そんな中にあって、これからお話しする人物は、日本にも素晴らしい政治家がいたことを再確認させてくれ、新たな希望を感じさせてくれるはずである。
彼の名は「和村幸徳(わむら・こうとく)」。
岩手県の小さな漁村、「普代(ふだい)村」の村長であった。
彼は国を動かすような大事を成したわけではないが、彼の功績は、先の東日本大震災において、世界中から喝采を浴びることとなった。
その功績とは、東北随一の巨大さを誇る、大堤防と大水門を建造したことである。
これら和村村長の主導による津波対策のお陰で、3.11大津波の直撃を受けてなお、村民の犠牲を一人も出すことがなかった。
防潮堤の外側にあった漁業施設が、ほぼ全滅したにもかかわらず、防潮堤の内側の被害はゼロ。彼の偉業の大きさは絶大である。
「普代村の奇跡」と各メディアが絶賛した快挙である。
3.11の大津波を直接目にしていた村民は語る。
「高台から見ていましたが、津波がものすごい勢いで港に押し寄せ、漁船や加工工場を一気にのみ込みました。
バリバリという激しい音がして、防潮堤に激突。
みな祈るように見ていましたが、波は1メートルほど乗り越えただけで、約1000世帯が住む集落までは来ませんでした」(普代村漁協・太田則彦氏)
また、大津波は大水門をも5〜6mほど越えたというが、大津波は大水門に激突したあと、その威力を減衰させ、やがて止まったという。
もし、この大堤防と大水門が、あと1mでも低かったら‥‥、「村の被害は、計り知れなかっただろう」と村民は述懐する。
同じ県下の宮古市・田老地区の防潮堤は、高さが10mもあり、「万里の長城」と呼ばれていながら、今回の大津波に軽く飲み込まれてしまった。その結果、田老地区の死者・行方不明者は数百人にも及んだ。
普代村の防潮堤は、その万里の長城の1.5倍の高さ、15.5mもあった。しかし、それでも大津波は、この高さを越えてきたのだ。
確かに、あと1mでも低かったら‥‥。
しかし、この巨大防潮堤の建造は、一筋縄ではいかなかった経緯がある。
田老地区の万里の長城を遥かに上回る「巨大防潮堤」の建造計画には、反対しないものがいなかったというほどに、批判の集中砲火を浴びたのである。
「これほどの高さは必要ない!」
「無駄に金を使うな!」
それでも、和村幸徳村長は、一歩も譲らなかった。
1mたりとも防潮堤を低くすることを、頑(かたく)なに拒んだ。
必死で県に懇願し、最後には独断で、強引に反対派を押し切った。
なぜ、和村氏はそれほどまでに強い信念を持ち得たのか?
1933年、普代村は「昭和三陸地震」の津波により、600人以上の死傷者を出した。
当時の強烈な印象を、和村氏は回想録に記している。
「阿鼻叫喚とはこのことか。
堆積した土砂の中から死体を掘り起こしている所を見た時には、なんと申し上げてよいか、言葉も出なかった」
普代村の津波被害の歴史は、これだけにとどまらない。
1896年の「明治三陸地震」においても、1000人以上の犠牲が出ている。
過去の記録を遡れば、津波が15mに迫る現実があったのである。
だからこそ、和村氏は堤防、そして水門の高さを15mとして、ガンと譲らなかったのである。
彼の固い決意のもとには、反対派の意見などは、何ら障害となり得なかった。
そして、彼の歴史に残る英断は、彼の死後14年たった、2011年3月11日に、見事に証明されることとなった次第である。
彼は村長退任のときに語っている。
「村民のためと確信をもって始めた仕事は、反対があっても説得をしてやり遂げてください。
最後には理解してもらえる。これが私の置き土産です」。
あまりにも素晴らしい「置き土産」であった。
大堤防・大水門はもちろんのこと、彼の政治的信念と行動は、後世へ希望を与えた。
「政治」というものは、多少「現在」の犠牲を払ってでも、「未来」のために苦渋の決断をしなければならないこともある。
「今だけ」を考えて行動するのは、「精神的(スピリチュアル)」とは言えるかもしれないが、決して「政治的」ではない。
真の政治家の視点は、一個人のそれよりも、はるかに先を遠望するものであろう。
そして、現在の延長線上に、何らかの不都合を発見したら、悪人になってでも、未来のために軌道修正する人物こそが、真の政治家であろう。
「政治」という絵画は、充分な時を経てはじめて、その美しさを現出させてくれる。
現在、「政治」という言葉に、良い印象が少なくなってきているが、本来の「政治」とは、「まことに有り難いもの」であると信じたい。
和村幸徳氏は、そんな政治への希望を確信させてくれる。
命を救われた普代村の村民たちは、今になって和村氏の功績に気づかされ、感謝の念を深めている。
震災以来、和村氏が静かに眠るお墓には、多くの村民が訪れ、美しい花の絶えることがない。
「最近は、見たごどのねぇ方々がいらっしゃる。あの世に行っても、人さ呼ぶ偉大な村長さんだぁ」と近所の老婆はしみじみと語る。
村民ばかりか、日本中から多くの人々が普代村を訪れるようになった。
「(和村氏は)きっと天国でホッとされているのではないでしょうか」。当時の和村氏の苦労を知る役所の人にとっては、何とも誇らしい。
大津波を見事防ぎきった和村氏の大堤防と大水門を、「歴史的建造物」として史跡としようという動きまで持ち上がっている。
もし、東日本大震災が起こらなかったら、和村幸徳氏の名前は、小さな村にとどまっていたことだろう。
それどころか、大金を投じて無駄に巨大な堤防を造ったとして、悪人扱いされていたかもしれない。
ところが、幸か不幸か、大震災により彼の名前は、世界に鳴り響いた。そして、彼の果断は世界中の賛辞を浴びた。
和村氏の本心としては、大堤防が無駄となってくれることを望んでいたかもしれない。
大堤防が活躍するということは、三陸が再び大災害に見舞われるということだからだ。
それでも、万が一の備えは急務であった。歴史の「繰り返す」という習性ばかりは、如何ともしがたい。
天国の和村氏の心境は複雑であろう。
今、東日本大震災を体験した我々は、この大震災が「繰り返される」という前提で、防災機能を高めていかなければならない。
ところが、残念なことに、この大震災、そして福島原発の事故は、「特例」だとして、防災基準にはなり得ないという意見も多い。
かつてはチェルノブイリも特例扱いされて、原発の安全基準とはなり得なかった。
悪い意味で、歴史は繰り返されようとしている。
皆、汚名を買ってまで自分を犠牲にしようとは思っていないのかもしれない。
だが、100年の汚名を着る覚悟も、政治家には必要である。
目先の選挙結果が最大の焦点となっている現実は、民主主義の弊害である。
国民の意見におもねるだけでは民主主義の未来は暗い。時には、世論の間違いを指導する勇気も求められるだろう。
和村幸徳という人物は、一個の傑物ではあったが、日本で無二の政治家ではないと思いたい。彼と同じか、それ以上の人物が日本の在野に眠っていると信じたい。
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