拐された少女2人のために立ち上がったタリバンであったが、今や「女性にとって最大の敵」となっている。厳しい時代の荒波の中で、過激さだけが継承され続けた成れの果てである。



タリバンの伝統的な家庭では、「女の子」が生まれても全く歓迎されない。

できるだけ早く(10歳くらいから)、「土地か羊」と交換されてしまう。

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交換されて嫁いだ先では、女性は「男性の所有物」となる。殴る蹴るはもちろん、殺されても文句は言えないという極めて弱い立場に立たされてしまう。

本当に殺されてしまうこともあるので、思い詰めた女性は、決死の逃亡を試みたり、灯油をかぶって「焼身自殺」をしたりさえする。



ドキュメンタリーに登場する女性、サベレは嫁ぎ先から逃げ出した。

彼女の夫は、過去に2人の妻を殺害した凶悪な人物だったのだ。10歳で嫁ぎ、12歳で妊娠するも、故意に流産させられる。そして、計4回も同じことが繰り返された。

保護施設に匿(かくま)われても安心はできない。居所を突き止められれば、殺されても文句は言えない。正式に「離婚」が成立する必要がある。しかし、男は決して法廷に出てこないため、離婚が成立しない。

そこで、策を講じ、サベレを引き渡すという条件で、男をおびき寄せる。まんまと罠にかかった男は、あっさり「お縄」。この男は、警察も目を付けていた「凶悪犯」でもあったのだ。

「めでたしめでたし」といきたいところだが、今度はサベレの妹ファルザネが、義父によって身売りされてしまう。その結果、一家は離散。

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サベレは保護施設に舞い戻り、妹ファルザネは今も行方知れずだという。



こんなドラマが、アフガニスタンでは日常的に繰り返されているという。

しょうがないと諦めざるをえない「救いようのない現実」なのだろうか?

解決への糸口は、サベレが口にしていた。「勉強さえさせてもらえれば……。」

おそらく、女性は男性よりも「賢い存在」であろう。学ぶ機会さえ平等であれば、女性は男性を凌駕するに違いない。



男性優位な支配を維持するためには、「力」にまかせて、「争い」に持ち込むしかない。

過去の歴史において、こうした政策は実に一般的である。「愚民政策」は、民衆を無知・無教養の状態に留めおくことで成立する。ローマ帝国の「パンとサーカス」、オランダによるインドネシアの植民地支配などが、その例として挙げられる。

しかし、民衆を無知に留めておくことは極めて難しい。必ず、学ぼうとする啓蒙主義が台頭するからだ。そこで登場するのが、「武力」である。「力」でねじ伏せて一件落着である。



アフガニスタンの女性たちも、学ぶことが許されないがために、不遇な環境に甘んじざるをえない。男たちは暴力にまかせて、女性を恐怖の状態に留めおく。

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しかし、逆に考えれば、こうした支配を脱するには、女性が学んでしまえば良いともいえまいか?



江戸末期、日本の国土は西欧列強に食い荒らされんとしていた。

しかし、日本国民はバカではなかった。むしろ西欧列強が目を丸くするほどに、「識字率」が高かった。

鎖国していた遅れをあっという間に取り戻し、逆に世界を恐れさせるほどの国力を身につけた。第二次世界大戦前までは、ヨーロッパ諸国といえども、日本に太刀打ちできる国は存在しなかったのである。日本の海軍力に対抗できるのは、アメリカ一国のみであった。

戦後の日本も、あっという間に「無」から立ち上がった。そして、あれよあれよと世界第2位の経済大国まで登り詰めた。

こうした日本の奇跡を底支えし続けたのは、日本人の高い知性とは言えまいか?



「学ぶ」ことで、武力に勝る力を手に入れることができると信じたい。

むしろ、「学ぶ」ことだけが、弱い立場のものに許された最強のツールとも言える。

アフガニスタンの女性たちは、学びたがっている。その意欲があれば、知識はスポンジが水をすうように吸収されていくだろう。そして、大きな力を持つようになるに違いない。

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アフガニスタンで厄介なのが、女性を抑圧しているのが、「武力」のみならず、「宗教」でもある点である。

タリバンの「非」を唱えることはできても、神様の「非」は口にできない。この点が、最大の弱みであり、タリバンの狡猾さとも言える。解釈の違いとはいえ、痛いところを突かれている。

それでも、現代はスマートフォンひとつで、アメリカの一流大学の講義が無料で学べる時代である。きっと解決策はあるはずだ。

社会的弱者が力を持つには、どんな方法があるのだろうか?



「争い」の歴史が続く限り、男性の優位は揺るがない。

この堂々巡りは、日本の首相の首が代わるように、歴史上で繰り返されてきた。

武力は「集中」させればさせるほど、その力を増す。「選択と集中」は兵法の鉄則である。しかし、この法則のもとでは、社会的弱者は一生その立場を変えられない。

これに対して、自然界で生き残ってきた動植物の大原則は「多様化」、つまり集中とは真逆の「分散」である。

あらゆる可能性に備えて、種(しゅ)を「分散」させることが、長期的な生き残りのためには最も有効な一手となってきた。その証拠に、この地球上には800万を超える多様な種(しゅ)が存在している。



「力」は分散させれば弱くなる。それに対して、「知」は分散させるほど強くなる。百花繚乱、諸子百家。議論は百出するほどに洗練されてゆく。

宗教を「知」の集大成ということはできない。むしろ、統一(集中)することで強大化する「力」の集大成ととらえる方が素直である。

社会的弱者は、巨大な城壁を「正面」から攻め込むわけにはいかない。アリが潰されるようにやられる一方だろう。しかし、それぞれがあらゆる方向から攻めかければ、思わぬところから、巨大な城壁は崩れ去るかもしれない。

中東の独裁政権が次々と倒れたのは、インターネットという予期せぬ搦手(からめて)から攻めかけられてしまったからでもある。



人々がお互いの価値観を認め合う。そうすることで、「知」は多様化(分散)し、本来の力を発揮することができる。

しかし、「言うは易し、行うは難し」。人の意見をそう簡単に受け入れることができないのが人間であり、歴史が堂々巡りを繰り返してきた「根本的な原因」でもある。

人の意見を認めないということが、「知」を弱体化させる。必然的に、力あるものが増々強くなり、弱者はますます弱くなる。

真の知者は、決して自分の考えを押し付けたりはしない。



もし、時代を変えたいと願うのであれば、他人が自分と「同じ考え」であることを喜ぶよりも、他人が自分と「違う考え」であることを喜んだほうが良い。

他人と違うことにコンプレックスを感じるよりも、他人と違うことを「誇り」に思ったほうが良い。

そして、自分と違う他人を「肯定」できれば、世界は変わる。逆に、自分と違う他人を「否定・非難」してしまえば、また人類はフリダシに戻らざるをえない。



アフガニスタンの問題を解決に向かわせるのは、こうした「他者を認める」姿勢ではなかろうか?

これは、世界のどこにいても、今すぐ誰にでも実行できることである。自分の隣りにいる人の考えを尊重するだけである。

この自分の小さな行いが「争いの世界」に終止符を打つかもしれない。

「知」は多様であるほどに、有益である。そして、幸いにも「弱者」に味方する。



そうした「知」の結晶が、地球上の動植物すべてである。

自然界では、どんな「弱者」でも必要欠くべからざる役割がある。



これに対し、人間の作り上げた「力」の世界では、「弱者」は単なる厄介者となりかねない。利益は一部の強者に集中するのみである。

自然界を弱肉強食と断じるのは、「力」の世界に生きる人間による勝手な判断である。本当の弱肉強食は、今の現代社会のほうである。

かといって、強者に弱者の救済を求めるのは、問題を深刻化させるだけである。自然界の弱者たちは、きちんと自分の足で立っている。どんなに立場が弱かろうと、毅然とした姿勢は貫かねばなるまい。

「大きな政府か小さな政府か」という問題ではないのである。過去の冷戦の教訓を忘れるわけにはいかない。



どんなに弱くとも、己の脚で立ち続けなければならない。頼れるものがあるとしたら、それは強者ではなく、足元に落ちている「一本の杖」のみである。

その「一本の杖」となりうるのが、「知」に生きようとする志である。




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出典:BS世界のドキュメンタリー
シリーズ 第4回 もう一度見たい!世界のドキュメンタリー 
「タリバンに売られた娘」


posted by 四代目 at 06:36| Comment(0) | 女性・子ども | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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