2011年07月03日

武士の鑑たる会津藩士。蝦夷地売却という苦渋の決断。

「会津藩」の名が天下に轟くのは、幕末動乱の最末期、新政府軍との激戦が繰り広げられたためである。

10代の少年たちで結成された「白虎隊」は、会津の武士の名を汚すまいと、「自刃」して果てる。

それほどに、会津の武士は誇り高く、その士風は他藩に賞賛されるほどであった。



「大君の義、一心大切に忠勤に存ずべく」というほどに、徳川本家への会津藩の忠節は、ひたむきである。

しかし、時代の大波には、さすがの会津藩といえども抗(あらが)えず、最後は新政府軍に降伏することとなる。



それでも、江戸の無血開城から会津・鶴ヶ城の落城までの数ヶ月間、会津藩は必死になって、徳川再興への道を模索し続けた。

新政府軍に対抗するために、奥羽越の列藩同盟を結成。薩長連合軍の北上を、東北諸藩で食い止めんと図った。

武器は新潟を経由して、フランスの「シュネル」から大量に買い求めた。

戊辰戦争勃発に先立って、アメリカでは「南北戦争」が終結。アメリカに売る予定だった大量の武器が、世界中にあふれており、武器の調達には事欠かなかった。

武器商人にとって、他国の内戦ほどに儲かる機会はないのである。



さらに、会津藩は列強の協力を取り付けんと、プロイセン(ドイツ)に蝦夷地の売却まで申し出る。

会津藩は1859年に北方警備のために、幕府から蝦夷(北海道)の一部(根室・紋別)を譲渡されていた。

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当時の蝦夷地(北海道)は、米がとれないということで、進退窮まった会津藩にとっては、無用の長物。庄内藩(山形)とともに、その管轄地をプロイセン(ドイツ)へと売り渡そうとしたのである。

国土を他国に売り渡そうとするとは、何たる非国民的な行いかと思うかもしれないが、当時の蝦夷(北海道)は、日本であって、日本でなかった。

蝦夷(北海道)を旅した「イザベラ・バード」は、「日本はどこもかしこも誰かの土地で、焚き火も自由にできない。しかし、北海道なら、どこでも焚き火ができる」と書き残しているくらいである。



蝦夷地(北海道)譲渡の話を受けた、駐日プロイセン公使の「ブラント」は大喜び。

「ブラント」は、過去2回ほど蝦夷地(北海道)を訪れており、その土地の価値を充分に評価していたのだ。

「ブラント」に同行した農業の専門家「ゲルトナー」が、北海道が「ジャガイモや麦」などの栽培に最適であると助言したためでもある。「気候は北ヨーロッパと似ており、土地は広大、水は豊か、牧畜には最適である」。

当時の日本人にとっては、国力は「米の生産力」に他ならず、米のとれない蝦夷(北海道)は、その意味で無価値であった。ところが、プロイセン(ドイツ)人にとって、ジャガイモ、麦、そして放牧に格好の土地である蝦夷(北海道)は、ノドから手が出るほどに有益な土地であった。

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しかし、プロイセンの鉄血宰相「ビスマルク」は、この会津藩の申し入れを「却下」。

蝦夷(北海道)を手に入れるということは、ロシア・フランスとの関係悪化を意味したからだ。

ただでさえ、日本の領有を巡り、欧州各国は割れに割れていた。

イギリスは日本の「生糸」の交易を狙って、薩長に肩入れし、フランスは幕府軍に武器を売り込み、内乱を激化させ、ロシアは北の大地を虎視眈々と狙っていた。

プロイセン(ドイツ)は、どちらかというとアジア諸国の植民地化には消極的で、日本に介入しすぎることで、他国との関係を悪化させることを恐れていた。

それほどに慎重であったプロイセン(ドイツ)も、戊辰戦争後、フランスとの争い「普仏戦争」へと突入することとなるのだが‥。

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8月20日、新政府軍に会津攻撃の勅命が下る。

その3日後の23日には、鶴ヶ城を包囲。

落城したと勘違いした「白虎隊」の悲劇は、この時に起こる。



会津藩主「松平容保(かたもり)」は孤立無援の中でも、一ヶ月も激戦に耐える。さすがは蒲生氏郷以来の名城よと謳われる。

しかし、9月22日、容保は降伏を決意。

家老・萱野権兵衛の切腹により、御家断絶は免れるものの、容保は鳥取藩あずかりの禁固刑。許された嫡男の容大は、斗南藩(青森)3万石へと流れてゆく。

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鶴ヶ城の落城とともに、幕府再興の夢が断たれた会津藩であったが、それでも諦めない会津武士たちもいた。

彼らは、かつて武器を融通してくれたフランスの「シュネル」とともに、アメリカへと落ち延びる。「シュネル」には、「会津の将軍」と呼ばれるほどに日本贔屓な面があったようだ。

会津武士たちは、カリフォルニア州に「ワカマツ・コロニー」という入植地をつくり、いつかの再起を夢見て、力を蓄えんと、「クワ・竹・お茶」などを栽培。

なかでも「クワ」は、会津の人々にとって格別の思い入れがあった。お隣・米沢藩の上杉鷹山が地域振興にクワの栽培を奨励して成功したこともあり、会津の人々にとってのクワは、復興のシンボルでもあったのだ。

会津の武士たちは、地域のアメリカ人にも評判で、その礼儀正しさや武士らしさを高く評価されていたようである。

しかし、彼らが日本に戻れたかどうかは定かではない。

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会津藩がプロイセン(ドイツ)に、蝦夷地(北海道)を提供したという事実は、近年の外交文書により明らかになった事実である。

そして、その実現に動いたのが、駐日プロイセン公使の「ブラント」と、農業専門の「ゲルトナー」。

特に「ゲルトナー」は積極的で、函館近郊の地の開拓を開始していたという。

その時に植えられたのが、ジャガイモや麦、トウモロコシなどの現代の北海道を代表する作物。つまり、ゲルトナーの開拓戦略は、クラーク博士を経て、後世に受け継がれたこととなる。

北海道の農産物は、プロイセン(ドイツ)由来のものが多いのは、そのためである。



江戸から明治にかけての日本は、一歩間違えれば、植民地化されていた可能性すらあった。

それでも、日本は日本として生き残った。

神州ニッポンを外国人に穢されてはなるものかと、皆必死だった。

それは、新政府軍であろうが、旧幕府軍であろうが、同じ想いであったろう。

日本の誇る、会津の武士魂。その最期の煌(きら)めきは、現代日本人も賞賛し、涙するところである。



出典:BS歴史館 発見!戊辰戦争
「幻の東北列藩・プロイセン連合」
posted by 四代目 at 12:36| Comment(8) | 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いや、会津は藩のことだけをおもってドイツに北海道うろうした売国奴だろ

なにが会津魂()だ、売国そのものじゃねえか
長州に見下されるはずだわw
Posted by at 2014年09月15日 16:40
これ、売国行為じゃないですか。
会津は天皇の忠臣が謳い文句でしょ。
国土=天皇ですよ?
なぜ売国行為を称賛してるんですか?
Posted by at 2015年01月15日 13:12
売国奴に相応しい末路だよ会津
Posted by at 2015年06月21日 20:32
会津では売国が武士の鑑なんですね
Posted by at 2015年11月19日 21:39
いい事聞いたわ
オレ山口県民だけど会津の奴が喧嘩腰にかかってきたら
会津の売国行為を言って黙らせてやるかw
Posted by at 2016年07月30日 03:26
>神州ニッポンを外国人に穢されてはなるものかと、皆必死だった。
>それは、新政府軍であろうが、旧幕府軍であろうが、同じ想いであったろう。

国土を切り売りしようとしていた事実を分かっている上でこの言葉を出すって、あなた頭おかしいですね。しかもその根拠が外国人の発言の引用ですか。
当時の北海道も我が国の領土ですよ。

領土意識が曖昧であるから切り売り可能という理屈であれば尖閣も北方領土も竹島もそうなりますね。中国の主張そのままで面白いですね。
Posted by at 2016年09月25日 20:17
天皇の意志ということにされている『王政復古』に従えば、蝦夷地=日本の領土とはいえないでしょう、天皇親政期の5〜8世紀の状態に戻すというのですから。

同時期の大和朝廷≒日本(領土)はせいぜい近畿地方+諏訪の南半分までくらいで、蝦夷地は含まれません、当然、売国なんて言えなくなります。

また、アイヌ・オロチョン・ギリヤーク人の立場や意見はここでは無視されているのも不思議です。
Posted by at 2017年08月21日 22:36
叩いてるバカ共、ちゃんと読めよ
当時の蝦夷は「日本であって日本でなかった」
って書いてあるだろ
当時の「神国日本」に蝦夷は含まれてなかったんだよ
だから「日本(蝦夷含まず)を守るために蝦夷を売る」
と言う発想が成り立つんだよ。
現代の領土国家の感覚のままで当時を叩くのは
現代の人権感覚で過去の性差別を叩くフェミ子と同じだぞ
Posted by at 2017年11月07日 04:33
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