小学一年生が、こう聞いてくる。
「どう思う?」と聞き返せば、その子はしばし考えこむ。

そして、「ある。」と答える。
「だって、どこか行きたい、何か食べたい、と思うんだから、『心』はあるよ。」
昆虫の世界は、とても「極端な世界」である。
人間はあれこれと試行錯誤を繰り返すが、昆虫はすでに「結論」に生きている。
その結論は、時として「極端」である。
そのため、昆虫に「心」があるとは思えない。
「迷う」から、「考える」からこそ、「心」は見えやすくなるのである。
たとえば、「オス」のカマキリは、交尾中に「メス」に食べられる。
なぜなら、カマキリは動くものを「エサ」と考えるため、メスの上で動くオスは、「エサ」と勘違いされるのである。
10匹に8匹のオスは、そうして命を落とす。

結果的に、オスはメスの「栄養」となる。そして、その栄養は、次世代の子供たちを育てることになる。
オスがどこかで野垂れ死んで、他の昆虫のエサになるよりは、自分の子供たちの栄養になったほうが、よほど効率的である。

しかし、人間の考えでは、これは異常な行為であり、ましてや「献身的な行為」とは思われない。
どちらかというと、オスを食らう「メスの残忍性」という捉えられ方をされてしまう。
もし、食糧難において、オスが苦渋の決断を下し、「俺を食ってくれ!」と言えば、それはそれは「神か仏様」のように崇められるかもしれない。
ところが、カマキリのオスは、「迷いなく」メスのエサとなる。
それゆえ、そこに「心」は感じられず、何の美談にもならない。
また、ある「ハサミムシ」のメスは、子供が孵化すると、孵化した「子供たちに食べられてしまう」。

母親であるメスの命は、子供たちの「タンパク質」となり、子供の成長に寄与する。

このハサミムシの母親もまた、あまりにも「迷いなく」身を子供に捧げるために、やはり「心」は感じられない。
「心」とは、その「迷いの過程」で、より目に見える形となる。
それが、「結論」となってしまうと、あたかも「心がない」かのように感じられる。
たとえ、それが自分の身を子供に捧げているとしても。
「結論のみ」というのは「誤解の元」となる。
結論までの「過程(試行錯誤)」が見えないためである。
自分で育てた作物には「感謝の念」が湧くが、スーパーの作物には何の感慨も湧かないのと同じである。
その「過程」を知るか知らないかで、その想いは雲泥の差となるのである。
昆虫の下している「結論」は、長い試行錯誤の結果ではあるのだが、その過程を人間は考慮しようとはしない。
「心」を「愛」と言い換えても、何ら誤解はない。
カマキリやハサミムシの行為は、人間がいう「無償の愛」である。自らは何の見返りも求めない「尊い愛」である。
人間は、これほどの「無償の愛」を実現できない。
だからこそ、人間には「愛」があり、昆虫には「愛」がないとなる。
しかし、本質はまったく異なる。
昆虫は「愛そのもの」で、人間はその「過程」にある。
また、「心」を「知性」と置き換えても、同じ事である。
あるアリは、葉っぱを発酵させて、その菌糸をエサとする。
その行為は、極めて知的であるにもかかわらず、アリが賢いとは誰も思わない。

なぜなら、「知性」の源泉となるはずの「脳みそ」がないからだ。
脳ミソがなければ、「考えることはできない」。考えることができなかったら、知的であるわけがないとなる。
これも大いなる誤解である。
「考えることができなければ、知性がないのか?」
考えていないアリは知的に感じられないが、アリの行為は「知性そのもの」である。
人間がどんなに「考えて」も、その知恵には及ばない。
「考える」という「過程」にこそ、「知性」は感じられる。
だが、結論である「知性そのもの」になってしまうと、「知性」を感じることができなくなる。
昆虫はすでに結論を出しているが、人間は結論が出せずに、いまだ「考え続けている」。そのため、人間のほうが「知的」に感じられる。
これらは、大いなる「矛盾」である。
なぜなら、目的を達成してしまうと、もはや「愛」も「知性」も感じられなくなるからである。
むしろ、目的を達成できずに、迷い考えているほうが、「愛」や「知性」を感じられる。
これは、昆虫に対する誤解にとどまらず、「人間に対する誤解」にもつながる。
迷い悩む人物のほうが「人情的」に感じられ、考え続ける人物のほうが「知的」に感じられる。
そのため、迷いなく決断する人物は、時として「冷酷」に感じられる。考えより行動を重視する人物は、時として「蔑まれる」。
しかし、洗練された愛や知性は、迷ったり考えたりはしない。
その「存在」自体が、愛となり、知性となる。
「ぐんま昆虫の森」の矢島園長は言う。
「昆虫の世界を知るほどに、人間は何も分かっていないことを思い知らされる。」
「しかし、大人になるほど、わかっていないことを忘れてしまう。」

大人は昆虫に「心」があるとは考えない。
しかし、小学1年生の子どもは、昆虫に「心」を見る。
生きれば生きるほど、現実から乖離してゆくのか?
それとも、答えに近づいていけるのか?
忘れてはいけない感性がある。
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出典:爆笑問題のニッポンの教養
「ムシできない虫の話〜ぐんま昆虫の森」
子供やメスに自分の身を捧げるから昆虫に心がないというのは、無理があると思います。
昆虫は痛みを感じないから体を捧げられるのではないでしょうか。
つまり、平気で食べる食べられるからといって心がないという結論には至らないという事です。
また、人間以外の動物は、人間に例えると生きた他の動物たちを殺して食べてるのがあたりまえであり習慣でもあります。
そのため、生きた別の生物を食べることに抵抗もないがゆえ、昆虫達にとったら普通なのだと思います。
食べられるといっても、食べられる相手を選んでいるわけですよね。
虫と人間を同じに捉えると確かに心が無いように感じられるかもしれませんが、昆虫と人間では脳のつくりから生活習慣、細胞の形成から何から何まで違う点がいくつもあります。