2011年07月17日

江戸の心を明治の心に変えた「ジョン万次郎」。彼の結んだ「奇縁」が時代を大きく動かした。

「ジョン万次郎」という一風変わった愛称で知られる人物が、江戸末期から明治初期にかけての激動期を生きていた。

土佐(高知)に生まれた彼は、一介の漁師でありながら、遭難という偶然によりアメリカへ渡り、かの地で10年を過ごした後に、日本に帰国。

アメリカで得た、当時最先端の学識を活かしながら、勝海舟・坂本龍馬・福沢諭吉などなど、歴史上の名立たる人物たちとも深い関わりを持ってゆく。

今回は、この奇才「ジョン万次郎」の影を追ってみたい。



彼の誕生は「1月1日」と伝わる。太閤秀吉も、「正月の日の出とともに、世に出(い)でた」というが、真偽はともかくとしても、何とも「めでたい話」である。

実際に、ジョン万次郎は、直接的・間接的に「明治という夜明け」を導くこととなるわけである。



彼が「運命の遭難」をするのは、年の頃14歳。今であれば「中学生」くらいの時分である。仲間4人が運命をともにした。

嵐に飲まれ、海を漂うこと5日とも6日とも。奇跡的に漂着したのは、伊豆諸島の「鳥島」という無人島。



この「鳥島」は、アホウドリの渡る島として有名である。明治以降、この島のアホウドリは乱獲され(羽毛目的)、火山の噴火もあいまって、一時は絶滅が宣言された。ところが、奇跡的に13羽のアホウドリが生き残っており、その13羽が今に生をつなぐこととなった。

ジョン万次郎の奇跡も、この島が演出したことを想うと、何とも奇縁をもたらす島である。



アホウドリは、その名の通り、アホのように簡単に捕まえられる。ジョン万次郎は、この鳥島で「5ヶ月間に及ぶサバイバル生活」を生き抜くわけだが、アホな鳥がいっぱいいたお陰で、とりあえずの食糧は確保された。

困ったのは、「飲み水」である。2ヶ月以上も雨の恵みがなく、小便を飲んでなお、干からびかけしまう。

ある時、古いお墓をひっくり返してみると、その下には、井戸のように命の水が溜まっているではないか!

万次郎は、思わず手を合わせ、念仏を唱える。干からびかけた身体であったが、涙までは枯れてはいなかった。



無人島生活143日目。新たな運命は幕を開ける。

アメリカの捕鯨船、ジョン・ハウランド号の登場である。後に彼の愛称となる「ジョン」は、この船の名に由来する。

この船が鳥島に立ち寄ったのは、「海ガメ」の卵を食糧として捕獲するためだったという。ジョン万次郎は、浦島太郎のように、「海ガメ」の縁によって、竜宮城ならぬアメリカへと渡るチャンスを得たことになる。



船長のホイットフィールド氏(当時36歳)の航海日誌には、当時の様子が、こう記されている。

「五人のみすぼらしき疲れた人間を発見。連れ来るが、彼らが空腹であるという以外、何も理解する事かなわず」

渡り鳥であるアホウドリは、すでに鳥島からアリューシャン列島へと旅立ってしまっていた。

そのアホウドリたちに遅れはしたものの、ジョン万次郎にも、この船の出現によって、新たな人生の門出が到来したことになった。



船員のアメリカ人たちは、面白がって万次郎たちに「英語」を教えた。

日本での万次郎は貧しい漁師。読み書きソロバンなど、日本では高嶺の花であった。

ところが、教育を受けていなかったとはいえ、万次郎はバカではなかった。それどころか、アメリカ人も目を丸くするほどの「大秀才の卵」であった。

船上の数ヶ月だけで、以下の英文を理解できるまでになっていたという。

"There has to be iron in a man before there is iron in a whale"

おそらく、大卒ですら、この文意を正確に理解するのは難しいのではなかろうか。



アメリカの学校においても、その才は遺憾なく発揮され、難民であった万次郎は、学友たちから一目置かれる存在となった。学友の一人は、こう語っている。

「万次郎はクラスでいつも首席であり、学習に完全に没頭していた。恥ずかしがりやで態度はいつも静かで、謹み深く丁寧であった」

万次郎は、帰国後、東京大学(当時は開成学校)の教授とまでなる男である。



万次郎の巨大な原石は、10年に及ぶアメリカ人との生活により磨き上げられていくわけだが、その陰に、無人島から救い出した上に、養子にまでしてくれた「ホイットフィールド船長」がいたことは、望外の幸運であった。

万次郎は、のちに船長のことを、こう述懐している。

「The great Godを除けば、この世で最良の人である」



さあ、そしていよいよ、満を持しての日本への帰国である。

カリフォルニアのゴールドラッシュで巨富をえた万次郎は、「アドベンチャー号」を購入して、一路日本へと旅立った。

しかし、鎖国を堅持する当時の日本は、頭がカチコチで、脱藩でも「死罪」、それが国抜けともなれば……。



万次郎は、なぜ死の危険を犯してまで、日本へ戻ることを望んだのか?

母の待つ地は、万次郎にとって宿願の地であった。 万次郎は母の香りが残る「木綿袷半てん」をアメリカでも10年間大切に扱い、帰国においても、その荷のなかに忍ばせてきていた。

母との再開は無事叶い、晩年には死を看取ることまでできたという。



帰国した万次郎は、白砂に引き出されること18回に及ぶも、万次郎の奇才を理解できた薩摩の開明藩主・島津斉彬などの存在もあり、死罪とはならずに済んだ。

万次郎は先進派からは熱く歓迎されるも、水戸藩などの保守派からは毛嫌いされた。

しかし、日本は明らかに万次郎を必要としていた。彼を理解できた誰もが、のちの大仕事を次々と達成してゆく。



万次郎に触発された「坂本龍馬」は、一気に開眼し、日本を大きく前進させることとなる。

咸臨丸で一緒にアメリカに渡った「勝海舟」「福沢諭吉」も然り。

咸臨丸による太平洋横断という偉業を成し遂げられたのは、万次郎の優れた航海術の賜物である。船長であった勝海舟は、船酔いのため、全く使い物にならず、実質的な指揮をとったのは万次郎である。

万次郎には、難民時代に、アメリカの捕鯨船に乗って、世界7つの荒海を渡り歩いた経験があったのだ。

福沢諭吉(当時26歳)は、万次郎の勧めにより、サンフランシスコでウェブスターの英語辞書を買って帰る。万次郎の勧めは、「学問ノススメ」への道を開いた。

このアメリカ行きで、万次郎は大恩あるホイットフィールド氏とも再会する。この時、万次郎は、身につけていた日本刀を彼に捧げたと伝わる。



鎖国の日本をコジ開けたのは、ペリーかもしれないが、新たな世界観を日本に浸透させたのは、ジョン万次郎だったのかもしれない。

アメリカのクーリッジ大統領は、こう語っている。

「万次郎が帰国したことは、アメリカが日本に親善大使を送ったようなものだ。」

アメリカは、日本以上に万次郎の功績を賞賛している。



万次郎は才能にも恵まれていたが、何より彼の人柄が人々への影響を深めていったのだろう。

「奢ることなく謙虚で、晩年は貧しい人には積極的に施しを行い、役人に咎められても続けていたという。」

「万次郎は不思議な人だ。大名とも話すし、乞食とも話す。」

無類のウナギ好きとしても知られる万次郎は、その大好物のウナギを残してまで、橋の下の乞食友達に、その残りを足繁く持って行っていたという。



時代は急に変化したように見える時でも、その地下では、静かに静かに変化は起こっているものである。

万次郎の語る世界は、人々へ大きな期待を与えたのだろう。

もし、彼が才を鼻にかけるような人物であったとしたら、誰も彼の話に耳を傾けなかったかもしれない。坂本龍馬も、鼻をほじってアクビをするだけだったかもしれない。



時代は動くべき時に、然るべき人物を与えてくれる。

世の中の奇縁は、どこでどうつながってゆくのか、皆目見当もつかない。

自分に与えられる運命は、悲劇であれ幸運であれ、それら奇縁の一つなのかもしれない。

万次郎も、まさか無人島から拾われて、アメリカと日本の架け橋となるとは、無人島にあっては夢想だにできなかったであろう。



のちの栄光は夢想できずとも、万次郎は目先の希望を失うことは決してなかったという。

アホウドリが島を去り、仲間たちは絶望した。それでも、万次郎は仲間を励まし続け、必死で木の実を探しに島を奔走した。

水が尽きてもなお、危険な崖を這い登り、奇跡のたまり水を発見した。

ジョン・ハウランド号が島を離れたように見えた時も、万次郎は必死で船影を追いかけ、島の裏にいた船を発見した。

もし、このとき船影を追わずに諦めていたら、この船は海ガメの卵を手に入れた後は、不幸な少年たちに気づかずに島を去っていたかもしれない。



小さな小さな希望に目を凝らし、ついに万次郎は大きな希望の源となったのである。

まさに、「死中に活あり、苦中に楽あり、壺中に天あり」である。




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posted by 四代目 at 09:13| Comment(1) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
幕末外交史を調べていて、「漂着」してみれば・・・
しかし、このスレ主の記述・・・色々と・・

>読み書きソロバンなど、日本では高嶺の花であった。

当時の日本では「寺子屋」が庶民の初等教育施設として一般化
しており、「高嶺の花」と言う事はないだろう。
( 明治初年までの開設数、約1万5千 )

その為当時の日本人の識字率は世界でも抜きん出ていたと言われ
日本では、普通の庶民でも瓦版が読め、江戸文化も花開いた。

万次郎の場合は、父親を早くに亡くし、年少期から自分が家計を
支えなければならなず、寺子屋に通えなかった。


>カリフォルニアのゴールドラッシュで巨富をえた万次郎は、

巨富?、万次郎が億万長者になったと言う話は聞いたことがない
彼は労働者として懸命に働き、それなりのカネは貯めたが
金鉱での稼ぎは600ドル、現在日本通貨換算で540万円位


>「アドベンチャー号」を購入して、一路日本へと旅立った。

これでは、まるで万次郎が購入した「アドベンチャー号」で
大海を渡って帰国したかに受け止められかねないだろう。

彼は貯めたカネで「乗客」として帰る船を手配し「貨物」
として上陸用のボート「アドベンチャー号」を
積んでもらい、琉球沿岸でボートごと降ろしてもらい
上陸を敢行した。


>一気に開眼し、日本を大きく前進させることとなる。咸臨丸で
>一緒にアメリカに渡った「勝海舟」「福沢諭吉」も然り。

因みに、この時の航海(サンフランシスコ行き)で、
勝海舟と福沢諭吉の仲は終生険悪なものとなった。
艦長であるはずの勝海舟が船酔いで「役立たず」だったからだ。
また、咸臨丸の最高責任者は木村喜毅であり、勝海舟ではない。
( 万次郎は米側には、木村が提督で、勝が艦長だと説明した )

そのくせ勝はサンフランシスコに着くなり、自分が最高責任者で
あるかのように振る舞ったので日米双方の乗組員から嫌悪された。

またこの時の咸臨丸は正規の遣米使節ではなく、
正規の遣米使節団を乗せたポウハタン号の随行艦の名目だった。


>咸臨丸による太平洋横断という偉業を成し遂げられたのは、
>万次郎の優れた航海術の賜物である。
>実質的な指揮をとったのは万次郎である。

実質的な指揮をとったのは、ブルック大尉以下米国人乗組員であり
日本人側で操船に参加できたのは万次郎他、数人でしかなかった。
咸臨丸が太平洋に沈まなかったのは、最高責任者の木村喜毅が
ブルック大尉以下米国人乗組員や万次郎を起用したためと言える。

因みに、咸臨丸は幕府がオランダから購入した船。

日本人が乗った船の太平洋横断は、徳川家康の時代に田中勝介が
メキシコまで太平洋を往復横断し(1611)に帰国している。

1613年(慶長18年)伊達政宗が支倉(はせくら)常長を使者として
メキシコ経由でローマに派遣し、パウルス5世に謁見して
1620年帰国した。(慶長遣欧使節)

>このアメリカ行きで、万次郎は大恩あるホイットフィールド氏
>とも再会する。

このアメリカ行きでは、咸臨丸はサンフランシスコまでであり
万次郎他、乗員もそのまま引き返している。

サンフランシスコで引き返した万次郎が、どうやって東海岸の
マサチューセッツ州ニューベドフォードの
ホイットフィールド船長のところまで行けるのか?

万次郎がホイットフィールド船長と再会するのは、ずっと後の
明治3年(1870年)になって欧州へ派遣された帰国途上での事
開成学校(現・東京大学)の英語教授になった後の事
実に20年ぶりの再会であった。
( ホイットフィールド船長65歳、万次郎43歳 )


ジョン万次郎こと、中浜万次郎の人となり、功績は
高く評価するが・・・

咸臨丸をどかせば歴史の真実が見えてくる・・・
http://tozenzi.cside.com/oguri.htm

「明治政府の近代化政策は小栗忠順の模倣にすぎない」 大隈重信

因みに、ウィキペディアによると
「ジョン万次郎」という呼称は、昭和13年(1938年)に
第6回直木賞を受賞した『ジョン萬次郎漂流記』(井伏鱒二)で
用いられたため広まったもので、それ以前には使用されていない。

米国人側からは、ジョン・マン (John Mung) と呼ばれた。
Posted by at 2017年08月19日 17:28
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