このニワトリは、明治維新後の「サムライ養鶏」の産物である。
江戸時代の終焉とともに、「武士」という身分がなくなった。
その結果、元・武士たちは大量失業。新たな職を必要とした。
そんな折、尾張藩(名古屋)のサムライであった「海部兄弟」は、「養鶏」を始めたのである。
明治以前、日本での「養鶏」はマレ。
ニワトリと言えば、「闘鶏(シャモ)」や「ペット(チャボ)」であった。
卵や肉の販売を目的とした「養鶏」は、明治以降に発展した産業である。
サムライ養鶏の走りであった「海部兄弟」は、試行錯誤の連続。
ときには、「コレラ」により、大切なニワトリを全滅させたことも。
幾多の交配を繰り返しながら、苦心の末に、ついに「名古屋コーチン」が誕生。
「名古屋コーチン」は、中国の「バフコーチン(九斤)」と「地鶏」との交配から生まれたという。
この傑作は、またたく間に世に広がり、明治・大正とかけて「ニワトリの代名詞」的存在となっていった。

ところが、第二次世界大戦後、転機が訪れる。
外国産のニワトリが、日本の国内市場を席巻。
今や鶏肉市場の86%を占めるまでになった「ブロイラー」の襲来である。
ちなみに、日本にブロイラーを持ち込んだのは、大阪「くいだおれ」の創業者・山田六郎氏である。
デカくて、卵をたくさん生む外来のニワトリに、「名古屋コーチン」は押しに押され、あわや駆逐されんまでに追い詰められた。
土俵際の「名古屋コーチン」。しかし、ここからの「ネバリ腰」が凄かった。
大量生産・大量消費にヒタ走った「養鶏」の中にあって、「名古屋コーチン」は、その真逆の道を選んだ。
少量生産・高品質である。
「種の保存(繁殖)」を一元的に徹底管理して、「名古屋コーチン」の純血を保つ。
一般農家の繁殖は認められていない。必ず純血のヒナを購入する必要があり、そのヒナを「交配」しないことを明記した「誓約書」にサインまでさせられる。
その甲斐あって、現在の「名古屋コーチン」は、最高級品の栄冠を戴いている。
生産量は、鶏肉市場のわずか0.1%(100万羽)と少数ながらも、その地位は確固たるものである。
大量生産・大量消費の道を歩んだ「ブロイラー」は、生産効率を優先させたがあまり、その飼育環境は「物議を醸す」。
エサが少量で済むように、ニワトリをギュウギュウに押し詰め、身動きがとれないようにする。あまり動き回られると、腹が減ってエサを余計に食ってしまうのだ。
その結果、ブロイラーの30%は、自分で体を支えて立つことができずに、歩行困難となっている。
密集環境では、お互いが「クチバシ」で突っつき、ケガをしたりする。そこで「クチバシ」を切断してしまう(日本ではマレ)。
また、早く出荷するために、24時間、電気で光を当て続ける。世界動物保健機関は、ニワトリが休めるよう、「暗がり」も必要だと訴える。
ブロイラーは、もはや「生きた工業製品」と化しているのである。
かたや、「名古屋コーチン」は、ブロイラーの2倍のエサを食う。動き回るので腹が減るのだ。その分、筋肉が発達し、良い肉になる。
飼育期間も120日以上。これはブロイラーの3倍近く長い期間である。
120日という飼育期間は、自然界のニワトリの平均的な期間である。ブロイラーは出荷サイクルを早めるために、急激に成長させられているのである。

ブロイラーは、経済性を徹底して追求した結果の産物であり、名古屋コーチンは、ニワトリの本来の力を追求した結果の産物である。
農業を商業的に行うジレンマが、ここに示されている。
動植物の本来の力を無視した「拡大路線」は、見えない危険をはらみ続ける。
旧来の農家は、その危険を肌で感じている。しかし、それが解っていても、規模を拡大しなければ経営が成り立たない。
営利のためには、農業が工業化せざるを得ないのである。

消費者たちは、知らず知らずのうちに、彼らが「望んでいない未来」を選択しているのかもしれない。
日本の農業を健全に保つのは、生産者だけではなく、消費者の責任も厳然としてある。
表面的な価格の安さには「然るべき理由」がある。高価格には「然るべき価値」がある。
ここにも先のジレンマは登場する。それが解っていても、安いものを買ってしまうのだ。
農業においては、生産者、消費者ともに、同じジレンマに直面している。
そのジレンマの根っこにあるのは、経済第一義の思想である。
名古屋コーチンは、このお互いのジレンマを抜け出した、稀有の例であり、今後の指針を示す「希望」でもある。
飛べないニワトリの見事なる飛翔である。
出典:いのちドラマチック
「名古屋コーチン よみがえったブランド鶏」