2011年08月26日

「何糞(なにくそっ)!」が生んだ発明の数々。どんな逆風にも屈することがなかった早川徳次(シャープ創業者)。

「シャープ」という社名は知っていても、「早川徳次(とくじ)」という人物は知っているだろうか?

彼こそが、シャープの創業者である。

そして、「何糞(なにくそっ)!」が彼の信条である。

早川氏の一生は、悲劇・悲運の連続であり、まさか最後にシャープという大企業を起こすとは夢にも思えないような不遇の連続であった。



少年時代、彼はまさに「糞(くそ)」にまみれた。

継母によって、厳寒の「糞つぼ」に突き落とされたのだ。

意地悪な継母どころではない。完全なる虐待である。殴る蹴るは日常化していたという。

「勉強なんか、させてやらん。働け!」ということで、小学生を2年生で中退させられた。これが偉大な人物の最終学歴である。



そんな徳次を見かねてか、救いの手を差し伸べた人物がいた。

井上という「盲目の女行者」である。彼女の温かい手によって、徳次は錺(かざり)職人のもとへ、丁稚奉公へ行くこととなった。

晩年になって、早川徳次は「この時の井上さんの手のぬくもりを、私は忘れたことがない。」と述懐している。



丁稚奉公先での仕事は、「傘の金具作り」だった。

黙々と仕事に打ち込んだ徳次は、「若くして腕の良い職人」に成長した。

手技を身につけた徳次の最初の「発明」は、「穴のいらないベルト(徳尾錠)」であった。これは、「見るほどに見事な発明品」であり、「大いに売れた」。

この製品が「特許」を取ったこともあり、徳次は「独立」を果たす。



独立資金を借金したものの、その借金は1ヶ月で返済してしまい、さらに新たな発明品「水道自在器」を発明した。

この一品は、水道の蛇口を好きな方向へ向けることができる器具で、従来品に比べ設置が楽であったことが、大ヒットにつながった。

順風満帆。結婚するや子宝にも恵まれ、意気揚々であった。



その勢いで生まれたのが、かの「シャープペンシル」である。

だが、世紀の大発明であったシャープペンシルも、当時、文房具屋には「全く相手にされなかった」という。

何度も何度も試作品を銀座の文房具屋に持ち込むも、いつもいつも門前払いであった。



そんな不遇なシャープペンシルの価値を認めてくれたのは、なんと外国人。

横浜の商館を通じて、海外から注文が舞い込んできた!

「海外で売れている」というのが、強烈な宣伝文句となり、日本でも大ブレーク。門前払いにしていた銀座の文房具屋も、頭を下げてくるほどだった。

徳次の資産は増える一方、ついには40万円(現在価値で4億円)もの資産を築き上げた。



ところが、絶頂の徳次を「関東大震災」が襲う。

すべての営業所・工場を一瞬にして失ったが、本当の不幸はこんなことではなかった。

徳次が不在にしていた自宅で、大変なことが起ころうとしていた。

自宅は猛火に襲われ、徳次の「妻子」は熱風に追い立てられるように「掘(ほり)」の中へ身を隠す。

「堀(ほり)」の流れに流されまいと、妻は杭に、子供たちは母親に必死でしがみつくも、背中に背負っていた6歳の息子が流されてしまう。「あっ!」と手を差し伸べれば、今度は9歳の子供までが流される。

錯乱状態に陥りながらも、妻のみが徳次との再会を果たす。しかし、その妻も2ヶ月後には子供たちの後を追っていった。



徳次は、全財産のみならず、最愛の家族も全て失ってしまった。

ただ、莫大な借金だけが残された。

この借金を返すために、徳次はシャープペンシルの特許をも手放さざるをえなかった。本当に、彼には何もなくなってしまった。



これほどの苦境に突き落とされても、徳次は「何糞(なにくそっ)!」と立ち上がった。

この逆境から生まれたのが、日本初の「ラジオ」である。



しかし、日本は戦争に負けた……。

立ち上がった出鼻は完全にくじかれた。

戦後の混乱の中、「バタバタと倒産が相次ぎ」、徳次の会社も倒産の瀬戸際に立たされる。

それでも「何糞(なにくそっ)!」と踏ん張った。

そして、その先には「未曾有の家電ブーム」が待っていた。



勢いに乗るや、徳次の「快進撃」は止まらない。

日本初の「テレビ」を完成させるなど、「日本初」を連発する。

販売首位は「松下(現パナソニック)」に譲るも、発明にかけては徳次の「早川電機(現シャープ)」が抜きん出ていた。

「カラーテレビや電卓」は、彼の発明である。さらには、太陽光発電までも視野に入れていたというほどの先見の明である。



早くから「グローバル戦略」を意識していた徳次は、社名を「シャープ株式会社」に変更。これを機に、彼は一線から身を引く。

新社長となった佐伯氏は「シャープ中興の祖」と言われるほどの名経営で名を馳せる。これは徳次が、佐伯氏に早くから帝王学を身につけさせたタマモノと言われている。

有能なる後継者に恵まれた早川徳次は、1980年、86歳にして波乱の生涯を閉じる。



「何糞(なにくそっ)!」の人生。

思えば、女行者の温かい手が、彼を「モノ作り」へと導いたのであった。

不幸な幼少期、不運な青年期にあってなお、早川徳次は「不屈」であり続けた。

彼の心の灯は、どんな逆風にあっても決して消えることはなかった。

そして、その灯は、今も日本を煌々と照らし続けている。



出典:致知9月号
日本を創った男たち 独創こそ我が命 早川徳次


posted by 四代目 at 16:31| Comment(1) | 企業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
迂闊にも

早川さんのことを

まるで知らなかった

凄い日本人がいたんだ

知らないことに対して

何も感慨はないけど

ぼくは、何事も

漁らずの精神が

好きなんです

必要なときに

それがもたらされる

そう思うから

そんなことはともかく

とはいえ

そんなことで

恐縮なんですが

ぼくは、小学校の

一年生から

シャープペンシルを

使っていました

他のクラスメートは

鉛筆だったのに

カッターナイフで

鉛筆を削るのも

上手だった

それゆえなのかな?

よくわからない

だいたいが

他の人と

知らないけど

違っていた

それに気づくのも

常に遅い性分だった

だれに文句をいわれるでなし

だれに褒められるでもなし

ある意味

驚異的な集中力と

他の人のぼくに対する

気持ちを思ったこともない

逆に言えば

他人を意識しなかった

親や先生は

ぼくを知恵遅れだと

半ばあきらめていたようだし

でも

勉強なんてしなくったって

勉強に遅れることはなかったし

年齢とともに

点数を採れるようになっていった

夏休みの補講で

算数のテストでは

何も勉強しなくても

百点をとって帰宅したりしたこともある

だいたいが

ふんぞり返って

ノートもとらず

授業をただ聞いていた

教科書に手垢がつくこともなかった

でも

知恵遅れだから

とくに気にもとめなかった

ただ

怠け者の性か

本質はなんだ

本質は何だ

エッセンスはなんだって

そういうことを

考えるときには

考えていた

おかけで

高校生の時には

『なんで〜○○』という

ありがたい

あだ名を頂戴した

最近だと

地震の後

タバコがない

なぜだ?

一生懸命考えた

考えたいときだけですけど

そして

自分なりに結論を得た
 
他の人となぜだろうねって

話していたら

パソコンで調べればいいじゃん

そう言われて

あ、そうだな

パソコンがあったなって

やっぱ

ぼくって

アホって

瞬間、思ったりした

鈍才には

及びもしない

才能というのが

世の中に

沢山あると

ぼくのような者は

おおいに助かります



Posted by オバケー at 2011年11月08日 06:58
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