小堀美佳さんは、その会社の野菜バイヤー。
彼女は農家を知らずに育ってきたために、仕事で農家を訪問するたびに「驚き」の連続だったという。
まず、驚いたのが、野菜が「ふぞろい」であるということ。
「スーパー」の野菜は、芸術的なまでに同じ大きさで並んでいるが、「畑」の野菜の大きさは、テンでバラバラ。
しかし、畑に親しむにつれて、考え方は一変する。
「ふぞろいな野菜のほうが『普通』なのでは?」
逆に、スーパーのように大きさが揃っているほうが、よほど不自然なことに気づく。
「人間社会も同じなのでは?」
社会は、粒ぞろいの人材を求めるかもしれないが、じつは、人間は皆「ふぞろい」である。
「ふぞろい」なものを、無理に揃えようとするために、社会が歪む。
その歪みは、より「ふぞろい」な人々への「シワ寄せ」となって、社会問題化する。
大きさの揃った野菜というのは、じつは、全体の一部を取り出した結果に過ぎない。大多数の野菜は、「ふぞろい」なのである。
とある「桃」農家での話。
ある年は、「台風」で、全滅。
ある年は、「炭素病(桃が真っ黒になる)」で、全滅。
そんな不運にもめげず、その農家は「無農薬」の栽培にチャレンジし続けているという。
なぜ、そこまでして?
それは、「10年後、20年後」に美味しい桃をつくれる「土」を残すためだという。
「今」の利益を上げようとすれば、そりゃー農薬を使ったほうが手っ取り早い。
でも、「今の自分たち」の利益だけを考えた農法は、「土をカチカチに硬くし、虫も住めないようにしてしまう」。
そんな農法を駆使した土地は、後世に「借金」を残すようなものである。
そんな土地を、まともな生産性の高い土地に戻すには、また何年、何十年、何世代とかかってしまうかもしれない。
現代文明は、「現世利益」が行き過ぎているのかもしれない。
石油・石炭・天然ガスなどの「化石燃料」は、いずれ使い切る。
国家の予算は、収入以上の「借金」を続け、後世にその支払いの責任を押し付けている。
20世紀の常識の延長の先には、何があるのだろう。
「時間」がたてばたつほどに、不利な現実が現出してくる仕組みが至るところにある。
大地に育つ緑の植物は、太陽の光を浴びて、その光エネルギーを合成して、自分の「身体」を作り上げる。
そして、太陽エネルギーでできた植物の「身体」は、いずれ「土」に還る。
すなわち、植物たちは、無形の太陽エネルギーを、有形の「土」という形に物質化しているのである。
光を浴びれば浴びるほど、植物はたくさんの「土」を作り出す。
つまり、時間がたてばたつほど、大地は豊かになってゆくということである。
大地にとっての植物は、「貯金」につく「利子」のようなものである。
少しずつかもしれないが、時間が経つほどに「貯金(大地)」は「利子(植物)」によって、確実に増えてゆく。
「利子」に「利子」がつけば、「複利効果」によって、資産(大地)はエンドレスに増え続ける。
この「時間」を味方につけたシステムは、実に効率的であり、発展的である。
地球の長い歴史の中で、動物たちは栄枯盛衰を繰り返してきたが、植物たちは堅調に発展を続けてきている。
それは、植物たちが無限のエネルギーと直結したシステムを持っているためである。
動物たちは、残念ながら、間接的にしか無限のエネルギーを利用することができない。
だからといって、有限なエネルギーだけに依存する訳にはいかない。
ここにこそ、知恵の使い道がある。
しかし、現代文明が有限なエネルギーに頼り切っているのは、明白な事実である。
有限なものに頼るということは、「時間を敵に回す」ということである。
進みすぎた時計の針を逆回転させるには、発想の大転換が求められているのかもしれない。
「表面的」な美しさにこだわれば、時間は「敵」になるかもしれなが、「本質的」な価値に目を向ければ、時間は大きな「味方」となってくれるはずである。
参考:致知8月号
「価格破壊ではなく規格破壊で、ふぞろいな野菜を家庭の食卓に届けたい」