2011年07月30日

本当は「ふぞろい」で当たり前。野菜も人間も。大地に学ぶ、今後の未来。

ネット野菜を販売する「オイシックス」。

小堀美佳さんは、その会社の野菜バイヤー。

彼女は農家を知らずに育ってきたために、仕事で農家を訪問するたびに「驚き」の連続だったという。



まず、驚いたのが、野菜が「ふぞろい」であるということ。

「スーパー」の野菜は、芸術的なまでに同じ大きさで並んでいるが、「畑」の野菜の大きさは、テンでバラバラ。

しかし、畑に親しむにつれて、考え方は一変する。

「ふぞろいな野菜のほうが『普通』なのでは?」

逆に、スーパーのように大きさが揃っているほうが、よほど不自然なことに気づく。



「人間社会も同じなのでは?」

社会は、粒ぞろいの人材を求めるかもしれないが、じつは、人間は皆「ふぞろい」である。

「ふぞろい」なものを、無理に揃えようとするために、社会が歪む。

その歪みは、より「ふぞろい」な人々への「シワ寄せ」となって、社会問題化する。

大きさの揃った野菜というのは、じつは、全体の一部を取り出した結果に過ぎない。大多数の野菜は、「ふぞろい」なのである。



とある「桃」農家での話。

ある年は、「台風」で、全滅。

ある年は、「炭素病(桃が真っ黒になる)」で、全滅。

そんな不運にもめげず、その農家は「無農薬」の栽培にチャレンジし続けているという。



なぜ、そこまでして?

それは、「10年後、20年後」に美味しい桃をつくれる「土」を残すためだという。



「今」の利益を上げようとすれば、そりゃー農薬を使ったほうが手っ取り早い。

でも、「今の自分たち」の利益だけを考えた農法は、「土をカチカチに硬くし、虫も住めないようにしてしまう」。

そんな農法を駆使した土地は、後世に「借金」を残すようなものである。

そんな土地を、まともな生産性の高い土地に戻すには、また何年、何十年、何世代とかかってしまうかもしれない。



現代文明は、「現世利益」が行き過ぎているのかもしれない。

石油・石炭・天然ガスなどの「化石燃料」は、いずれ使い切る。

国家の予算は、収入以上の「借金」を続け、後世にその支払いの責任を押し付けている。



20世紀の常識の延長の先には、何があるのだろう。

「時間」がたてばたつほどに、不利な現実が現出してくる仕組みが至るところにある。



大地に育つ緑の植物は、太陽の光を浴びて、その光エネルギーを合成して、自分の「身体」を作り上げる。

そして、太陽エネルギーでできた植物の「身体」は、いずれ「土」に還る。

すなわち、植物たちは、無形の太陽エネルギーを、有形の「土」という形に物質化しているのである。

光を浴びれば浴びるほど、植物はたくさんの「土」を作り出す。

つまり、時間がたてばたつほど、大地は豊かになってゆくということである。



大地にとっての植物は、「貯金」につく「利子」のようなものである。

少しずつかもしれないが、時間が経つほどに「貯金(大地)」は「利子(植物)」によって、確実に増えてゆく。

「利子」に「利子」がつけば、「複利効果」によって、資産(大地)はエンドレスに増え続ける。



この「時間」を味方につけたシステムは、実に効率的であり、発展的である。

地球の長い歴史の中で、動物たちは栄枯盛衰を繰り返してきたが、植物たちは堅調に発展を続けてきている。

それは、植物たちが無限のエネルギーと直結したシステムを持っているためである。



動物たちは、残念ながら、間接的にしか無限のエネルギーを利用することができない。

だからといって、有限なエネルギーだけに依存する訳にはいかない。

ここにこそ、知恵の使い道がある。



しかし、現代文明が有限なエネルギーに頼り切っているのは、明白な事実である。

有限なものに頼るということは、「時間を敵に回す」ということである。

進みすぎた時計の針を逆回転させるには、発想の大転換が求められているのかもしれない。

「表面的」な美しさにこだわれば、時間は「敵」になるかもしれなが、「本質的」な価値に目を向ければ、時間は大きな「味方」となってくれるはずである。




参考:致知8月号
「価格破壊ではなく規格破壊で、ふぞろいな野菜を家庭の食卓に届けたい」


posted by 四代目 at 07:56| Comment(0) | 植物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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